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政治講座ⅴ1555「秦代における『姓と氏』の考察」

漢字は表意文字であることは異論がないであろう。儒教思想では男尊女卑であった。そして、現在も中国は血族主義であり、結婚しても苗字が同じにならずに夫婦は親からの苗字を使っている。以前から疑問があった「姓」は「女」と「生」からできていて、なぜ「男」と「生」と言う文字がないのであろうか? 古来は男尊女卑ではなく女尊男卑でなかったのでなかろうか。又は神に仕える巫女が上位者であったのではなかろうか。今回は女尊男卑を推測される「姓」について文献記事から紹介する。

     皇紀2683年12月21日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

はじめに

 「姓」の記事を紹介する前に日本の婚姻と苗字の解説をする。近年、日本の戸籍制度も知らずに、結婚で苗字が代わることに憲法違反の裁判を起こしている輩がいる。それは最高裁で棄却された。
 日本の左派勢力及び報道機関の不勉強極まりない事例の一つに「姓」と「氏」の区別の認識がなく、盛んに「夫婦別姓!」と叫ぶ。新聞記事の見出しも「夫婦別姓」である。
何にも分かっていない左派勢力と新聞記者には恥を知って欲しい。
明治から日本は苗字を戸籍制度で「氏」と定めている。
日本の戸籍制度は「家制度」として「氏」を単位として使っている。「姓」の歴史的経緯は後述するが、今日、漢字文化圏の中国と韓国は苗字を「姓」としている。
これの苗字は「血族」を意味している。だから結婚しても「姓」は変わらない夫婦は別の姓を使っている
表見的には夫婦であるかは分からない。
では「子」は誰の戸籍に入るかと言うと儒教思想の男尊女卑の原則から「男」の戸籍に入ることになる。
これからも分かる通り中国の結婚では夫婦は戸籍上は一つにならないのである。翻って日本では結婚によって一つの家族を形成して一つの氏で一体感を保つのである。

蘊蓄(蛇足)を語る。

日本の昔むかし、「姓」は、「名字」よりも前から使われていた身分の名称です。最初は、天皇が各氏族へ贈った役職や地位を表すものでした。氏族とは祖先を同じくする集団のことで、朝廷では、各氏族が力関係に応じた役職をいただいていました。例えば公(キミ)や臣(オミ)、連(ムラジ)などといったもので、これが本来の「姓(かばね)」にあたる。
このように、「姓」の由来は「名字」などとは違い、「朝廷での役職」から来ている。
源頼朝の妻は北条政子と教材に乗っていることはご存じであろう。実は政子さんは「姓」は「平」であり、氏は「北条」なのである。鎌倉時代は「姓」は天皇から賜るものであったらしい。各地の豪族が名乗る者が「氏」のような苗字として使われたようである。
翻って、現代の法務省や最高裁の判決も「令和2年(ク)第102号 令和3年6月23日 大法廷決定(夫婦同氏)」の中で「夫婦同氏」と表記している。これが新聞で報道されるときは「夫婦別姓」となっている。吾輩は細かいことが気になるのである。

然るに誠に残念なことにパスポートの苗字欄は「姓」である。情けない!法務省の不勉強さには驚きと嘆きの声がでたのである。
政府の横に繋がりがなく、セクショナリズムの典型であろう。
そのような日本の嘆かわしい現実を認識・理解の上に次の紹介する中国の秦代の姓と氏の記事を読むと理解が深まると思う。

秦代の姓と氏 

(しん紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。
周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。
統一から滅亡までの期間を秦朝秦代と呼ぶ。
紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした王の、。統一時の首都は咸陽。

