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政治講座ⅴ1392「北朝鮮に『地上の楽園』と騙された者と日本人拉致被害者を風化させてはいけない」

表題の通り、「地上の楽園」と騙されて北朝鮮に渡航し悲惨な待遇をうけた人々と北朝鮮の工作員による日本人拉致被害が発生している。今回はその事件が風化しないように記憶に留めることを目的に報道記事を紹介する。

     皇紀2683年9月27日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

はじめに

次の2隻の船は有名な万景峰号と万景峰92号である。「地上の楽園」と騙されて北朝鮮に渡航したのである。

万景峰号(マンギョンボンごう)

万景峰号は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の資金で建造された。北朝鮮と日本を往来し、北朝鮮への送金工作活動に活用されていた工作船である。1984年まで在日朝鮮人の帰還事業に使われ、以後は貨物船となった。

万景峰92号

1992年6月より主として日本の新潟と北朝鮮の元山の間に就航(不定期)していた(片道27時間)。旅客輸送では、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)が窓口となり、取り扱うのは、在日朝鮮人の祖国訪問(親族訪問等)や親戚への物資の輸送、朝鮮学校の修学旅行等であった(後に入港禁止につき運行停止)。

元山・新潟間とは別に、神戸港からの在日朝鮮人の里帰り朝鮮高級学校の修学旅行に伴う航行を行ったことがある ほか、親善訪問にも使われた。
2006年7月5日、北朝鮮によるミサイル発射実験が行われ、日本政府は万景峰92号に対し半年間の日本入港禁止措置(特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法)を出した(制裁当日に新潟西港に入港予定であり、人道上の配慮から日本在住者のみ上陸を認めた)。また、2006年10月9日の北朝鮮の地下核実験の成功の発表を受けて、10月14日付けで入港禁止対象を北朝鮮の全ての船舶に拡大した。その後幾度に渡る期限延長により、万景峰92号を含め北朝鮮の全船舶は現在も入港禁止となっている。


「地上の楽園」だまされた… 「北朝鮮帰還事業」韓国が異例の調査に着手 日本から9万3000人渡航、被害解明へ

49 分

 【ソウル=木下大資】1959~84年に多くの在日朝鮮人らが北朝鮮に渡った「帰還事業」に対し、韓国政府の調査機関「真実・和解のための過去事整理委員会」が調査を行うと決定したことが分かった。関連資料の収集や脱北者への聞き取りなどを通じ、北朝鮮が「地上の楽園」とする虚偽の宣伝によって事業が進められた経緯や被害の把握を目指すとみられる。

◆軍事政権の人権弾圧究明する政府機関

 真実・和解のための過去事整理委員会は、韓国政府が設置した独立機関。軍事政権による過去の人権弾圧事件などを調査し、真相究明や被害者の名誉回復を行っている。韓国は憲法上、北朝鮮も自国の領土と位置付けるものの、日朝間で行われた帰還事業を調査対象にするのは異例だ。尹錫悦(ユンソンニョル)政権が北朝鮮の人権問題を国際社会に提起する姿勢を打ち出す中、韓国として初の公式的な調査となる。

 和解のための過去事整理委員会 
革新系の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権期の2005年、真実・和解のための過去事整理基本法に基づき設立され、10年に第1期の活動を終えた。20年に第2期委員会が発足。昨年に尹錫悦大統領が任命した金光東(キム・グァンドン)委員長は右派系として知られる。

 帰還事業は日朝の赤十字社が結んだ協定に基づいて行われ、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が組織的な勧誘を展開日本人妻らを含む9万3000人余り新潟港から帰還船に乗った
渡航後の北朝鮮で帰還者は差別や貧困に苦しみ、政治犯収容所に送られるケースもあったとする脱北者らの証言が数多くある。

 事業が始まったのは日韓が国交を回復する前で、韓国は阻止を試みたが不発に終わった。

 帰還事業で北朝鮮に移住した後に脱北し、韓国に居住する当事者や家族ら約30人が、昨年12月に委員会に調査を申請。韓国の外交当局や情報機関が把握していた当時の記録を公開するなどして、被害実態や加害者の責任を明らかにしてほしいと求めていた。

 申請に関わった「北朝鮮人権市民連合」理事長で元統一省次官の金錫友(キムソグ)氏は「委員会が過去の韓国政府の間違いを正すことも必要だが、北朝鮮政権によって人権を侵害された人たちの被害を提起することは意味が大きい」と話す。

