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あまたの小さなコンパイラ

    朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。タクマの携帯端末のスクリーン上で開かれた《文》にはそう記されている。そして実際に、テレビを自宅に持つ人間はみんな、《文》の通りに毎朝テレビのスイッチを入れ、淡々と告げられる終末へのカウントダウンを耳にしている。
 《文》には毎日のカウントダウンの告知が記され、そのうしろに十分な空白を伴いながら『…。朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと六日になりました」と言う。…。朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと五日になりました」と言う。…』と続き、最後は『時は来て、世界が終わる。』と結ばれている。《文》の通りに事態が進展することを、もう誰もが知っていた。
 三年前に《文》が現れた時は、カウントダウンは残り3年だった。今となっては可笑しいくらいに懐かしい。
 東京都文京区、大学と寺社が静かに並ぶ路地の一角に居を構える花屋に、店主のタクマは市場での仕入れを終えて帰ってきたところだった。《文》の通りに世界が終わるならば、日常を素敵な色に彩る美しい花も、慶弔の折に集う者たちの感情に捧げる淑やかな花も、どちらも最早その用をなさないと思われたけれど、市場は働く人の数こそ減りながらも稼働していた。
 タクマは彼の腕二本分くらいの径のあるガラスの花器に、絢爛な夜会を窓辺で待つようにおとなしく八重にすぼんだ幾色ものトルコキキョウを入れていく。
 携帯端末が小刻みに2回震えた。それぞれが別の出来事を告げる。
 1つ目の通知は彼の手元に保存された《文》に対する更新の勧めだった。彼はスツールに置かれた端末を拾い上げ、通知を開いた。
『朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。みなそれを自然に受け入れると、誰もが無気力になり、世界は停止し、滅びの予言より前に世界は終わった』
 どこぞの他人が送りつけてきた唐突な更新の勧めを拒否するため、《文》を開くアプリ上で拒否ボタンをタップした。
 月並みな絶望など、実際には訪れなかったし、望んでもいないのだから。
 全世界に公開されている《文》の雛形を、誰もが閲覧できる。雛形を端末にダウンロードすると、それはコピーされて手元に保存され、誰かの《文》となる。編集し保存することもできるし、保存した《文》が気に入ったら、周囲に向かって更新の勧めを送ることができる。
 保存する時エラーにならなければ、《文》に保存された内容は《文》の持ち主に対して実行され、《文》通りの作用が発生する。
 例えば、彼は二ヶ月ほど前にこう記した。
『…。それを聞いた彼は、終わってしまう前にネズミとして過ごすことにした。1時間の間、彼はネズミとして過ごし、泣いた』
 《文》は保存を受け入れ、タクマは直ちにネズミの姿になった。
 開店の準備のさなかで《文》を更新したのは思慮が浅かった。片手に持っていた花切狭が床に跳ねて滑り、花たちの眠るフリーザーの下に滑り込んでしまった。心臓が小さくなり、鼓動が早くなったせいで時間が経つのが随分早くなったように感じた。目は利かなくなり、視界はぼやけた。代わりに、愛しい花たちの愛撫する様な匂いが地図のように体の周りに模様を描くように知覚された。ブルーでスパイシーな香りが左手側に、アニスの甘みが右手側に。
 彼がネズミになっている間に、長身の女性客がやってきた。ムスカリやアネモネ、トルコキキョウなど、希望や未来を表す花言葉の花々を手にとって店員を探したが、まさか足元で彼女を見上げるネズミがその人とは思わなかったから、諦めて帰ってしまった。
