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政治講座ⅴ312「殺人の相場は1人200ドル前後(約2万1000円)とも言われ、驚くほど「命の値段」が安かった。ロシアには人権は無いのか」

今回は報道記事から暗殺天国のロシアを報道記事から俯瞰する。TVで抗議の女性を拘束 して、懲役刑10年の可能性ありとの報道から恐怖政治の実態を垣間見る。

           皇紀2682年8月13日
           さいたま市桜区
           政治研究者 田村 司

はじめに

武漢ウイルスを恐れてか、暗殺を恐れてか。両者は犬猿の仲か。この距離はソーシャルディスタンスの域を超えている。「暗殺を計画を恐れてのこと」と世界中では噂されているのである。実に面白い歴史に残る会談である。

プーチンとマクロン

ロシア、TVで抗議の女性を拘束 懲役刑の可能性

AFPBB News 2022/08/11 00:54

© Alexander NEMENOV / AFP ロシア、
TVで抗議の女性を拘束 懲役刑の可能性

【AFP=時事】ロシア当局は10日、ロシア政府系テレビ局の番組の生放送中に乱入しウクライナ侵攻に抗議したジャーナリストのマリーナ・オフシャンニコワ氏に対する捜査を開始し、同氏を拘束した。弁護人がAFPに対し明らかにした。裁判で有罪となれば、最高で懲役10年の刑を言い渡される可能性がある。

© AFP PHOTO / Channnel One ロシア、
TVで抗議の女性を拘束 懲役刑の可能性


 オフシャンニコワ氏はこれに先立ちメッセージアプリのテレグラムで、捜査官10人が午前6時に自宅の捜索に入り、「幼い娘を怖がらせた」と投稿。弁護人によると、現在は捜査当局による公判前手続きの決定を待っている。最近のAFPのインタビューでは、2人の子どもがいるため、公判前勾留にならないよう望むと語っていた。

© Alexander NEMENOV / AFP ロシア、
TVで抗議の女性を拘束 懲役刑の可能性


 オフシャンニコワ氏は、裁判所で行ったウクライナ侵攻への抗議活動などでロシア軍の信用を失墜させたとして、7月末と今月上旬にモスクワの別々の裁判所から2度の罰金刑を科された。同氏によると、ロシア軍に関する「偽の」情報を広めた疑いで捜査を受けている。

 今年3月、オフシャンニコワ氏は、当時編集者として働いていた国営テレビ局「第1チャンネル」のニュース番組の生放送に割り込み、英語で「戦争反対」と書いた紙を持って抗議ウクライナ侵攻への批判はロシアで事実上禁止されておりこの抗議活動は世界中で報道された
(c)AFP【翻訳編集】AFPBB News


ロシア暗殺の現状

【プーチン大統領の誕生】
1998年7月、ボリス・エリツィン露大統領によってFSB長官に指名される

同年8月、エリツィン大統領によってロシア首相に指名される

99年12月、エリツィン大統領が辞任したため、大統領代行

2000年3月、ロシア大統領に当選

08年5月、大統領を退任して首相

12年5月、大統領に返り咲き

【暗殺・毒殺リスト】
1998年10月、プーチンFSB長官が組織内にアルファ部隊とヴィンペル部隊を一つにした特務センターを設立

2002年3月、チェチェン独立派の指揮官アミール・ハッターブを神経剤が塗られた手紙で毒殺FSBの犯行とされる

03年7月、ロシア政府の腐敗と組織犯罪を批判していた調査報道ジャーナリスト、ユーリ・シェコチーヒンが不審死を遂げる

04年2月、チェチェン独立派の最高指導者ゼリムハン・ヤンダルビエフをドーハで爆殺。カタール当局は3人を逮捕。このうちロシア大使館員1人は外交特権で釈放され、GRUの工作員2人が起訴される

04年9月、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ大統領候補猛毒のダイオキシンが盛られる美男子のユシチェンコはアバタだらけの顔に