◆元渡航者も高齢化「調査を急いで」

 【ソウル=木下大資】帰還事業に対する調査開始決定に対し、過去に北朝鮮に渡った人からは歓迎と期待の声が上がった。

 「日本でも差別を受けたが、北での差別は比べものにならなかった

 帰還事業で北朝鮮に渡った在日2世で、2003年に脱北した川崎栄子さん(81)=東京=は北朝鮮での生活をこう振り返る。

ソウルで、昨年12月9日、「真実・和解のための過去事整理委員会」に申請書を提出後、会見する川崎栄子さん㊥ら=木下大資撮影© 東京新聞 提供

 資本主義社会の日本からの帰還者は、潜在的な反体制分子として扱われた職業選択の自由はなく、渡航時に学生だった川崎さんは地方の大学に入ったが、帰還者の多くは鉱山や農村で働いた。不満を口にすればスパイのぬれぎぬを着せられ、行方不明になる例もあった

 朝鮮総連は「差別や貧困のない地上の楽園に帰ろう」と宣伝していたが、帰還船が北朝鮮の清津(チョンジン)港に着いた瞬間に、現地の人々のやせこけた姿を見て「だまされた」と気付いた。過酷な環境に、川崎さんは渡航2カ月で自殺を考えたという。

 04年に日本に戻り、近年は北朝鮮当局を相手取り訴訟を起こすなど、帰還事業を人権問題として問う活動を続ける。今回の調査開始決定に「これまでの苦労を考えると涙が止まらない。(被害者は高齢化しており)残された時間を考慮して調査を急いでもらえたらありがたい」と語った。

調査を申請した一人で、北朝鮮戦略センター代表の姜哲煥(カンチョルファン)さん(55)は北朝鮮で帰還者の親の下に生まれ、家族で政治犯収容所に入れられた経験を持つ。「日韓両政府とも、自発的に北朝鮮へ行ったように見える帰還者の問題に大きな関心を払ってこなかった。彼らの置かれた正確な状況がきちんと調査され、国際社会に知られるようになれば」と期待する。

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北朝鮮は「地上の楽園」と朝鮮総連の嘘の宣伝

日本政府は1955年(昭和30年)末から在日朝鮮人の大量帰国を検討し始めた。背景として、在日朝鮮人への生活保護費の負担が財政を圧迫していたほか、在日朝鮮人の高い犯罪率(日本人の6倍)、在日朝鮮人と日本の左翼運動の連携への懸念があげられる。

「在日朝鮮人帰国協力会」結成の際は日本側の呼びかけ人になったのは日朝協会で主導的な役割を担っていた社会党議員共産党議員だけでなく、小泉純也、鳩山一郎など自民党議員も加わっており党派の枠を超えて推進された。日本社会党系・日本共産党系の関係者が帰国事業に取り組んだ背景には、北朝鮮の社会主義を宣伝することで、日本における政治的影響力の拡大を狙った所が大きい。

北朝鮮が高度に閉ざされた体制をとっており、自由な往来が不可能であること、領域内において外国人の自由な活動を許していないこと、北朝鮮の文書資料の入手に難があることから、帰還者たちがどのように処遇されたかは脱北者などの証言からしか詳細には把握できていない。北朝鮮における身分制度である出身成分では最下層の「敵対階層」に分類され、また「動揺階層」として差別された。
多くの人々が輝ける祖国のことを聞き、まだ見ぬ祖国に対して憧れを抱いたが、現実はそれを裏切った。やがて、在日朝鮮人の間や日本国内においても次第に北朝鮮の実情が明らかになるにつれ帰還者の数は激減していった[。また日本の経済発展が進むことによって、在日朝鮮人が生活苦により北朝鮮へ向かう理由も失われた。現に脱北して韓国で一定の期間を過ごした後、韓国国籍のパスポートで日本に再渡航した者も少なくなかった。

2001年、北朝鮮への帰還事業において朝鮮総連が正しい説明を行わなかったとして、韓国に在住する男性が朝鮮総連を相手取って慰謝料を求める訴えを日本の東京地方裁判所に起こした。この男性は、1961年に北朝鮮に渡ったが現地での生活に失望し、1年半後に軍事境界線を越えて韓国に脱出していた。裁判は1審、2審ともに民法上の時効が成立しているとして請求を認めず、2004年9月、最高裁判所も上告を棄却して原告の訴えを退けた。

