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新しい孤独と、新しい表現が生まれるだろうなと

 電車にこんなに長く乗らないなんて初めてだ。高層ビルを見ないで、住宅街にこれだけ長く留まり続けるなんてのも初めてだ。

 都市に生きているのに、家に引きこもっているとそれを感じない。もちろん、ひとり空間の都市論で記述されていたように、「ひとり」が利用する都市が多い東京という町で生きてきた自分にとって、COVID-19対策、緊急事態宣言による外出自粛要請の下での生活体験は、想像よりも遥かに異常なことであった。それでも、このまま「平常」に戻ることはないのだろう。

 散歩がてら見える現代的な建築に目を奪われる。幹線道路をゴオゴオと音を立てながら行き交う数多の自動車を疎ましく思う。生活を運ぶ路線バスがガラガラなのを見て、生活が消えたことを実感する。行き先の東京タワーの幻影を求める。首都高の合間から見える、橙のその姿を見て、この東京という都会に生きていることを感じたい。

 なぜって、感じられなかれば、あまりにも「ひとり」過ぎるから。孤独は愛せるけれど、ここまでの孤独は果たして、永遠の友情関係を築くに足るだろうか?いや、足りすぎるのだろう。

 これまでは「ひとり」の状態を作るために、密集した場所で揉めの前にガラスのスクリーンを持ち出して壁を作っていたのに。今は感染を防ぐために自ら敷居を用意しなければいけないどころか、ただ存在するだけで「ひとり」になってしまうのだ。雑踏の中にいなければ、匿名でいることができないという意味では、僕たちは古典的な都市生活者の孤独なんてものを感じられなくなっていくのだろう。それでも下記の記事で整理されているように、これまでも変化してきたシティポップは、これからも進化していくから、別のタイプの孤独が描かれていくのだろう。世の中は大きく変わらざるを得ないけれど、それでも僕らは生きていくのだから。

 茶室のような狭い空間に広がりを見いだせることが日本っぽい精神性だとするならば、今後もWFHでしばらく働いていくに際し、空間を広く見せる(もしくは感じる)ための知恵を取り出せないだろうか?それはもしかしたら貧乏くさいと馬鹿にされるのかも知れないが、僕らが歴史の中で蓄積してきた大切な、忘れてはいけないことだろう。受け継ぐべきものを、探すために伝統の実践を続けようと思う。例えばお茶であったり、例えばお花であったり。

 

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