 一時間が経過し、ネズミから人の身体に戻った彼は小さく震えた。たくさんのサルビアでブーケを作ってから、奥の倉庫に引っ込むと、ブーケを抱いてひとり泣いた。
 《文》の考慮が想像のはるか外に及ぶことを体感して、確信を持った。
 世界はやはり、《文》の通り終わるのだと。
 各々の《文》に対する編集は、各々の持ち主の世界の様相を書き換える。誰かの死を定める記述も、国や民族の滅亡についての記述も、誰かを幸福に導く記述も、何を書こうとも自由だ。自由な記述は《文》の保存時に解釈され、エラーが出なければ実行される。夕食にうまい鮨が食べたければ、その旨を記載すればいい。
 2つ目の通知は、コウタからのメッセージだ。古くから付き合いのある厄介な友人。
「タクマの言うとおりに《文》とやらをいじったら、パチ屋で大当たりだったよ。サイコーの気分だわ。でもよく考えると、普通に1億とか10億とか金を手に入れることもできんだよな。明日はそうするわ。ってか今度これで、身体でかくして暴れようぜ。どうせ終わるんだろ?よくわかんねーけど。それなら、最後は派手にやろうや」
 コウタのように思慮が浅くとも《文》は編集可能だが、ひどい結果がもたらされることもある。例えば、2ヶ月前なら、タクマが『1時間の間』という文言を書きそびれていたら、彼は未だにネズミの姿のままだっただろう。《文》の記述はその通りになる。むしろ、その通りになりすぎる。書かれたこと以外は、解釈されないのだから。
 《文》について話すため、ネット上にはフォーラムが立ち上がっていた。《文》の力で大金や高級車を手に入れたり、下卑た性欲を満たすのが流行ったけれど、それらはすべて、終末への不安の埋め合わせにはならなかった。一時は《文》の編集で実現したこと自慢や、他人の《文》に対するイタズラ行為の武勇伝自慢で盛り上がったフォーラムからは熱が引いて、今は純粋に《文》の秘密を明らかにすることを望む者が集まるようになっていた。
 もちろん《文》を見たことのない者も多かったが、毎朝繰り返されるニュースキャスターの言葉と、《文》の作用を実際に体感した者の証言を聞くにつれ、みな《文》に書かれたことが実現することを事実として受け止めるようになっていた。
 つまり、世界は終わるのだと。みんな受け入れていた。
 誰がどんな《文》の作用を嗜んでいるかは大衆の興味の的になっており、テレビでは毎日、終末へのカウントダウンのすぐあとに、芸能人や各国首脳がその日《文》に何を記載したかや、天皇が御《文》に何をお記しになったかなどが報じられていた。
 世間一般とは違い、タクマも含めたフォーラムのメンバーは《文》の性質の探求に暇がなかった。例えば、《文》の検証がエラーを出す時、つまり編集後に保存が拒否される時のルールから、この奇妙な終末の予言の隠された性質を読み解くことができるのではないか?あるいは、《文》を書くことで終末を逃れられるのではないか?などが考えられていた。タクマは、これまでの議論から《文》の性質をいくつか知っていた。
 誰の《文》にも元から含まれているカウントダウンに関する文章は、一切の削除や変更をすることができない。最初期から知られている性質だ。また、終末への期日がカウントアップされるような文は保存の際に必ずエラーを出す。実は『…。実は嘘だったとニュースキャスターが告げる』といった記述や最後の一行の後ろへの追記は失敗する。
 フォーラムの者たちは《文》の法則性を見出すことの難しさを知っていた。なぜなら、編集し保存した各位の端末の《文》の記述の作用は、その持ち主自身に降りかかるからだ。《文》の編集による世界の変質から、持ち主は逃れることができない。安直な実験は不可逆で残酷な結末をもたらす。世界の解釈や日数の解釈の変更を試みた者からは反応がなくなった。推測では、法則を捻じ曲げるような解釈の成立するこの宇宙のどこかに移動してしまい、ネットへの接続を遮断されたのだという。