この時代の中国では「姓」と「氏」は別である秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」
中国の名字(姓)の起源は5,000-6,000年前にまでさかのぼるといわれている。その当時の中国は母系社会であり、母方の血縁を中心に氏族を形成しており、それぞれお互いを区別するために「姓」を使用していた。
そのため中国の最も古い名字(姓)は部首に「女」が含まれていました。中でも「姜・姫・姚・嬴・姒・妘・媯・姞」の8つの姓は「上古八大姓」と称され古代中国の代表的な姓でした。「姓」という漢字が“女へん”なのは納得できる。
中国の名字(姓)の由来は数多くあるといわれていますが、一例として以下が挙げられる。
由来主な名字(姓)母系の氏族の姓、姜、姫、姚 など古代人が崇拝した生き物の名前馬、牛、羊、龍 など祖先が住んでいた国家、国名趙、宋、秦、呉、鄭 など祖先が受けていた爵位王、侯、銭 など職業に由来するもの陶(陶器職人) など
中国文化圏では夫婦別姓が一般的だが、近代になって、妻が自分の姓に夫の姓を冠し復姓のようにする慣習(双姓(中国語版)複合姓冠夫姓)が発生した。この慣習は中国大陸では廃れたが、香港やシンガポールでは現在でもしばしば見られる。例: 林鄭月娥、陳方安生、陳馮富珍。
子供は父か母のどちらかの姓を継ぐのが一般的だが、上記の双姓のようにする慣習もある。

姓と氏

古代、姓と氏は異なるものであった。先にができ、後にができた。周王朝以前には、姓は貴族のみが持っており、周辺の属国に与えられた官位が氏であった。貴族には土地が与えられ、それもまたとなった。

夏、商、周の三代においては、男は氏を称し、女は姓を称した。また、貴族には氏も名もあるが、平民には氏が無かった。また、姓が同じであれば結婚することはできなかった(以後現代に至るまで、同姓同士の結婚はタブーとされた。今はそのタブーはなくなったが、一般には同姓同士の結婚は好まれない)。

春秋戦国時代、周朝の基本制度であった宗法が瓦解し、氏制度も変化した。この頃から、氏が姓同様になっていった。また、平民も姓を称するようになり、民は「百姓」と呼ばれるようになった。これは貴族の地位の下落も意味した。秦漢以降、姓と氏は同じ意味となり、「姓氏」と呼ばれるようになった。

日本や儒教圏における姓

日本の姓の歴史

姓は、名字・苗字(みょうじ)や(うじ)とも言い(姓と氏・名字という語は本来は別々の意味を有した。しかし、明治時代以降は、「氏」として戸籍に記載されて管理されている。

江戸時代以前

明治時代まで武家や貴族以外には姓(苗字)が無かったとされているが、誤りである。
農民の名字の最古として、室町時代の資料もある。
正確には公的な場で名乗ること(苗字公称)が、武士の特権とされていた。
近世の日本の農民は基本的に苗字を持っていたものの、私的な場以外で名乗ることが禁止(苗字公称の禁止)されていたために使用するのは武士の関わらない仲間同士の場面(私的な場)に限られていた。
小川寺(小平市)の梵鐘の寄進者名が最古の庶民層の名前の資料として残っている。
この梵鐘は1686年(貞享3年)に鋳造され、小川寺の檀家である小川村の百姓らが寄進したものであるが、鐘の表面には寄進者名の農民らの苗字が全て付されている
公的な場で苗字を名乗ることが禁じられていたため、武士以外の苗字が記録に残されることが少なくなっているだけで、武士以外も苗字(姓)自体は私的に持っていた。
例として、現在の長野市の農家出身の俳人の小林一茶は、名字は出生時から「小林」である。

江戸時代の1846年(弘化3年)時点で氷川神社都中野区江古田)の造営奉納取立帳にも全村軒の戸主全員の「苗字」が記載されている。
江戸から離れた現在の長野県松本平の南安曇郡の33村でも、2345人中16人という村民らの約0.68%を除いた「苗字」が記載されている。

庶民の公称許可の姓は、それ自体が公的存在であり、幕藩封建体制下の家格・由緒を示すものであった。
したがって公称許可の姓は公的存在であったので、それを公的に名乗れるのは当主を中心とする男子であった。
公的活動が認められていなかった女性には、姓は無縁の存在であった。この場合の妻の姓は夫婦別姓であった。

