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茶道は時間のモンキーレンチなのかも

ブランクの期間を抜くともう8年くらいお茶をやっている。一番長く続いている趣味かもしれない。

始めたばかりの頃は始めて3年くらいで「これは一生続けられるな。続けるほど面白さが増えてくるな」と感じたのを覚えている。

「お茶の何が楽しいの?」と聞かれた時に自分なりに整理された答えをもっていたくて、感じたことや感じていることも含めて文字に起こしてまとめておこうと思う。

もちろん、文字にできないこと、論理にできないこと、感覚でしかわからないこともたくさんあるのだけれど。言葉で表せる部分と表せない部分、両方の輪郭を手探りで見つけていきたい。

不立文字、言葉にならずに心で伝わっていくものが確実にあることを信じたくて。ただそのためにやっているのかもしれない。

お茶の面白さってなんだろう?とリストアップしてみると

・時間との向き合い方が変わること
 ・季節、自然との向き合い方
 ・大切な人と贅沢な時間を過ごすための手段
・身体との向き合い方が変わること
 ・「身につける」ことの大切さが解ること
 ・身体の動きと心の動きの関連を知ること
・心との向き合い方が変わること
 ・平静でいること、今ここの大切さ
・歴史との向き合い方が変わること
 ・ 焼き物を含む道具、料理、お菓子、伝統、宗教、日本に留まらない歴史
 ・禅の言葉
・おもてなしへの向き合い方が変わること

この辺りかなと思います。時間に対する向き合い方から考えてみようかなと思います。

速い時間と遅い時間・同じことの繰り返しの二面性

追われるのはそんなに気持ちいいものじゃない。
できればのんびりと暮らしていたいけれど、日々詰め込まれている予定をこなすだけで安らぎの時間が消えていく。同じことの繰り返しに疲れている。

同じことを繰り返しているうちにいつの間にか季節は変わっていることもあったり、季節らしいことなんて少しもできないままで次の季節を迎えてしまったり、夏にのんびり海を見に行こうなんて思い立って、のんびりできる海を検索窓に打ち込んだのはもう2年も前のことだったかもしれない。

ただでさえ時間に追い立てれているのに、身についてしまった行動はそう簡単には変わらなくて、大好きなインターネットを見ると際限なく溢れる情報にめまいすら感じるくらいで、Twitterに垂れ流すのは短く心のない言葉ばかりになってしまうこともあったり。

遅い時間を得るためにはどうすればいいだろう?と思い立って、マインドフルネスなどの本を読んだりするけれど、論理から入ってもどうにも解決が遠い気がする。大学をでて暫くご無沙汰だったお茶を再開しようと思ったのは、そんな悩みを解決してくれると思ったからだ。

始めたのも同じ理由だ。お菓子でも食べてお茶でも飲めばいいかな。それくらいのノリ。

お茶は同じことを繰り返す。お点前という決まった手続きに従ってお茶を点てる。お客さんにお茶を出すためのプロトコル。決まりきったセリフを交換する。茶番という言葉がまさに当てはまる。「今のお茶はいかがですか?」「大変美味しいです」こういったやり取りも形式的だ。日々是好日という映画で樹木希林が演じるお茶の先生が言ったように、同じことを繰り返せることは、実は却って幸せなことのように思える。

形式としては同じことの繰り返しなのだけれど、身体の状態や心の状態に連動して、繰り返されることの実態自体は毎回異なっているのだろう。今と同じ状態で同じことをすることは、今後二度とないかもしれない。

同じことは繰り返されるが、繰り返していくうちに解ることがある。当然は、速く成長したり、速くキャッチアップすることは大切なのだけれど、続けないと解らない事がある。続けることで身体と、そしておそらくは神経回路に刻み込まれて、それだけが定着して残っていく。

それがない限りはおそらく、いつまでも追われ続けてしまう。時間の歯車を緩めることができずに、いつか壊れるんじゃないかと怯えながら過ごす羽目になると思う。繰り返しを恐れないこと、速すぎる時間や、速さを絶対的価値とする基準の中で生きながらも、心のどこかに遅い時間軸を持つこと。

遅い時間を生活に取り入れるための1つの方法としての、お茶。茶道としてそれを実践しなくても、お茶の文脈を取り入れながら抹茶を点てて和菓子を口にするだけでも、時間を緩める効果があると思う。

お茶の中のゆるい時間

お茶の中には沢山のゆるい時間がある。茶事と呼ばれる正式なお茶はお茶を飲むための壮大な前置きをする。空きっ腹にお茶を飲むのもナンなので、ご飯を食べてお酒を飲んでから重めのお菓子を食べて、濃いお茶を飲む。そのあとで軽いお菓子を食べてから薄いお茶を飲む。全部とおしてやると3時間以上はかかってしまう。

ホスト側の人(亭主と呼ばれる)はお客さんの前で、写真のようにお茶を点てるための炭を綺麗に整える。お客さんが懐石を食べている間はパチパチと静かな音を立てながら。炭の火は釜の中に入ったお湯を熱し続ける。ただポットで沸かして出すのではなく、お客さんの前で火を起こすことで、ライブ感がもたらす一回性の美しさと、時間をかけることによる重みがお茶を飲む体験全体に与えられるのだろう。

他にも、また映画からの引用になってしまうが、日々是好日では干支にちなんだ道具を前にして黒木華が「この道具、12年に1回しか使わないんですか?」と印象的なセリフを述べるし、最後のシーンでは樹木希林が「それじゃあ、次の○○年の時は私は1XX歳(今より12歳年取ってる)」といったニュアンスのセリフを述べる。(本当に悲しいことに彼女が演じる役をもう見ることはできなくなってしまったけれど)

春夏秋冬、各季節にしか使えない道具もあれば、特定の干支でしか使わない道具もある。たまにしか来ないからこそ、お気に入りの飾り付けでお祝いをしたくなる。干支の繰り返しは、比較的長い周期の繰り返しの構造であるから、繰り返せることの幸せと、人生で何回も経験できないという意味での一回性の切なさを生活の中に取り込むための古の人の知恵であるように思える。

特にオチはないのだけれど。お茶という文化の中には時間の流れを緩めるためのきっかけが無数に散りばめられている。遅い時間の中で繰り返さないと解らないことが多いし、形式は繰り返せても同じことは二度とできないからこそ、一期一会なのだろう。今というこの一瞬を大切にするきっかけを、お茶はたくさん与えてくれる。

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