 『たこ焼き寿司サラダぬか漬けそばピザ』など意味をなさない単語の羅列を入力した場合は、解釈は都度異なった。食べ物が出現することもあれば、当人が食べ物に変身してしまうこともあった。そのランダムさに何かのヒントを見出そうとする者たちもいる。
「もう、やってますか?」
 おとなしそうな低い声。振り向くと、いつか見た長身の女性。黒のマキシ丈のプリーツワンピースに細身の身体が包まれている。くすんだ色の目元に比べると随分目立つ赤いリップが顔全体をあどけなく佇ませ、耳元にはシルバーのリングピアスが艶かしく揺れる。
「まだ準備が終わってないですけど、良いですよ。二ヶ月前くらいにも、来てくれましたね。あの時は、失礼しました」
「よく、覚えてますね。あの日は、特別な日だったから、お花を買いに来たのに。どこかにいたらなら、声をかけてくれればよかったのに」
「すみません。あの日は、手違いで店にいなかったので」
 澄んだ目の女性は不敵に、企むように口元を緩ませる。
「ネズミになって物陰にひそんでいるなんて、普通なら思わないものね」
 タクマは驚いて、手にしていた花切りハサミを落とした。前に彼女が店に訪れたとき、彼が《文》通りにネズミに変身したときと同じ様に、新調したてのチタン製のハサミはフリーザーの足元に滑り込んで視界から消えた。
「あなたも、フォーラムを見てるのか」
「そう、HN《ハンドルネーム》はふわねこです。あなたは、サクヤさんですよね?」
「特定されるなんて、思ってもいなかった」
「ネズミに変身したエピソードと一緒に、文京区の花屋だとか、最寄り駅とかについて書いてあったから、近所かなと思って探していたの。こんなに家の近くで、前に来たことがあるとは思わなかったけれど」
「時間を書かないで虫や動物に変身したやつらは、みんな帰ってこなくなったから、きちんと注意喚起しないといけないと思ってね」
 期日なしの記述を《文》に行うのは危ない。店のウェブサイトをプログラムしたことのあるタクマは、記述が字義通りにしか解釈されない危険性を察知して、記述に時間制限を設けることをフォーラムで提案したのだ。
「サクヤなんてハンドルネームで花屋だっていうから、てっきり女の子のバイトなのかもと思った」
「今日いないだけで、別の日はバイトがいるかもしれないじゃん」
「端末でフォーラムをずっと見てるから、分かりやす過ぎるんですよ」
 ふわねことHNを名乗った彼女は若干の恥じらいを顔に出すタクマを尻目に、花を物色し始めた。2ヶ月前と同じように、アネモネやトルコキキョウを手に取ると、タクマを呼んで、花を足してブーケを2つ見繕ってと頼んだ。彼女が手にとった花はみんな八重咲きで、華美にして純潔な天使が舞うようだったけれど、どれも白かった。
「白が好きなんですね。色的には少し寂しくなるから、グリーンを足すといいかもです。それか、差し色に紫なんかを入れても」
「いいの。白だけで」
「2つとも?」
「ううん。じゃあ、片方は白だけで。もう片方は、そうだな。わたしはブルーが好きだから、ブルー系の花を入れて欲しい」
「大きさ、どれくらいにします?」
「値段、どれくらい変わりますか?」
 タクマは笑った。仕入れも販売も形式上は値段があるけれど、実際のところはもう、値段になんて意味がなかった。花農家も、花市場も、自分のような花屋も対価を得るためでなく、ただささやかな希望と安らぎを与えるために存在していた。誰かが誰かを想いながら過ごせるよう、色彩と香りで終末を飾りあげるために。
「どの大きさでも、同じ値段でやってます。こうなることが決まってから。ずっとね」
「じゃあ、1つはこれくらい。もう一つは。どうしよう。抱きかかえられるくらいかな」
 タクマは手際よく、小さい方の花束を作り上げ、ブルーグレーのラッピングペーパーにシルバーのリボンで飾り付ける。彼女が示したとおり、手のひら2つ分くらいの大きさに。随分小振りだ。子供にでもプレゼントするのだろうか。彼女は店の隅のベンチに腰掛けて、潤んだ瞳で店内の花を眺めている。
