神経たち #8
軽やかな電子音を鳴らして、ナナコの住むマンションのエントランスのガラス扉が開く。音が明確な警戒の色彩と形状をしていて、切っ先が侵入者である僕の鼓膜に突き刺さるように思えた。僕は拒絶される時の痛みに近い何かを感じてヌメリとした汗を拭いながらエレベータで上に上がり、目を瞑って力を込めて鍵を回した。
音もなくナナコの部屋のドアノブはなめらかに回り、僕を中に招き入れた。ドアを背にホッと一息ついて、鍵屋の作ったコピーキーをポケットに滑り込ませる。今度は拒絶の音色が聞こえない。首筋に張り付こうとしていた粘っこい汗はゆっくりと床の方に流れて、無色透明なまま床を貼ってドアに吸い込まれていき、ドアノブの潤滑油となって消えていったように思えた。後ろ手に鍵を閉めると、ナナコの部屋という穏やかな水に満たされたような空間に立った小さな波は収まり、元通り、僕という異質の存在が端に置かれただけの平穏な水槽に戻った。
部屋の穏やかな空気の流れ、僕の内側にあった変な痛みが引いた。警戒の色彩はなかった。穏やかに流れる水のような感触、僕は今や、唐突に投げ込まれた塩水を好むクラゲで、浮力に逆らいながらゆっくりと水槽を揺蕩っているのだ。きっと身体の半分は意志を持っていて、半分は成り行きに任せてしまっている。
僕は無意識に後ろのポケットにねじ込んでいた安いウィスキーの瓶を取り出して、口を直接つけてゴクリ喉を鳴らした。勢い余り咽そうになり口を抑えた。拒絶や警戒の気配はないけれど、音を立てることはまだ許されていないような気がした。昨今は鍵屋に任せきりだったから、他人の家に忍び込むのは久しぶりの感覚だった。喉がすぐに乾く、何をしても足りない感じがした。気持ちが今にも弾け飛びそうなくらい張っていた。
忍び込むなんてことは捕まる危険性が高すぎて、これまでやる理由がなかったのだ。そもそも外から計測するだけで、僕には十分だったのだから。
今回は衝動に任せてしまった。
身体の半分が僕を、早く脱出させようと外に引っ張っている気がした。音を立てれば、小さな水槽に似合わないサメが唐突に姿をあらわすかもしれないし、そいつに追い立てられて袋小路に迷い込んだ挙げ句、酸欠になり窒息するかもしれなかった。
右手に洗面所、化粧台に並べられた淡い色の擦りガラス達、建てられたマスカラ、ファンデーションのケース達。左手にリビング、彼女と男たちが愛の営みを行うソファの置かれたあの部屋への入り口があった。心臓が高くトンと鳴って、内側から僕に響くその音だけが聞こえた。他の音はまるでしなかった。クラゲに心臓は無いはずだから、そんな音は幻想だと思いたかった。平常心を保とうと、僕は血の巡りを感じながら色々なことを考えていた。僕自身のこと、ケイゴのこと、カメラのこと、ナナコのこと。
淡いピンクで飾られたドアは無抵抗に、波にまかせる海藻のようにふわりと開いた。昼下がりの優しい光の差し込む、生き物の居ない水面。息を深く吸って、深く吐いた。満ちているのは穏やかな水、サメも、砂の底に潜む凶暴な蟹の姿もない。光を感じたら鼓動音が収まった。心臓なんて元からなかったかのように。
僕はやはり、意識を持たずにただに浮かぶクラゲであったらしい。僕はもう一度、持ち込んだ安酒を煽る。アルコール臭で僕の存在の痕跡が残ってしまうかもしれない。でも香りがまるでしない気がした。けれど、匂いに敏感な女性ならば気づくだろう。
そもそもどうして来てしまったのか?