05年3月、FSB特殊部隊チェチェン独立派の最高指導者アスラン・マスハドフを殺害

06年6月、FSBチェチェン独立派の最高指導者アブドゥル=ハリーム・サドゥラエフを殺害

06年10月、第二次チェチェン戦争を報道したロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤがモスクワの自宅アパートのエレベーター内で射殺される。04年9月のベスラン学校占拠事件の現場に向かう際も機内で毒を盛られ、意識を失う

06年11月、元FSB幹部のアレクサンドル・リトビネンコが放射性物質ポロニウム210で毒殺される。英政府はKGB元職員のロシア人実行犯2人の引き渡しを求めるも、プーチン大統領は応じず。英公聴会の報告書は「おそらくロシアのプーチン大統領やニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)は承認していた」と結論付ける

08年9月、ウィーンでカザフスタン国家保安委員会(秘密警察)元議長アルヌール・ムサエフロシア語を話す4人組に誘拐されそうになる

09年1月、チェチェン共和国首長ラムザン・カディロフのボディガード、ウマル・イスライロフがウィーンで暗殺される

09年3月、ドバイ元GRU特殊任務部隊司令官スリム・ヤマダエフが射殺される

12年11月、ロシアの内部告発者アレクサンドル・ペレピリチニーがロンドンでジョギング中に不審死。米英の情報機関は暗殺とみているとバズフィードがスクープ

15年2月、反政府運動を展開していたボリス・ネムツォフ元ロシア第一副首相がモスクワで射殺される

15年5月と17年2月、ロシア野党政治家ウラジミール・カラ=ムルザ毒を2度にわたって盛られる 

18年3月、英イングランド南西部ソールズベリーで元二重スパイスクリパリと娘をノビチョクで毒殺未遂

18年9月、ロシアのフェミニスト・パンク・ロック集団プッシー・ライオットの非公式報道担当者ピョートル・ヴェルジロフモスクワで毒を盛られ、今回と同じシャリテー・ベルリン医科大学病院で治療を受ける

20年8月、 空路モスクワに向かう反体制活動家ナワリヌイノビチョクで毒殺未遂、治療に当たった医師が死亡。


⑴ 「暗殺兵器」ノビチョク 謎に包まれた正体


「ノビチョク」はもともと旧ソビエトが軍用に開発した化学兵器で、その正体は断片的にしか分かっていません。

確かなのは、極めて強い毒性を持つことと、検出が難しいこと。
ロシアはノビチョクを暗殺に使うため、毒の威力を弱めるなど改良を加えて保有し続けているーー欧米や日本の軍事専門家の間では、こうした見方もあります。
ノビチョクの名前が世界中で知られるようになったのは、おととしの事件がきっかけでした。

イギリス南部でロシアの元スパイ・スクリパル氏とその娘が、意識不明の状態で見つかったのです。イギリスの警察はノビチョクを使った暗殺未遂事件と断定。ロシア軍の情報機関に所属するロシア国籍の男2人を容疑者として特定し、写真を公表しました。


⑵ 「裏切り者」が次々消えていく ロシア暗殺の歴史を振り返る

ナバリヌイ氏は20日、西シベリアの街トムスクからモスクワに戻る機中で体調が悪化。集中治療室で人工呼吸器をつけられるほどの深刻な状態となった。ロシアの病院は「毒物は検出されなかった」としているが、側近は、その前に飲んだお茶を疑い、「政権に毒物を盛られた」と主張。治療と安全のため、国外への転院を求めた。受け入れたドイツ・ベルリンの病院は、神経剤の成分を体内から検出したとしている。

実は「お茶」は、以前にもロシア関連の暗殺事件で登場した道具だ。中でも記憶に残っているのが、チェチェン紛争でのロシア政府による残虐行為などを批判してきたノーバヤ・ガゼータ紙のアンナ・ポリトコフスカヤ記者が2004年、機内で出された紅茶を飲んで意識不明の重体になった事件。このときは奇跡的に回復したが、わずか2年後の06年に自宅アパートのエレベーター内で射殺体で見つかった。くしくも、この日は10月7日で、プーチン大統領の誕生日。そのため「誕生日プレゼント」という見方が出た。このことも強烈に記憶に残る理由となった。やはり06年にロシアの元スパイのアレクサンドル・リトビネンコ氏亡命先のロンドンで殺害された事件では、体調を崩す直前にロンドン中心部のホテルのバーで飲んだのが緑茶だった。猛毒の放射性物質「ポロニウム210」が混入されており、その3週間後に死亡した。