 もう1つ、彼女がやっと持てるくらいに大きさを整えながら、ブルーの花を選んでいく。青い花は元々とても希少だ。こんなご時世だから、普段は手に入りづらい花も手に入る。深く沈む青を称えるブルーローズ、永遠の幸福の花言葉を伴う、遺伝子の組み換えにより生み出されたブルのーカーネーション。白がベースのブーケに色を差し入れるたびに、希望を主張する青の傍らで佇む白の力が強くなっていく。
「ねえ、どうしてサクヤなの?ネット上では、女のフリをしてるの?」
「昔飼ってた犬の名前だよ。母さんがつけた。母さんもサクヤも、結構前に病気で亡くなったんだ。ただ闇雲に生きてると、そういう名前とか、思い出とか、だんだん忘れちゃ言うから、思い出せるように名前を貸してもらってる」
「思ったより、全然純粋なんですね。拍子抜けしちゃうぐらい。フォーラムであなたが誰かに返事をするときの口調、いつも煽り口調だったから、もっと駄目な感じの理由かと思ったのに」
「そう思われてたんなら、母さんにもサクヤにも申し訳ないな。ふわねこさんは、なんでふわねこを名乗っているの?」
「猫、好きだから」
「そのままじゃん」
「そうだよ。安直かな?だって、名前なんて急に言われても思いつかないし」
「じゃあ、この小さな花束は、猫ちゃんに?」
「そうよ。1つは猫に。1つはわたしに。うちをキレイに飾るの。最後ぐらい。ね」
 タクマは思い出したように店の奥の倉庫に足を運ぶ。常連客の中にペット向けの洋服ブランドの女社長が居て、花束の対価に猫用の上質な首輪や洋服を置いていくのだった。彼は青で唐草模様の刻まれた焼き菓子の缶詰にそれを詰めて蓋をすると、ふわねこの元に戻った。
「ねえ、1つ聞きたいんだけど」
「あなたは《文》をどれくらいいじったの?」
「変身は色々試した。ネズミになったり、猫になったり、犬になったり。移動もだね。パリ、サンクトペテルブルグ、ニューヨークにバンクーバー。あちこち行った」
「ねえ。変身する時は、人の言葉は覚えていられるの?ネズミや猫になった時は、彼等のことばが分かるようになるの?」
「人の言葉はそのままで、身体だけ変身する感じ。動物のことばは分かるようにはならないよ。でも『猫のことばを理解するようになった』と書けば別だね。フォーラムを探せば、愛犬と夜通し語り合った男の話とかが見つかるよ」
「そっか。じゃあ、猫と話すことも、できたんだ」
「そうだね。僕はやったことないけれど。ふわねこさんは、ふわねこさんの猫と話したいの?」
「うん。でも。もう遅いの。うちの子は、2ヶ月前、前にここに来た日の前の夜に、死んじゃったから」
 その後はお互いに何の言葉も交わさなかった、タクマはふわねこが両手でやっと抱えられるくらいの大きさのブーケを手渡すと、小さい方の花束を持って、彼女の家までついて行くことにした。家に着くと、ふわねこは小綺麗なアパートの軒先の丸い石の脇に小さな白いブーケを置いた。目を閉じて手を合わせて、1分か2分くらいじっと祈っていた。祈り終わると、彼女はタクマに、彼女の端末に保存された《文》を見せた。
『朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。それを聞いた彼女は、少しずつ言葉の意味を忘れて行くのだった。花束を買ってきて、フワに供えた後、言葉の意味が弾けて消えていく。例えばおはようの意味。世界の意味。終わりの意味。七日の意味も。そして、次の朝が訪れる。朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと六日になりました」と言う。…』
 驚きと焦りが、彼に文章の意味を理解させる力を失わせた。示された文字を指でなぞらなければ、並んだ言葉の意味を捉えるのが難しかった。
 もう保存したのかと聞くと、ふわねこは歯を見せて嬉しそうに笑って頷いた。
「どうして。こんな風に期限なしで書いたら、君は。もう戻れない。言葉の意味を忘れてしまうなんて、死んでしまうのと同じかもしれない。フォーラムでも、試しているやつは聞いたことがない。どうなるか分からないのに」