2008年6月、日本在住の脱北者の女性朝鮮総連を相手に損害賠償を求める訴訟を大阪地方裁判所に起こした。原告女性によると、「北朝鮮は地上の楽園」などという朝鮮総連の嘘の宣伝により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働を強いられ、拷問され、差別され、囚人や奴隷と変わらない生活を強いられ、「(朝鮮総連は)人をだまし、組織的に誘拐した。人権と自由を無差別に奪った悪魔みたいな団体だ」「私1人の問題ではない。今も強制収容所の中で必死で生き延びようとしている人がいる」と訴えた。しかしこの訴訟についても、大阪地方裁判所は2009年11月30日に、既に帰還から40年以上経過し、損害賠償請求権が既に消滅しているとして、原告女性の請求を棄却した。

北朝鮮帰国事業 全マスコミが「北朝鮮は天国」と騙された

2016.07.18 07:00週刊ポスト

今でこそ朝鮮民主主義共和国、北朝鮮に対して警戒しながら接するのは常識になったが、かつて北朝鮮は、「理想の国家がある」「地上の楽園」と持ち上げられていた。作家・井沢元彦氏による週刊ポストの連載「逆説の日本史」から、日本のマスコミが犯した「北朝鮮帰国事業礼賛報道」について解説する。
 若い人はあまりご存じないだろうか、私が戦後つまり1945年以降日本のマスコミが犯した最大の犯罪は「北朝鮮帰国事業礼賛報道」だと思っている。北朝鮮帰国事業とは何か?

1959年12月14日から84年まで続いた北朝鮮帰国事業。在日朝鮮人と日本人妻ら9万3340人が新潟港から北朝鮮に渡った。(『週刊朝日』2013年11月15日号)〉

 北朝鮮とその出先機関である日本の朝鮮総連が組んでマスコミを巻き込み在日朝鮮人(北朝鮮系)に対し「日本の差別に悩むより、労働者の天国である北朝鮮に帰国しなさい、祖国は歓迎します」と全財産を持って帰国するよう推奨した運動である。

 なにしろマスコミ進歩的文化人がこぞって「北朝鮮は天国」と書き立てるものだから、週刊朝日の記事にもあるように約10万人の人間が北朝鮮に渡った。そして、おどろくべき貧困に悩まされた上に差別され奴隷労働をさせられ帰国も許されなかった
 
 これらの人々の中には、北朝鮮からの脱出に成功した人々(いわゆる脱北者)もおり、人生を取り戻した人もいたが、大半は苦しみながら死んだか今でも地獄の苦しみに喘いでいる。しかし脱北者のおかげで「北朝鮮は天国」という大ウソはバレるようになった

 実はこの北朝鮮帰国事業に賛同したのは朝日新聞など左翼支持のマスコミだけではなく、産経新聞や読売新聞も同一歩調をとっていた。「自分の故国に帰って幸せになるならばそれで良いではないか」という考えからである。そういうところにうまく朝鮮総連がつけ込んで情報操作をしたのである。だから全マスコミがまんまと騙された

 しかし脱北者によって北朝鮮は天国どころか地獄だということがわかるようになると、当然産経や読売は北朝鮮帰国事業に協力するのをやめた。しかし最後まで「北朝鮮の真実を報道しない」という形で帰国事業に「協力」し続けたマスコミもあったその代表が朝日新聞である。

北朝鮮による日本人拉致問題とは

1970年代から1980年代にかけて、北朝鮮の工作員や土台人、よど号グループなどにより、17人(北朝鮮側によれば13人)の日本人が日本や欧州から北朝鮮に拉致された問題である。北朝鮮による日本人拉致事件も参照。

日本政府が認定した拉致事案は12件、拉致被害者は17人。
北朝鮮側は、このうち13人(男性6人、女性7人)について、日本人拉致を公式に認めており、5人が日本に帰国しているが、残り12人については「8人死亡、4人は入境せず」と主張している また、北朝鮮は骨の返還もしている。
日本政府は「全員が生存しているとの前提で対処する」との立場をとっている。

