見出し画像

それは手に入れた喜びよりも重たく

駅から実家に向かう際、特に酒の席でアルコールをいつもより多く摂取した時、私は決まって市内を流れる一級河川に沿って整備された堤防を歩いていく。

日中そこには、散歩あるいはランニングする人たちや自転車で駆け抜けていく姿を多く見受けられる。

やがて夜になると、内側のフェンスに設置された無数の灯りが一斉に光り始める。街中にあるイルミネーションに勝るとも劣らない光景を作り出している。

その日は職場の同僚との飲み会だった。駅前にある居酒屋を後にして改札口で後ろ姿を見送ると、私はすぐさま家に向かって歩き出した。

駅前ロータリーの奥にある路線バス乗り場には、どこもかしこも最終便の姿は一台も見当たらない。

手前のタクシー乗り場に至っては皆考えることが同じなのだろう、この忙しない季節に伴って長蛇の列で連なっている。

ちなみに駅から実家まで、徒歩で行った時の所要時間はおよそ30分。これなら時間をかけてわざわざ列に並んでは深夜料金を支払って家路につくよりかは、そのまま歩いて帰ったほうがマシである。

ただ季節柄、家に着くまでの間は身に沁みるほどの寒さを感じながら、特に鼻が下手すれば折れてしまいそうになるくらいのしんどさを抱えなければならない。

そうして午後11時頃。私はコートにポケットを突っ込み、首を若干縮こませながらその場所を歩いていた。

辺り一面かつ足元は電球色に包まれている。当然ながら周りに人の姿はおろか、自転車に乗って走っていく姿も見かけない。

 

今この場所には、私だけしかいない。私だけ、誰もいない世界に独り取り残されている。

歩き始めて10分後には何をどう思ったのか、上を向きながら歩いていた。そうしないと、不意に涙が溢れてしまいそうだから。

かつて歌っていた坂本九氏の「上を向いて歩こう」の一歌詞を思い出そうとするも、やがてイヤホンを耳に装着すると感傷的センチメンタルになりそうなプレイリストを探しては再生ボタンを押していた。

空は雲に覆われていて、星一つすら見えてこない。無論この空模様じゃ月明かりも照らしてこない。

ある楽曲を聴き続け、私だけ取り残された場所でノコノコと歩きながら、これまでのこととこれからのことを考えていた。

これ以上この先で、さらに何を失うというのだろう。学生時代も、社会人になってからも、そして今現在も。自分にとって大切だったものを手に入れては失ってきた。

そこでわかったのは、何かを手に入れた喜びという思い出よりも、何かを失った悲しみの方が記憶に強く焼き付いているということだ。

最近じゃ十数年前の出来事について、何をどう言われたのか朧げになってきてしまった。それでもその場でどのように遭遇したのか、どのようにこの身に刻まれたのかはまだ鮮明に覚えている。

さらにこの日、昔から大切にしていたものを手放さなくてはならない一つの事実を知ってしまった。

それは、近いうちに切り捨てなければ、自分の人生において一生後悔することになる代物である。

考えるだけで足取りが重たい。ただ家に帰るだけなのに、これからのことを思うだけで両足に錘を付けられた気分になるなんて…。

けれど、いつまでも後ろ向きになっている場合ではない。少なくとも自我が残っている以上ここから先は、自らの意志を持って進まなくてはならない。

だから今は少しだけ忘れてみよう。これから、さらなる悲しみに出会うことになるだろうから。

そこに直面した時も、いつか過ぎ去った時に思い出すことになっても、かつて味わったことのない重さだと感じてしまってもしっかり抱いて歩けるように。

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!