英国政府が設置した独立の調査委員会が16年に報告書をまとめ、殺害はロシアの情報機関「連邦保安局」(FSB)の指示で実行された可能性が高く、プーチン大統領も「おそらく承認していた」と結論づけて、世界に衝撃が走った。

誕生日と言えば、90年代にロシアのある地方の市長が殺害された日は、利害の対立があったとされる、元石油王のミハイル・ホドルコフスキー氏の誕生日だったという。これまでもソ連やロシアの情報機関は国内だけでなく、国外の殺害事件でも関与を疑われてきた。59年、ドイツ・ミュンヘンで起きたウクライナの民族主義運動の指導者ステパン・バンデラ氏の暗殺。78年には、ブルガリアから亡命してソ連圏の言論弾圧などを批判した作家ゲオルギー・マルコフ氏がロンドンで毒を仕込んだ傘で刺され、殺された。ソ連が崩壊し、ロシアになってからも、上記の事件のほか、04年にもチェチェンのヤンダルビエフ元大統領代行がカタールの首都ドーハで、乗車中の車を爆破されて死亡。一時より減ったとは言え、最近も政権の関与が疑われる事件が続いているロシア当局は関与を否定しているが、国内外からの疑いの声は消えない。その大きな理由が、殺害された人々の多くが、野党指導者やジャーナリスト、元スパイら政権が敵視する人物で、容疑者として政府の関係者が浮上することがあるからだ。見方によっては、否定する姿が芝居じみて見えるほど、わざと政権が関与した痕跡を残しているようにも思える。

例えば、15年に野党指導者ボリス・ネムツォフ氏が、モスクワのクレムリンを目の前に望む橋で銃撃されて殺害された事件。実行犯として有罪となったのは、チェチェン共和国駐在の内務省軍副隊長らだったが、背後関係が不明なまま、捜査に事実上の幕が引かれてしまった。

18年に、英国の商業施設のベンチで元ロシア軍情報機関大佐セルゲイ・スクリパリ氏と娘ユリアさんが意識不明で発見された事件でも、英当局は、旧ソ連で開発されたとされる神経剤「ノビチョク」が使用され、容疑者らは「ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)の将校」と認定した。名指しされた二人は実際に現地に行ったことは認めたが、「観光目的だった」と主張した。
ユリア・スクリパリさん=フェイスブックから


⑶ 「裏切りは絶対に許さない」掟

そのため、こうした暗殺の目的を、「対立する人物への警告や見せしめの意味もある」とみる専門家もいる。しかもロシアの情報機関には、「裏切り者は絶対に許さない」という掟があるとされる。

リトビネンコ氏の場合、英メディアなどによると、88年からソ連の国家保安委員会(KGB)で勤務。ソ連崩壊後も、後継組織のFSBなどでテロ対策や組織犯罪対策部門に所属したという。

ところが98年、上司から政商ベレゾフスキー氏らの暗殺を指示されたことを記者会見で暴露。その後出版した本では、約300人が死亡したモスクワの高層アパート爆破事件について「チェチェン武装勢力によるテロではない。チェチェン侵攻の口実を作ろうとしたプーチンとFSBの自作自演だった」と指摘した。

2000年にトルコ経由で英国に亡命し、チェチェン問題への対応などでプーチン大統領を厳しく批判。亡命中のベレゾフスキー氏らプーチン批判の急先鋒と親交を深め、暗殺されたポリトコフスカヤ記者とも接触していた。