北朝鮮は、長年拉致事件への関与を否定してきたが、2002年(平成14年)、平壌で行われた日朝首脳会談で、最高指導者である金正日が日本人拉致を認め謝罪し、再発防止を約束した。しかし、日本人を拉致したことに対する賠償などは、未だに行われていない。

2003年(平成15年)6月5日の衆議院本会議において、内閣総理大臣の小泉純一郎は、拉致問題に関して日本の主権の侵害と国民の生命と安全に対して、大きな脅威をもたらすことから、普通はテロと言えると思うと答弁している。

2007年(平成19年)6月28日に被拉脱北者人権連帯事務総長の都希侖が「ある脱北者によると、日本人の拉致被害者数名が北朝鮮の政治犯収容所で労役についており、2003年7月に両江道北部地域のある政治犯収容所を巡視した時にある労役者のことを日本人拉致被害者だと聞いた」と発言。
60歳くらいに見えたその労役者は集団で作業していた人々とは違い、一人で腰を屈めたままボイラーに石炭をくべる作業をしており、警備兵が近くで監視していたといい、収容所の責任者クラスから日本人拉致被害者が3・4人いるという話を聞いたという。

2018年(平成30年)現在、日本政府は総理官邸公式ウェブサイトにおいて、「対話と圧力」という姿勢を継続し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」としている。

また、日本政府認定の拉致被害者の他に、北朝鮮に拉致された疑いが拭えない「特定失踪者」(「#その他の失踪者」参照)の解決も、日本政府は取り組むと明言している。

北朝鮮の活動概要

建国当初から武力行使を辞さぬ形で、朝鮮半島を統一することを標榜してきた北朝鮮は、休戦した朝鮮戦争からの復興事業を一段落させた後、1960年代に入ると、敵対する韓国に対する諜報活動を活発化させた。
時には直接的な破壊工作も行ったと言われている。その工作活動は、少なくとも1980年代まで続けられていたことが確認されている。これらについては北朝鮮側からの反論もなされている。

1977年、金正日は、北朝鮮工作員たちに対し「マグジャビ」(手当たり次第)に外国人を誘拐するよう命じている。北朝鮮工作員だった辛光洙は複数人の拉致事件に関与したとされ、その被害者のひとりが横田めぐみである。なお、日本政府は長期にわたって辛の身柄引き渡しを求めてきた。

朝鮮戦争の交戦時に韓国側を支援していた日本は国内において、休戦中の1970年代から1980年代にかけ不自然な形で行方不明となる者が出ていた。警察による捜査や、亡命した北朝鮮工作員や逮捕された土台人の証言などから、北朝鮮による日本人拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。

また朝鮮総連に所属した在日朝鮮商工人の文東建が日本国内で建造した貨客船を北朝鮮に寄贈した事による昭和51年(1976年)の金日成と文東建のツーショット写真は在日朝鮮人社会に大きな衝撃を与え北朝鮮への在日送金が始まる事になり、北朝鮮による核開発と核実験が公然と報道されるようになる2000年代後半まで在日送金は取り締まりや制裁すら一切無くその総額を佐藤勝巳は天文学的な金額と書いた。
在日社会が衝撃を受けた翌年の昭和52年(1977年)には宇出津(うしつ)事件や少女拉致事案が起き、在日送金の初まりとなった貨客船は7年後に北朝鮮兵士をミャンマーに運びラングーン事件を起こし、日本人に成り済まして大韓航空機爆破事件を起こして捕まった北朝鮮工作員である金賢姫の日本語教師は昭和53年(1978年)に拉致された田口八重子であった。

それまで主として、韓国国内で活動してきた北朝鮮工作員らが、この時期以降、韓国の情報当局の手によって数多く摘発されるなど、韓国の情報当局による北朝鮮工作員への警戒が非常に厳しくなった。そこで在日朝鮮人らを抱き込んで、韓国に入国させての工作活動の遂行が困難になってきた。そのため、北朝鮮当局は日本人に成り済まして、工作員を韓国に入国させる手口が有効であると考え、韓国のみならず、世界各国の出入国に便利な日本人のパスポートを奪取するため、また同時に、工作員を日本人にしたてるための教育係としての利用、あるいは日本国内での工作活動の利便性を向上させる目的で、複数人の日本人を拉致したとの指摘がある。