衝動に任せて。
そうだ、カメラだ。カメラを確認したい。
しかし、気づかれたら、どうなるだろう?ソファをなぞると、布はほんのりと暖かく、さらりと流れるような感触。材質が持っている自然の感触にまぎれて、彼女と男たちの汗の感触がするように思えた。金色の足を生やした、直線的な白い天板のダイニングテーブルの上には飲みかけの紅茶。冷めていて、放って置かれていて寂しそうだった。少し離れた所に置かれたデスクの上に、背中に黒いステッカーが貼られたナナコのノートパソコンが置かれていた。ソファの正面には簡素な木地の棚が置かれていて、並べられた円錐状のガラスの花入れには、細身のユリが仲良く並べて入れられていた。見るとすぐに、それは香った。
距離を全て飛び越えて鼻に届いた。甘い香りが運ぶ微かな囀りが漂う。色とりどりの金管楽器のように開いた花びらから、甘美な音楽を奏でるように鳴り始める香りのメロディ、花たちはさらに大きな香りを放ちたがっているのを、理性で抑え込んでいるように見えた。
理性、花ですら、理によって自分を律している。
僕は衝動的に、忍び込んでいる。
僕は、高らかに吹かれる音の波を想像する。ここは水中ではなく空気中だ。早く伝わる音、高音、始まりの音色、高い温度の音。サーモグラフィに映れば赤く輝くでああろう、正のエネルギーに満ちたその音。囀るユリたちの脇に置かれたクマのぬいぐるみ。持ち上げると、やはり綿以外の重さ。中にはカメラが仕込まれている。違いない。計測記録上の場所と、一致する。
置者が誰であるか、分かるはずもないのに、僕はナナコの部屋に入り込むなんて危険を犯している。設置者が通報すれば、少なくとも顔の割れている僕は罪を問われることになるだろう。カメラの向こう側の誰かは通報するだろうか?僕を敵視するだろうか?怖かった。牢屋の中ではいつもの計測なんてできるわけない。自由を奪われて閉じ込められて、そこで僕は何を観察すればいいだろう。僕は向こう側にいるはずの観察者を意識して、くまのぬいぐるみに向かって挨拶した。カメラには電源コードのようなものはなく、バッテリー式で駆動しているらしかった。
僕はそれを、元の場所から少しもズレないようにそっと戻し、それから右手をかざして申し訳程度に顔を隠した。部屋を見回すと、リビングの脇の控えめなサイズのキッチン、青い鍋と、くすんだグレーの皿がシンクの脇で乾かされていた。チリ一つない床はよく乾いていて、人の歩く音を滑らせて弾き飛ばしていた。棚に並べられたお菓子作りの本、フランスの家庭料理の本、揃えられた高さ、写真立てに並ぶ集合写真達、幾つかの写真を手にとって見たけれど、どの写真の中でもナナコは、存在を隠すかのようにそっと写り込んでいた。やはり彼女は、隠れようとするタイプなのかもしれない。
白い電気のスタンドはニュッと伸びて、ソファのあたりを照らす位置に陣取っていた。薄いグレーとくすんだ緑で描かれた雫模様のカーテンの隙間から、外の世界が見えた。視界を遮るものはほとんどなく、膨らんだ入道雲が遠く遠くに見え、灰色の雨雲がその向こう側に見えた。
天気が悪くなりそうだ。嫌な予感がした。すぐに的中した。
「誰?」
床を滑り飛んでくる音、ないはずの、いや、ないと錯覚しようとしていた僕の心臓が突然早回しになって、爆発して飛散しそうになる。高速回転する心臓は急激に熱を帯びて、熱は焦りに変化し、今度もまたネバつきながら僕の首筋のあたりから吹き出し始めた。敵意を剥き出しにするべきなのは声の主の方なのに、僕は身構えて声の方を振り向いた。
あの日、改札を抜けていった短い茶髪の女性、水槽の主であるナナコが、ビニールの買い物袋片手に立っていた。僕は一歩も動けなかった。足は硬直して、水底に沈む岩になったみたいだった。
計測ができなくなる日のことを考えた。
不器用にナナコの方に突き出された僕のこぶしが弱々しく空気を押した。
「今日はまだ誰も呼んでないのに。誰?もしかして、私を探してここまで来たの?でも、どうやって私の部屋に、入りこんだの?」
どう答えるべきか、判断が止まる。僕は何も返さないで。拳に込める力を強くした。彼女が買い物袋を握る手にも力が入っているのが分かる。僕はとにかく、黙っていた。喉が固くて、息が詰まりそうだった。
「こういう日がそのうちくるって、思ってたけど、私を見て、ここにきたの?でも。残念かもしれないけど、多分、あなたの知っている私の顔と、目の前にいる私、違う顔をしてるはず」
彼女は何かを理解し、飲み込んだような温かく透き通った、弾むような瞳を僕に向けながら、そっと買い物袋をソファの上に置いた。少し僕から距離をとって、腕を強く組んでいたが、思っていたよりも冷静なようだった。
「私からは、特に何もしないよ、その手、下ろせば?」
拳に加える力を弱めると、力を入れすぎて親指の付け根辺りに食い込んでいた爪の痛みが引いていく、下ろした両手そっとを組み、右足を前にして彼女の方に顔を向けた。心なしか囁きからさえずりへと声の大きさを変え始めたユリの香りの中で、僕はナナコと向かい合った。
「とある事情で、君の様子を見ていた。気になることがあって、それを調べるためにここに来た。なにか乱暴とか、そういうのをするつもりは一切ない。何もしない。本当に。言われれば、すぐにでも出ていく」