そのポリトコフスカヤ記者関連でも、06年にチェチェン共和国の特殊部隊元幹部のモブラジ・バイサロフ氏が暗殺されたが、ポリトコフスカヤ記者の暗殺事件で検察当局に証言をする矢先だったという。
英国などの報道によると、スクリパリ氏もGRU勤務時に英国のスパイとして活動していたが、ロシアで逮捕され有罪判決を受けた。スパイ交換でアメリカ側に引き渡され、英国に亡命していた。

こういった「裏切り者」への嫌悪感は、一般のロシア国民の中にも多かれ少なかれ、存在していると感じる。スクリパリ氏の暗殺未遂事件を伝える記事に国営メディアがつけた見出しは、「裏切り者の元スパイが毒を盛られた」だった。

これらの事件に政権が本当に関わっているのかは分からない。だが、少なくとも、政権に敵対したり、不正をした仲間を告発したりする「裏切り」を、かなり踏みとどませる効果があるのは間違いないだろう。

CIA(米中央情報局)といった他の国の情報機関なども暗殺事件を企ててきた過去がある。だが、いまも国内外で反政府派が暗殺され、真実が判明しないという国は限られる。ここにロシアの深い闇があると言えるだろう。

⑷ 「1人殺して2万円」と言われた時代も


ソ連崩壊後、ロシアは急進的な経済改革を採用し、政治家や新興財閥、マフィアなどが勢力拡大にしのぎを削る「弱肉強食」の世界となった。いまより格段に社会が不安定で、殺人事件もはるかに多かった。

新聞や雑誌でよく見たのが、自動車事故を装った殺人。例えば交差点を直進する車に、わざと曲がってぶつけて殺すといった手口だ。確実に殺すため、被害者の運転手を犯人グループの一員にすることもあったという。高級ホテルのレストランに自動小銃を持った男が乱入。銃を乱射して敵対する組織の幹部を殺した後、ゆっくり歩いて立ち去った事件もあった。

殺人の相場は1人200ドル前後(約2万1000円)とも言われ、驚くほど「命の値段」が安かった。犯人が捕まったというニュースを見た記憶は無い。

選挙が近づくと、政治家が命を奪われることもあった。ほかに大勢が殺されたのが銀行員アングラマネーを扱うことで一獲千金のチャンスを得た一方、マネーロンダリングなどに失敗すると、容赦なく責任を問われた。1年に100人以上が殺されたという報道もあった。

当時のロシアの一般的な治安は、日本で言われているほど悪くはなかった。優しいロシア人も多かった。だが、マフィアに狙われたら最後、命が助かる見込みはなかった。(中川仁樹 朝日新聞)

北方領土から泳いでロシアから逃げた事例

北方領土・国後島から「亡命のため泳いできた」と話し、難民認定を求めるロシア人男性ワースフェニックス・ノカルド氏(39)が9日までに共同通信の取材に応じ、ロシアのウクライナ侵攻を非難した上で、島を離れた判断は「正しかった」と振り返った。「ロシアに残っていたら、戦地に送り込まれていたかもしれない」と主張した。 
 ノカルド氏は昨年8月、北海道標津町で警察に保護され、入管施設に収容された後に難民認定を申請。同10月に仮放免されて以降、メディアの取材に応じるのは初めて。渡航理由は「強権体制のロシアから離れたかった。プーチン政権に嫌気が差した」と話していた。

My  Opinion.

吉幾三の曲「♬ おら、こんな国 嫌だ、♫  報道の自由がない♬ 民主主義て何者だ、本当のことを言ったら則、刑務所 ♬ おら、こんな国 嫌だ ♬ モスクワで出て行って牛飼うだ♬』 
自暴自棄になるロシアの姿が見える。呵々。  どんとはらい!

参考文献・参考資料

政治講座ⅴ35「粛清と人材活用」|tsukasa_tamura|note

ロシア、TVで抗議の女性を拘束 懲役刑の可能性 (msn.com)

政治講座v159「反戦デモに見るロシア国民の意思と政府の言論統制による弾圧」|tsukasa_tamura|note

政治講座ⅴ13「日本の戦国時代、恨国と北の権力闘争と処刑そしてロシアの暗殺」|tsukasa_tamura|note

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