一方で、特定失踪者問題調査会の調査結果によると、拉致されたもしくは拉致された疑いが濃厚な者(俗に言う1000番台リスト)が失踪前に従事していた職業を詳細に調べた結果「印刷工」「医師」「看護師」「機械技術者」といった、北朝鮮が国際的に立ち遅れている分野を担う職業に集中していることが判明している。また、これらの特殊技能を持った拉致被害者に、日本人の配偶者を与え、家族を人質とすることにより、脱北させないようにするために、日本人を拉致した例も、多くあるのではないかとの指摘もある。北朝鮮には、1970年代にはよど号ハイジャック事件で北朝鮮に「亡命」した日本人男性が少なからずおり、「国家の賓客」として扱われていた。

拉致の手口

拉致の実行については、以下のような手口が報じられている。

  • 福井県新潟県など日本海沿岸鹿児島県など東シナ海沿岸に工作員を密かに上陸させ、付近を偶然通りかかった若者を(時には暴力的に)拉致する

  • 日本国内に潜入している工作員や土台人が目ぼしいターゲットを決めて接近し、言葉巧みに誘い出し、誘拐する

  • 日本国外に在留、居留する日本人に「仕事の紹介をする」として、北朝鮮に誘拐する。ただし入国までは本人の同意を取り付けていると考えられる。

  • 工作員が日本沿岸での工作活動中に目撃されたと思い、目撃者を強引に拉致する

  • 工作員の侵入地点と拉致現場が離れているケースもあり、輸送手段としての自動車の調達、潜伏先や監禁場所の手配などの共犯行為には、現地に土地勘のある在日朝鮮人の土台人が関わった可能性を指摘する声もある

拉致実行の指令[編集]

  • A-3放送などの 乱数放送で指令があったとの説が有力。当時の放送はアジア放送研究会がいくつか記録しており、朝鮮語ネイティブでない協力者向けとみられる放送も確認されている。

  • 公然局である平壌放送朝鮮中央放送などでも、選曲の順番などを用いて工作員に指令を送ったりもしていたと考えられる

(参考として、日本側への重要な工作指令は万景峰号船内にて直接、口頭にて指令が伝達される)

拉致被害者の境遇

一部の拉致被害者は、金正恩の別荘でもあり、外国人賓客の宿泊するホテルとしても使われる「招待所」において、特殊工作機関の常時監視のもと、上述の特殊技能を活かした任務や日本語文献の翻訳などに従事させられていたとの指摘がある。
脱北者によれば、日本人を含む外国人拉致被害者は、別世界のエリートとして扱われており、彼らとすれ違う際は目を伏せ顔を見ないようにするよう厳しく言われていたという。

餓死する子供が多発している北朝鮮の一般庶民の現状に比べると拉致被害者たちは優遇された生活を送っていたと言われている。招待所では寿司酢豚などの料理を食べ、外国映画を観る機会もあり、一般住民の生活よりはるかに好待遇であったが、自由な外出は許されなかったという。2002年に帰国した拉致被害者である蓮池薫の「招待所にいた時は賄い付きだった」「招待所にいる間は、名所観光をしたり娯楽映画などを見たりした」、曽我ひとみ「一般の朝鮮人との接触はない」等の証言がある。

北朝鮮の一般市民との接触は、継続的に特殊工作機関による厳重な監視下に置かれ、この時期に限らず常に遮断された状態であった。北朝鮮側は、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議で「死亡」とされた8人の死亡診断書等の資料が捏造であったことを認めた。また、横田めぐみのものとして提供された「遺骨」を鑑定した結果、日本政府は別人のものと判断し、未帰還の多くの拉致被害者は生存していると見ている。拉致被害者はこの他にも多くおり、特定失踪者問題調査会では数百人に及ぶ日本人が拉致されていることを示唆している。

その一方で、生存情報の多くを頼っていた元北朝鮮工作員の安明進が韓国で麻薬密輸・使用で有罪判決を受け、その後姿を見せていないことから、推測や憶測が混じったこれまでの情報の再検証が真相解明の為に不可欠となっている。

北朝鮮側の対応

この一連の拉致事件は長い間謎とされて来た。
冷戦末期の1987年に発生した大韓航空機爆破事件の実行犯である金賢姫の証言から疑惑が浮上したが、国会においては1997年までは国交正常化等の議題になった際に懸案として出る程度であった。

