政治講座ⅴ1692「日本の苗字は明治から『氏』である。『姓』ではない」
最近、日本の戸籍制度も知らずに、結婚で苗字が代わることに憲法違反の裁判を起こしている輩がいる。それはすでに最高裁で棄却されている。
この苗字を別々にする別氏を左派勢力がことさら別性と称して、日本の文化や伝統的な家族制度を破壊しようとする恣意的な意図が見え隠れするのである。共産主義は子供の教育を国家が思想教育を含めて行い、家庭教育による多様性のある教育を認めない中国共産党の教育制度を俯瞰すると分かるのである。日本の左派勢力及び報道機関はそのような家族制度を崩壊させようとする意図が見えるのである。そして、歴史的な変遷の観点の欠如からくる不勉強極まりない事例の一つに「姓」と「氏」の区別の認識がないことである。それは、盛んに「夫婦別姓!」と叫ぶ。新聞記事の見出しも「夫婦別姓」である。このことから、日本の家族制度を破壊する意図が感じられるのである。このような左派勢力と新聞記者には恥を知って欲しい。
明治から日本は苗字を戸籍制度で「氏」と定めている。
日本の戸籍制度は「家制度」として「氏」を単位として使っている。「姓」の歴史的経緯は後述するが、今日、漢字文化圏の中国と韓国は苗字を「姓」としている。
これの苗字は「血族」を意味している。だから結婚しても「姓」は変わらない。夫婦は別の姓を使っている。
表見的には夫婦であるかは分からない。
では「子」は誰の戸籍に入るかと言うと儒教思想の男尊女卑の原則から「男」の戸籍に入ることになる。
これからも分かる通り中国の結婚では夫婦は戸籍上は一つにならないのである。翻って日本では結婚によって一つの家族を形成して一つの氏で一体感を保つのである。
そこで今回は、参院予算委員会で、共産党の小池晃書記局長が選択的夫婦別姓制度を巡る発言の報道記事を紹介する。
皇紀2684年3月16日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
共産と経団連の「皆既日食」=夫婦別姓で小池氏、導入迫る
15日の参院予算委員会で、共産党の小池晃書記局長は選択的夫婦別姓制度を巡り、経団連の十倉雅和会長も賛同していると指摘し、岸田文雄首相に導入を迫った。「労働者階級の党」を自任する共産党と、大手企業中心の経団連の主張が重なったことを、珍しい自然現象に例えて「経団連と共産党が同じことを言っている。『皆既日食』みたいなものだ」と訴えたが、首相は「内閣府の世論調査で意見が分かれている」と素っ気なかった。
首相は、立憲民主党の水野素子氏からも同様の質問を受けたが、「家族の在り方の根幹に関わる問題だ。国会で建設的な議論をしてもらうことが重要だ」などと慎重な答弁に終始した。
法務省:選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について
「選択的夫婦別氏制度」とは?
選択的夫婦別べつ氏うじ制度とは、夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の氏を称することを認める制度です。なお、この制度は一般に「選択的夫婦別姓制度」と呼ばれることがありますが、民法等の法律では、「姓」や「名字」のことを「氏うじ」と呼んでいることから、法務省では「選択的夫婦別氏制度」と呼んでいます。
現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性又は女性のいずれか一方が、必ず氏を改めなければなりません。そして、現実には、男性の氏を選び、女性が氏を改める例が圧倒的多数です。ところが、女性の社会進出等に伴い、改氏による職業生活上や日常生活上の不便・不利益、アイデンティティの喪失など様々な不便・不利益が指摘されてきたことなどを背景に、選択的夫婦別氏制度の導入を求める意見があります。
法務省としては、選択的夫婦別氏制度の導入は、婚姻制度や家族の在り方と関係する重要な問題ですので、国民の理解のもとに進められるべきものと考えています。
検討経過等