「やっぱり。見ている人なんだ」
彼女は腕を組んだまま不敵に笑って、間を開けることなくすぐに答えた。
「何もしない。なんて、嘘」
そう言って彼女が小さく笑うのを見て、僕もつられて、口元を緩めた。首筋の汗がわずかに粘り気を失うのを感じた。あくまでも、僕は侵入者で、彼女がどう振る舞うかが僕の命運を握っているのに。
「分からない。人を呼ぶために叫んだり、入口の方に逃げたりしないの?でも、僕は、忍び込んではいるけれど、何もする気はないんだ。ただ、様子を見に来ただけなんだ」
「そんなこと、しないよ。でも、あなたは、ずいぶん普通そうというか、思ったよりも若い人だったから、ちょっと驚いちゃった。もっと毛むくじゃらの人とか、太った人とか、猫背で暗い目をした人が来るかと思った。確かに少し姿勢が悪いし、もしかして酔っ払ってる?すごいお酒の匂い。でも、あなたは全然普通に見える。それか、なんだろ、もっと危なそうな人が来ると思った。細身で、少し色黒で、すぐ怒鳴ったり、すぐ叩いたりするような人とか、目が怖い感じで、私になんか興味がなくて、私に対して何かする、自分のことばかり見ていそうな人。でもあなたは、そのどちらでもなさそう」
「乱暴をしたりはしない。僕はそうだ、クラゲみたいなもんだ。何もする気はない。見ているだけなんだ。今日もただ無意識に、フラフラとここに流されてきたんだ」
半分は無意識に、半分は意志を持って。僕はまた、拳を握った。
「身体つきは良くないし、クラゲ、って言われると確かにそうかも。見ているだけの人が、見ても何も変わらないのに、そのためだけにここまで来たの?ネットでいくらでも、私のこと見れるのに」
「何もする気はないんだ、僕はどうすりゃいい。それに、ネットで見れるって?」
「変なの、調子狂っちゃう」
彼女は不満そうな目つきをして、僕の身体を臍のあたり、頭の先、つま先までを見る。僕も条件反射的に、彼女の身体を眺める。なんだか仕返しをしているみたいな気分だった。筋肉質の腰回りと脚付きは、よく冷える脂肪をほとんど蓄えておらず、代謝がよさそうだった。組まれた手もまた、細く筋肉質で、骨ばっていた。地肌は焼けていて、太陽に好まれた少年少女たちを思わせた。買い物袋をも持つ手にかかる力、腕の筋肉や指先の熱量に思いを馳せた。全身が熱を持って赤く見えるような気がした。また錯覚だった。でも、本当に僕の目が温度のセンサならいいのにと思った。
お互いに見合った後、彼女と目が合った。彼女は笑った。
「なんだか、本当にクラゲみたいな目つき。いやらしくない。もっと湿った感じの目をすると思ったのに、すごく、カラカラに乾いた感じ。どうして?やっぱり実物の私は、あなたの想像ほど魅力的じゃなかった?」
魅力的かどうか、僕はよく分からなかった。想像よりも代謝の良さそうな身体をしているとだけ伝えたかった。そんな事を伝えても何にもならない気がしたし、失礼になる気がした。クラゲはクラゲらしく、黙っているしかない気もした。
苦しかった。
それでも何かを話さないと、黒いどろどろで喉が固まる気がした。
「君は、どうして警戒しないの?普通は、僕みたいな見知らぬやつが入ってきたらもっと、もっと大変な反応をすると思う」
「私、あなたみたいな人が来るんじゃないかと、思ってたから。色々、想像していたから。私の映像を見て、私がビデオに散りばめているヒントを見て、推理してここまで来たんでしょ?ああいう映像とか写真とかを撮ってる若い女の子が、住所の一部とか、家の周りの風景とかを写し込んでいるのを見て、無防備で無知な女だと思って、少し見下した感じで来たんでしょ?どんな子なんだろうって、好奇心いっぱいで来たんでしょ?」
彼女は淡々と堂々と、ゆっくりと一言一言が大きな言葉の粒になるように話した。風景、散りばめられたヒント、そんなものは知らなかった。知る由もなかった。
「ビデオ、僕は見てない。君が?自分自身で?クマの中にカメラを?」
「そう自分で、自分を撮ってるの。私の身体を、撮りたくて」
僕がクマの方を見ると、ナナコも釣られたのかクマのぬいぐるみの方をチラリと見て、腕を組み直して目を細めた。少し間が空いた。粘っこい沈黙は奇妙な邂逅をしている二人の男女を笑い飛ばそうとしていた。頭が痛かった。喉が乾いた。息苦しさは少し引いた。彼女は記憶の綱の結び目を手前から順番に調べ直しているように見えた。解れやざらつき、消耗、時間の経過とともに掠れていくものとそうでないものを選り分けているように見えた。
「クマの中?」
そう言って彼女は腕を組み直して、戸惑いながら小さく笑った。
「カメラの場所、どうして知ってるの?」
綻び。彼女は恐らく、僕がクマの中身を知っているなんて思っていなかった。彼女の僕に対する疑いがみるみる彼女の表情に暗い影を落としていくのが見えた。始め潤んでいた瞳はすでに乾いていた。カラカラと乾いた、警戒の嫌な手触りがちらついた。僕は腕を組み替えた。手首の周りがヌメリと濡れているように感じた。壁を伝わる外気と、二人の体温に当てられて、部屋は少しずつ暑くなっていた。
どう説明すればよいのだろう?
少なくとも、悪意がないことを証明すればいいのか。
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