1991年(平成3年)以来、日本政府は北朝鮮に対し拉致事件を提起していたが、北朝鮮側は否定し続けた。

日本では1977年に拉致された中学生の横田めぐみ等に関する実名報道があってから、国会で取り上げられるなど、報道頻度が爆発的に増えた。1997年には拉致被害者の救出を求める議員連盟が発足し、政府が7件10人の行方不明者を北朝鮮による拉致被害者と認めた。北朝鮮側は「拉致は捏造」と主張し、北朝鮮系の在日朝鮮人団体である朝鮮総連なども同様の主張をしていた。

2002年(平成14年)9月17日、内閣総理大臣の小泉純一郎らが訪朝し日朝首脳会談を行った際に、最高指導者の金正日は北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが「現地請負業者」(土台人とみられる)と共謀して、日本人を拉致した事実を認め、口頭で謝罪した。これにより、5人の拉致被害者が日本に一時帰国し、間もなく本人たちの意思で日本に残ることとなった。

2004年(平成16年)5月22日、小泉の2度目の訪朝により、先に帰国していた拉致被害者の夫や、子供が日本への帰国を果たした。

しかし、2002年の首脳会談の席で、金正日は「部下が勝手にやったことだ」と北朝鮮が日本人拉致を初めて認め謝罪し、すでに拉致実行組織を解体、拉致を指揮した者を処分したと伝えたが、拉致の実行犯が現在でも英雄扱いされているなど、実際に処分等は行われていない。北朝鮮は、日本人拉致問題は解決していると主張している。

北朝鮮は「日本が解決済みの拉致問題を意図的に歪曲し誇張するのは、日本軍過去に朝鮮人民に働いた犯罪を覆い隠す為の政略的目的に悪用する為だ」と主張している。一方で「日本が誠意を示せば、何人かは帰す」とも主張している。

北朝鮮は、日本政府が認定した拉致被害者17人のうち、残り12人について「死亡」あるいは「入境せず」として、「拉致問題は解決済み」と説明し、その後の協力を拒んでいるが、日本政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針により、解決を目指して交渉を続けている。

「北朝鮮による日本人拉致事件」については、マスメディア・更に日本政府内でも、すべて「拉致」と総称しているが、刑法学上はすべて「拐取(海外移送目的拐取)」である。
北朝鮮による日本人拉致においては、刑法上の「略取」に当たる事案(加害者による暴力行為を手段として、強制力により被害者の身体を拘束の上で移送した事案)と、「誘拐」に当たる事案(偽計を手段として被害者を騙す等によりその同意を得つつ、身柄を加害者の実力的支配内に置いた上で移送した事案)、国外移送時の状況が不明な事案に分けられる。少女拉致事案・アベック拉致事案・母娘拉致事案・鳥取女性拉致容疑事案は「略取」であり、欧州における日本人男女拉致容疑事案は「誘拐」である。宇出津事件・李恩恵拉致事案・辛光洙事件・元飲食店店員拉致容疑事案など土台人を介したものと見られる拉致事案については「誘拐」の可能性が高いが、国外移送から北朝鮮入境に至る状況の詳細は不明である。

政府認定拉致被害者

日本政府が認定した拉致被害者は久米裕横田めぐみ田口八重子濱本富貴惠地村保志蓮池薫奥土祐木子市川修一増元るみ子曽我ひとみ曽我ミヨシ松木薫石岡亨有本恵子原敕晁田中実松本京子 、いしたにこうた(肩書・年齢は当時、敬称略、被害者家族の決断により実名報道されている)の18人 。この内濱本、地村、蓮池、奥土、曽我ひとみの5名は日本に帰国。

2007年(平成19年)4月12日警察庁はこれに加え北朝鮮工作員と結婚した日本人女性の子供2人(当時長女が6歳と長男が3歳)が1974年(昭和49年)6月中旬に行方不明になった事案について、複数人の工作員関係者からの証言などから「北朝鮮による拉致被害者と断定した」と正式発表した(2児拉致事件)。
よって同事案は政府認定拉致被害者にかかる拉致事件と同様に政府認定の拉致事件であるが、被害者たる子供2人が朝鮮籍であり、日本国民であることを要件とする拉致被害者支援法の認定基準には該当しないため、子供2人は拉致被害者としては認定されていない(2020年12月現在)。