1 法務省においては、平成3年から法制審議会民法部会(身分法小委員会)において、婚姻制度等の見直し審議[PDF]を行い、平成8年2月に、法制審議会が「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申しました。同要綱においては、選択的夫婦別氏制度の導入が提言されています。この答申を受け、法務省においては、平成8年及び平成22年にそれぞれ改正法案を準備しましたが、国民各層に様々な意見があること等から、いずれも国会に提出するには至りませんでした(平成22年に準備した改正法案の概要等については、平成22年2月24日開催第16回法務省政策会議配布資料[PDF]及び平成22年に準備された改正法案(氏に関する部分)の骨子[PDF]をご参照ください。)
2 夫婦の氏に関する問題については、令和2年12月に閣議決定された第5次男女共同参画基本計画(新たなウィンドウが開き、内閣府男女共同参画局のホームページへリンクします。)においても、夫婦の氏に関する具体的な制度の在り方に関し、国民各層の意見や国会における議論の動向を注視しながら、司法の判断も踏まえ、更なる検討を進めることとされています。
世論調査の結果
令和3年に実施した「家族の法制に関する世論調査」の結果では、夫婦の名字の在り方に関する設問について、「現在の制度である夫婦同姓制度を維持した方がよい」と答えた方の割合が27.0%、「現在の制度である夫婦同姓制度を維持した上で、旧姓の通称使用についての法制度を設けた方がよい」と答えた方の割合が42.2%、「選択的夫婦別姓制度を導入した方がよい」と答えた方の割合が28.9%となっています。また、この設問について、性別、年代、結婚歴、職業等ごとに回答割合を整理したものや、他の関連する設問への回答との関係を整理したもの(クロス分析)に関する、より詳細な情報はこちらです。
・夫婦の名字について
・名字の変更による不便・不利益について
・夫婦の名字が違うことによる子どもへの影響等について
司法の判断
現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性又は女性のいずれか一方が、必ず氏を改めなければなりません(この制度を夫婦同氏制度と呼んでいます。)が、夫婦同氏制度が憲法に違反しているのではないかが争われた裁判で、最高裁判所大法廷は、平成27年(判決)と令和3年(決定)の2度にわたり、夫婦同氏制度は憲法に違反していないと判断しました。
もっとも、これらの最高裁判所大法廷の判断は、いずれも選択的夫婦別氏制度に合理性がないとまで判断したものではなく、夫婦の氏に関する制度の在り方は、「国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである」と判示しているものです。
蘊蓄(蛇足)を語る。
日本の昔むかし、「姓」は、「名字」よりも前から使われていた身分の名称です。最初は、天皇が各氏族へ贈った役職や地位を表すものでした。氏族とは祖先を同じくする集団のことで、朝廷では、各氏族が力関係に応じた役職をいただいていました。例えば公(キミ)や臣(オミ)、連(ムラジ)などといったもので、これが本来の「姓(かばね)」にあたる。
このように、「姓」の由来は「名字」などとは違い、「朝廷での役職」から来ている。
源頼朝の妻は北条政子と教材に乗っていることはご存じであろう。実は政子さんは「姓」は「平」であり、氏は「北条」なのである。鎌倉時代は「姓」は天皇から賜るものであったらしい。各地の豪族が名乗る者が「氏」のような苗字として使われたようである。
翻って、現代の法務省や最高裁の判決も「令和2年(ク)第102号 令和3年6月23日 大法廷決定(夫婦同氏)」の中で「夫婦同氏」と表記している。これが新聞で報道されるときは「夫婦別姓」となっている。吾輩は細かいことが気になるのである。
然るに誠に残念なことにパスポートの苗字欄は「姓」である。情けない!外務省の不勉強さには驚きと嘆きの声がでたのである。
政府の横に繋がりがなく、セクショナリズムの典型であろう。
そのような日本の嘆かわしい現実を認識・理解の上に次の紹介する中国の秦代の姓と氏の記事を読むと理解が深まると思う。
秦代の姓と氏
秦(しん紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。
周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。
統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。
紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした王の、姓は嬴、氏は趙。統一時の首都は咸陽。
この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)
中国の名字(姓)の起源は5,000-6,000年前にまでさかのぼるといわれている。その当時の中国は母系社会であり、母方の血縁を中心に氏族を形成しており、それぞれお互いを区別するために「姓」を使用していた。
そのため中国の最も古い名字(姓)は部首に「女」が含まれていました。中でも「姜・姫・姚・嬴・姒・妘・媯・姞」の8つの姓は「上古八大姓」と称され古代中国の代表的な姓でした。「姓」という漢字が“女へん”なのは納得できる。
中国の名字(姓)の由来は数多くあるといわれていますが、一例として以下が挙げられる。
由来主な名字(姓)母系の氏族の姓、姜、姫、姚 など古代人が崇拝した生き物の名前馬、牛、羊、龍 など祖先が住んでいた国家、国名趙、宋、秦、呉、鄭 など祖先が受けていた爵位王、侯、銭 など職業に由来するもの陶(陶器職人) など
中国文化圏では夫婦別姓が一般的だが、近代になって、妻が自分の姓に夫の姓を冠し復姓のようにする慣習(双姓(中国語版)、複合姓、冠夫姓)が発生した。この慣習は中国大陸では廃れたが、香港やシンガポールでは現在でもしばしば見られる。例: 林鄭月娥、陳方安生、陳馮富珍。
子供は父か母のどちらかの姓を継ぐのが一般的だが、上記の双姓のようにする慣習もある。
姓と氏
古代、姓と氏は異なるものであった。先に姓ができ、後に氏ができた。周王朝以前には、姓は貴族のみが持っており、周辺の属国に与えられた官位が氏であった。貴族には土地が与えられ、それもまた氏となった。
夏、商、周の三代においては、男は氏を称し、女は姓を称した。また、貴族には氏も名もあるが、平民には氏が無かった。また、姓が同じであれば結婚することはできなかった(以後現代に至るまで、同姓同士の結婚はタブーとされた。今はそのタブーはなくなったが、一般には同姓同士の結婚は好まれない)。
春秋戦国時代、周朝の基本制度であった宗法が瓦解し、氏制度も変化した。この頃から、氏が姓同様になっていった。また、平民も姓を称するようになり、民は「百姓」と呼ばれるようになった。これは貴族の地位の下落も意味した。秦漢以降、姓と氏は同じ意味となり、「姓氏」と呼ばれるようになった。
日本や儒教圏における姓
日本の姓の歴史
姓は、名字・苗字(みょうじ)や氏(うじ)とも言い(姓と氏・名字という語は本来は別々の意味を有した。しかし、明治時代以降は、「氏」として戸籍に記載されて管理されている。
江戸時代以前
明治時代まで武家や貴族以外には姓(苗字)が無かったとされているが、誤りである。
農民の名字の最古として、室町時代の資料もある。
正確には公的な場で名乗ること(苗字公称)が、武士の特権とされていた。
近世の日本の農民は基本的に苗字を持っていたものの、私的な場以外で名乗ることが禁止(苗字公称の禁止)されていたために使用するのは武士の関わらない仲間同士の場面(私的な場)に限られていた。
小川寺(小平市)の梵鐘の寄進者名が最古の庶民層の名前の資料として残っている。
この梵鐘は1686年(貞享3年)に鋳造され、小川寺の檀家である小川村の百姓らが寄進したものであるが、鐘の表面には寄進者名の農民らの苗字が全て付されている。
公的な場で苗字を名乗ることが禁じられていたため、武士以外の苗字が記録に残されることが少なくなっているだけで、武士以外も苗字(姓)自体は私的に持っていた。
例として、現在の長野市の農家出身の俳人の小林一茶は、名字は出生時から「小林」である。
江戸時代の1846年(弘化3年)時点で氷川神社都中野区江古田)の造営奉納取立帳にも全村軒の戸主全員の「苗字」が記載されている。
江戸から離れた現在の長野県松本平の南安曇郡の33村でも、2345人中16人という村民らの約0.68%を除いた「苗字」が記載されている。
庶民の公称許可の姓は、それ自体が公的存在であり、幕藩封建体制下の家格・由緒を示すものであった。
したがって公称許可の姓は公的存在であったので、それを公的に名乗れるのは当主を中心とする男子であった。
公的活動が認められていなかった女性には、姓は無縁の存在であった。この場合の妻の姓は夫婦別姓であった。
明治時代