「2ヶ月前、フワが死んだ時も思ったの。猫たちは猫たちで、多分ことばを持っているけれど、世界とか、終わるとか、そんなことは全くお構いなしで。どんな時でも平常心で過ごして、普通のまま死んだんだなって。だって、膝の上のフワにどれくらい世界が終わることの不安を話したって、あの子も、あの子の友達の野良猫たちも素知らぬ顔だったもの。羨ましいなって。思ったの。わたしたちには、言葉があって、言葉通りに物事が動くことが分かってしまったから、こんなにも苦しくなってるの。だから、わたしは言葉通りに世界が終わってしまう前に、言葉を忘れてしまおうって。そうすれば、世界とか世界じゃないものとか、みんな溶けてしまうかもしれないけれど、フワみたいに素知らぬフリで過ごせるかなって」
 ふわねこの瞳がひときわ潤んで、蕩けた白蜜みたいに甘い光を帯びはじめた。《文》の通り、彼女から言葉の意味が失せ始めた。彼女が自分自身で選んだ自分への作用だ。
「ふわねこさん。君の終わりを飾るために花束を作ったつもりはなかったのに」
「お花。キレイ。すごく。キレイ」
「猫たちのことばに世界の終わりって概念がないのか確かめてから言葉を忘れるのでもよかったんじゃないか?フワが生き返ると《文》に記すこともできたのに、君はそうしなかった」
「ごめんなさい。なんだか、よく分からない」
 ふわねこの言葉の意味が黄昏に沈んでいく。ぼんやりと虚空を見つめながら横になるふわねこに毛布をかける。ふわねこが彼女の猫を生き返らせなかった理由を聞くことはできなかった。言葉の意味が喪失した地平においては、そういった理由もどうでもよくなるのだろうか?
 《文》に書いてふわねこを戻すことも多分できるが、そうしない。意志のある《文》は、やり直しても繰り返されるだろうから。
 彼女の胸元にブーケを抱かせてから店に戻ると、タクマは自らの《文》を書き直して保存した。
『…。時計が午後3時を差す。彼は10分の間、花のことばを理解できるようになった』
 携帯端末で時間を確認する。3時1分。もう聞こえるようになっているはずだ。花の周りを香りが僅かに揺蕩うのと同時に、耳の奥が僅かに疼くのを感じた。白、パープルそれぞれの色のアネモネに顔を近づけると、かすかなスパイシーさが舞い込んで、耳の奥の疼きが大きくなるのを感じた。おいでおいでの手招きの音が振り子になって揺れているような音を知覚した。バラに顔を近付けるとアニスが香る。今度は耳の奥の疼きよりも、浮つき流れそうな不安な心に優しい鎖が付けられたような、冷静な気配が頭を支配した。しかし人間の身体のままでは、ことばの受容器が異なりすぎて、彼等が『終わり』や『世界』を知っているかなんて分かりはしなかった。
 10分が経過する。彼は首を小さく振って。さらに《文》を書き足して、保存した。
『…。その後、花のことばを理解できる状態のまま。彼は30分、店のバラの1つに憑依した』
 手足の指先の感覚が失せる。見ることはできないが、空調から舞い降りる冷たく人工的な空気が花弁に近い葉の近くを抜けていくのを感じた。切られた茎は身体の下の方にあるのを感じる。切断面から、おそらくは水を通じて、同じガラスの花瓶に差されたバラたちのことばが化学物質の濃淡となって流れこんできて、ヒトの言葉として彼の認識上に浮かんだ。彼等のことばたちは、誰から誰にと言った固有名を持たず、みなの生きる池に舞い落ちる青葉のように共有されていた。
 水が少し古くなってきたね。花の周りに飛び回るやつらの気配が全然しない、こっちには伸びないほうが良い。伸びるには養分が足りない。花に被せられるくすぐったいやつも最近はないね。このままでは種を作ることができないね。光は向こうの方にある。前とは光の周期が変わったね。成長と周囲の環境、今と少し前の差分を表すことばがそこにあった。彼はヒトの言葉を思考の中で練り上げて、放出する。おそらくは茎から。『世界』それから『終わり』、これらの概念は花たちの水面の上で意味を結ぶだろうか?反応がない。もういちど、彼は言葉を送り出した『世界』『終わり』『まで』『七日』、言葉はすべて空振りし、時間が訪れて、彼は人間の身体に戻る。