宇出津(うしつ)事件

1977年(昭和52年)9月19日拉致

東京都三鷹市役所勤務警備員男性、久米裕1925年(大正14年)2月17日 - 当時52歳)

石川県宇出津海岸付近にて失踪

北朝鮮側は久米の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人の李秋吉が「45歳から50歳位の日本人独身男性を探せ」との指示を受け、かねてから知り合いであった久米を海岸に連れ出し、工作船で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している。
この1件だけでも「拉致したのは13人だけ」との北朝鮮側の主張は嘘であることが分かると指摘されている。警視庁公安部石川県警は主犯格のキム・セホ国際手配し、北朝鮮に対し所在確認と身柄の引き渡しを要求している。なお、この事件で石川県警警備部は押収した乱数表から暗号解読に成功したことが評価され、1979年警察庁長官賞を受賞している。この事実は長年秘匿事項とされ、単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな話題として報道された。このことが、日本海沿岸部に居住する国民の防犯意識を弛緩させ、後述の拉致事件を招いたとする論調も一部にある。ただし、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺や、新たな情報の収集困難を招き、ひいては事件解決が困難になるリスクも伴い、警察庁の立場からは安易に公開に踏み切るわけにはいかない事情があったことも考慮する必要がある。なお、李は起訴猶予処分となり日本への帰化を許され、日本国民・大山秋吉として現在も東京都内で自営業を営んでいる。

少女拉致事案

1977年(昭和52年)11月15日拉致

新潟の女子中学生、横田めぐみ(1964年(昭和39年)10月5日(58歳) - 当時13歳)

新潟県新潟市において新潟市立寄居中学校からの下校途中に自宅付近(現中央区西大畑町、新潟大学付属新潟小学校前)にて失踪

新潟県警は、失踪直後から誘拐事件として捜査を行ったが、何の手がかりも得られなかった。
失踪から約18年後、1995年6月に韓国の情報機関高官が朝日放送記者である石高健次に、脱北した北朝鮮工作員から聞いた話として拉致された女子中学生の話を述べ、石高はその話を「現代コリア」1996年10月号に載せた。
1996年12月、現代コリア研究所所長の佐藤勝巳が新潟市の公務員宿舎での講演後に懇親会でこの記事に言及した際、同席していた新潟県警の警察官から、その少女は1977年に失踪した横田めぐみのことではないかとの声が挙がり、その後同定された。
1997年1月、めぐみの両親である横田滋・早紀江夫妻にこのことが伝えられ、メディアでも報道されるようになった。

北朝鮮側の説明によれば、横田めぐみは1986年に結婚し、1987年に一児(キム・ウンギョン)を出産するも、1994年4月(2002年10月の報告では「1993年3月」としていたが後に訂正)に入院先の病院で自殺、1997年に火葬したとしている。
2004年11月の日朝実務者協議を通じ、横田めぐみ本人の「遺骨」として提供された骨の一部からは、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された(「ニセ遺骨問題」も参照)。遺体は未確認。
2006年6月29日に行なわれた会見で、横田めぐみの夫とされる金英男は、「めぐみは1994年に自殺した」と述べた。この発言について、彼女の両親である横田滋・早紀江夫妻は「予想通りの証言。こういうことを平気で言わせる国(北朝鮮)にはらわたが煮えくり返るばかりだ」とした。また、官房長官の安倍晋三(当時)も「発言内容は信憑性がない」とした。

帰国した拉致被害者たちの証言によると、1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で曽我ひとみと同居し、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で同じく拉致被害者の田口八重子および工作員女性1名と同居していたとされている。1986年(昭和61年)に平壌へ転居した後、1994年(平成6年)頃までは地村夫妻や蓮池夫妻と同じ地区で暮らしていたとされている。