明治維新後に、新政府は平民にも届け出を提出したら苗字を公称することを許可した。
1870年(明治3年)9月19日に太政官布告第608号「平民苗字許可令」が公布された(「苗字の日」は、この日に由来している)。苗字届け出が思うように出されなかった(国立公文書館は平民らは税金を多くとられると懸念したためとの説を紹介している)ため、1875年(明治8年)2月13日に「苗字必称義務令」という太政官布告で全国民への「氏(苗字)」の使用が義務化された。内容については、「これからは必ず苗字を名乗りなさい。祖先以来の苗字が分からない者は、新たに苗字をつけなさい」というものであった。
1876年(明治9年)3月17日に太政官指令で武家で一般的であった「夫婦別姓(妻に実家の氏を名乗らせること)」を国民すべてに適用することとした。政府がとった妻に実家の姓を名乗らせることについては多くの地方から問題があるとする伺いが出された。明治20年代の例として、山口県から「民事上の契約書などにおいて生家の氏を称し、あるいは夫家の氏を称するなどまちまちで民事上の紛議を醸生する恐れがある、宮城県から「嫁家(夫家)の氏を称するのは地方一般の慣行である」、東京府から「民間普通の慣例によれば婦は夫の氏を称しその生家の氏を称する者は極めて僅かである。
法務省によると、太政官指令にもかかわらず、妻が夫の氏を称することが慣習化していた。
明治23年の女学雑誌にも「凡そ夫あるの婦人は、多く其夫の家の姓を用い居る」と妻が夫の家の姓を便宜の上で称することが一般化していたと記されている。
その後、1898年(明治31年)に旧民法で「夫婦同姓」とされた。明治政府が全国民への夫婦別姓制度から変更の動きをした際に、「条約改正の実現」という目的から欧米を模倣し「夫婦同姓」を強制しようとした政府の動きに対しては儒教的道徳を重んじ、「別姓」を伝統としてきた旧武士層や保守層から多くの反発が生じた。
儒教圏における夫婦別姓・子女の姓における父姓優先主義
どの国でも結婚、夫婦の姓には歴史と宗教が大きく関わっており、共通している歴史は男尊女卑で家父長制であったことで、 宗教は欧米ではキリスト教が、中国、韓国では儒教が大きく影響している。 女性は夫の支配下に入ると考えられていたため、キリスト教圏の国では女性が結婚と同時に夫の姓を名乗っていた。儒教圏における夫婦別姓は、妻は子を産むための「外の者」であるとの思想に基づいた夫婦別姓であった。
中国
儒教圏における夫婦別姓は、妻は子を産むための「外の者」であるとの思想に基づいた夫婦別姓であった。
福山大学孔子学院によると、中国では女性の社会的地位が低かったので、一部の人は苗字だけで、名はなかった。
結婚すると、自分の苗字を夫の苗字の後ろに付け加えた。
例として、趙家に嫁入りした「劉家の娘」は「趙劉氏」と呼ばれていた。中国大陸では数千年も子供は夫の姓を名乗ることが文化や伝統となっており、父親の苗字を受け継ぐ典型的な男権社会である。
中華人民共和国でも夫婦別姓制度の下で子供は夫の姓を名乗ることが習慣化していたが、一人っ子政策終了後の2018年時点には中国の上海市における新生児数約9万人のうち夫姓91.2%に対して、8.8%であるものの妻姓を名乗る子供も現れるようになっている。
参考文献・参考資料
共産と経団連の「皆既日食」=夫婦別姓で小池氏、導入迫る (msn.com)
法務省:選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について (moj.go.jp)
政治講座ⅴ1555「秦代における『姓と氏』の考察」|tsukasa_tamura (note.com)
やさしい法律講座v43「判例研究:令和2年(ク)第102号 令和3年6月23日 大法廷決定(夫婦同氏)」|tsukasa_tamura (note.com)
政治(法律)講座ⅴ247「苗字は『姓』ではなく『氏』が正しい。これが『基本の基』。」|tsukasa_tamura (note.com)
政治講座v135「日本では明治から苗字は「姓」(血族)ではなく「氏」(家族)である。」|tsukasa_tamura (note.com)
吉田光男著『東アジアの歴史と社会』放送大学大学院 2013.1,20 第2刷 p47
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