明治時代

明治維新後に、新政府は平民にも届け出を提出したら苗字を公称することを許可した。
1870年(明治3年)9月19日に太政官布告第608号「平民苗字許可令」が公布された(「苗字の日」は、この日に由来している)。苗字届け出が思うように出されなかった(国立公文書館は平民らは税金を多くとられると懸念したためとの説を紹介している)ため、1875年(明治8年)2月13日に「苗字必称義務令」という太政官布告で全国民への「氏(苗字)」の使用が義務化された。内容については、「これからは必ず苗字を名乗りなさい。祖先以来の苗字が分からない者は、新たに苗字をつけなさい」というものであった。

1876年(明治9年)3月17日に太政官指令で武家で一般的であった「夫婦別姓(妻に実家の氏を名乗らせること)」を国民すべてに適用することとした。政府がとった妻に実家の姓を名乗らせることについては多くの地方から問題があるとする伺いが出された。明治20年代の例として、山口県から「民事上の契約書などにおいて生家の氏を称し、あるいは夫家の氏を称するなどまちまちで民事上の紛議を醸生する恐れがある、宮城県から「嫁家(夫家)の氏を称するのは地方一般の慣行である」、東京府から「民間普通の慣例によれば婦は夫の氏を称しその生家の氏を称する者は極めて僅かである。

法務省によると、太政官指令にもかかわらず、妻が夫の氏を称することが慣習化していた。
明治23年の女学雑誌にも「凡そ夫あるの婦人は、多く其夫の家の姓を用い居る」と妻が夫の家の姓を便宜の上で称することが一般化していたと記されている。

その後、1898年(明治31年)に旧民法で「夫婦同姓」とされた。明治政府が全国民への夫婦別姓制度から変更の動きをした際に、「条約改正の実現」という目的から欧米を模倣し「夫婦同姓」を強制しようとした政府の動きに対しては儒教的道徳を重んじ、「別性」を伝統としてきた旧武士層や保守層から多くの反発が生じた。

儒教圏における夫婦別姓・子女の姓における父姓優先主義

どの国でも結婚、夫婦の姓には歴史と宗教が大きく関わっており、共通している歴史は男尊女卑で家父長制であったことで、 宗教は欧米ではキリスト教が、中国、韓国では儒教が大きく影響している。 女性は夫の支配下に入ると考えられていたため、キリスト教圏の国では女性が結婚と同時に夫の姓を名乗っていた儒教圏における夫婦別姓は、妻は子を産むための「外の者」であるとの思想に基づいた夫婦別姓であった。

中国

儒教圏における夫婦別姓は、妻は子を産むための「外の者」であるとの思想に基づいた夫婦別姓であった。
福山大学孔子学院によると、中国では女性の社会的地位が低かったので、一部の人は苗字だけで、名はなかった。
結婚すると、自分の苗字を夫の苗字の後ろに付け加えた。
例として、趙家に嫁入りした「劉家の娘」は「趙劉氏」と呼ばれていた。中国大陸では数千年も子供は夫の姓を名乗ることが文化や伝統となっており、父親の苗字を受け継ぐ典型的な男権社会である。
中華人民共和国でも夫婦別姓制度の下で子供は夫の姓を名乗ることが習慣化していたが、一人っ子政策終了後の2018年時点には中国の上海市における新生児数約9万人のうち夫姓91.2%に対して、8.8%であるものの妻姓を名乗る子供も現れるようになっている。

参考文献・参考資料

やさしい法律講座v43「判例研究:令和2年(ク)第102号 令和3年6月23日 大法廷決定(夫婦同氏)」|tsukasa_tamura (note.com)

政治(法律)講座ⅴ247「苗字は『姓』ではなく『氏』が正しい。これが『基本の基』。」|tsukasa_tamura (note.com)

政治講座v135「日本では明治から苗字は「姓」(血族)ではなく「氏」(家族)である。」|tsukasa_tamura (note.com)

姓 - Wikipedia

吉田光男著『東アジアの歴史と社会』放送大学大学院 2013.1,20 第2刷 p47

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