 花たちには『世界』も『終わり』もなかった。終わるその日まで、種子を作り継いでいくという使命を全うしようとするのだろう。彼は身体に疲れを感じて、店を閉めると家に帰り、熱いシャワーの後、翌朝を規定する《文》を追記して眠った。
『…。「おはようございます。世界の終わりまであと六日になりました」と言う。花も猫も人の言葉を学習し理解できるようになり、彼らも《文》を知り、《文》を編み始めた。朝、一匹の三毛猫がやってきて、眠りこける男を起こした』
 いくつかの通知音が鳴って、夜中に彼を起こしかけたが、彼は眠り続けた。
「起きるのだ。君の友人がこちらに来ている」
 耳元には猫のニャアという音がして彼の頭には人の言葉として知覚された。頬を叩く肉球と爪の感触は心地よさ過ぎて、とても人を覚醒へ導くものとは思えなかった。タクマが目を開けると、黄色い目をした三毛猫がいた。
「友達?」
「最後は派手にやるそうだ。われわれ猫は正直言って興味がないが、花たちには呼応した者もいて、巨大化して派手にやろうとしてる」
 携帯端末を開くと、夜中に届いたコウタからのメッセージが目に入った。
『タクマ、お前も巨人になって暴れようぜ。お前んち、文京区のどのへんだっけか?明日スカイツリー倒しに行くからよ。そのついでに寄ってくわ。下のをコピペすれば、お前もでかくなれるらしいから、一緒にやろうぜ。《…。目覚めると、身長1000メートルの怪物になっていた》』
 制限時間なしの、怪物への変形。ここに記された怪物はことばや知性を持つと解釈されるだろうか?
 いや、そんなことは、もう、考えている場合じゃない。
 いや、この場合、どんなことを考えて、言葉として想起するべきなのだろう。
 断続的な地響きが窓の外の四方八方から押し寄せるのが聞こえた。
 家々や木々を押しつぶす音が、いくつものかぼそい悲鳴を引き連れている。目で見ると、両手で数え切れないくらいの怪物たちが蠢いていた。あるものはタコのように八本足で、あるものはスライム状に膨らみ街の瓦礫を喰らっていた。
 南の方に巨大な怪物たちと同じくらいの大きさの菊が出現していた。花たちは言葉を学習し、シンボルを学習し、一夜にして思考や知性を獲得したのだ。
 花たちの元にも、コウタと同じ怪物への変身の企てが回ってきたのだろう。コウタのメッセージと同じ文をコピーアンドペーストして、《文》の作用で巨大化したのだ。窓の外、南の方に巨大な菊が出現していて、強靭な根を東京駅の周りから千代田区千代田まで這わせて、ガラス張りのビル群をことごとく薙ぎ倒して、一輪の十六葉菊を天に掲げている。
三毛猫がニャアと鳴く。顛末を笑っている。
「猫たちも巨大化すればいいじゃないか。君らも《文》を手に入れたはずだ」
「悪いね。興味がなくて。終わろうが終わるまいが、我々は気楽にやらせてもらうよ」
 三毛猫はそう言って去った。ああ、やつらは気楽でいいな。
 巨大なタコが茗荷谷から後楽園へ向けて坂を下ってくる、伝通院の山門を破壊し、シビックホールを薙ぎ倒し、富坂の下から本郷へと練り登り、タクマの家へと近づいてくる。昔の恋人なら抱きとめる気にもなるけれど、厄介な友人ではそんな気にもならない。
 彼は《文》を開き、保存し、瞳を閉じる。
『…。猫も花も、一度覚えた人の言葉を忘れた。彼はすべての生き物の身体とことばを理解可能になった。すべての生き物を順に回り、その身体と言葉を理解して、それぞれにとっての《文》を配って回った。生き物たちはみな《文》を編集した。数え切れないほど言葉の列で、《文》の続きと、「世界」や「終わり」の意味が生み出された。彼はその中に、猫たちのそれよりも気楽な意味の世界がないかを探し始めた』

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