1997年には、朝鮮労働党書記の一人が朝鮮総連を通さずに直接当時の橋本政権に対し非公式に横田めぐみの生存を伝えたという報道 がなされたことがあり(通知が事実であれば当然のことながら1994年死亡という自らの説明と矛盾する)、横田めぐみの火葬をしたとされる「オボンサン火葬場」も、火葬をした1997年当時には無く1999年に建設されたものだと複数人の脱北者が証言している。また、帰国した地村富貴恵が「(自殺より後の)1994年6月にめぐみさんが隣に引っ越してきた」と証言している。また2011年には、韓国自由先進党議員の朴宣映が脱北者から得た北朝鮮高官の話として「横田めぐみは生存しており、知ってはいけないことを知りすぎたため日本に帰すことができず、他人の遺骨を日本側に渡した」とする証言を日本政府に伝えている。さらに週刊朝鮮の報道によって2005年に作成された平壌市民名簿に横田めぐみとみられる記載があったことも確認されている。なお、失踪直後に自宅近くの日本海の方から暴走族の爆音に似た音を近隣住民の多くが聞いていることがわかっており、ジャーナリストの石高健次は、1971年の加賀市沖不審船事件同様に不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。横田めぐみに関して中国では、彼女は病死したのでもなく事故死でもなく自殺でもなく、処刑され、骨は他の処刑者と一緒に火葬したため行方が知れず、故に偽物の骨を提出したという見方もある。

横田めぐみは北朝鮮で金賢姫の同僚工作員である金淑姫に日本語の指導を行っていたとされる。また、金正恩の母が早くに亡くなったため、彼を育て上げたのは横田めぐみとの説がある。

李恩恵(リ・ウネ)拉致事案

1978年(昭和53年)6月29日頃拉致

東京の飲食店員、田口八重子(1955年(昭和30年)8月10日 - 当時22歳)

帰国した拉致被害者たちの証言によると、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で横田めぐみおよび工作員女性1名と同居していた

1986年(昭和61年)に平壌へ転居し、10月には地村富貴恵と平壌市内の百貨店で会っている。蓮池薫の証言によると、その後田口八重子は敵工地と呼ばれるところに行ったとされている。

1987年11月の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮工作員の金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の立ち居振る舞いを学んだと主張している。この李恩恵については金賢姫の供述を基に似顔絵が作られ、1988年(昭和63年)頃全国各地に「昭和55年以前に行方不明になったこの女性を知りませんか」というポスターが貼られている。その後埼玉県警警備部の調べで1991年(平成3年)に、「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると推定されている。しかし彼女の家庭が複雑な事情を抱えており、まだ幼い子供のことを考慮して、家族より実名報道を控えてほしいとの要請があり、特定には時間を要した。

日本の警察庁から2人の担当官がソウルへ行き、ソウル大使館政治部の警察庁出身の者を同行させ金賢姫と面会した。教育に当たった李恩恵という女性は拉致された田口八重子ではないかということで、同年輩の女性の顔写真10枚ほどが準備された。田口八重子の写真をこの中に混入し、「このなかに教育に当たった女性がいるか」と金賢姫に示した。1枚1枚写真を見ていた彼女は田口八重子の顔写真を見て、「この人です」と言ったという。李恩恵は拉致された田口八重子であることが確認された。2009年3月、金賢姫は田口八重子の親族と釜山で面会した。

地村富貴恵の証言によると、北朝鮮に上陸した際、子供が日本にいるから帰してほしいと訴えたとされている。また、工作員となって海外に渡り、日本大使館に駆け込もうと計画していたが、北朝鮮側に工作員になれないと言われ断念したとされている。

北朝鮮側の説明によれば、田口八重子は1984年に日本人拉致被害者(原敕晁 下記9参照)と結婚、1986年(昭和61年)の同男性の病死後、1986年(昭和61年)7月に自動車事故で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。また、李恩恵なる人物の存在を否定している。

アベック拉致事案(福井県)

1978年(昭和53年)7月7 - 8日拉致

小浜の大工見習い、地村保志(1955年(昭和30年)6月4日 - 当時23歳)、被服店(ブティック)店員、濱本富貴惠(1955年(昭和30年)6月8日 - 当時23歳)

福井県小浜市で拉致。実行犯は北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)である。

2人は1979年(昭和54年)に結婚。1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。
2002年(平成14年)10月に日本に「一時帰国」として返されたが、本人の意思を確認した上で、日本政府が強く保護し北朝鮮に返さなかった。
2004年(平成16年)5月22日、日朝首脳会談の結果を受け、娘1人と息子2人も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(新潟県)

1978年(昭和53年)7月31日拉致

中央大学法学部生、蓮池薫(1957年(昭和32年)9月29日 - 当時20歳)、化粧品会社社員、奥土祐木子(1956年(昭和31年)4月15日 - 当時22歳)

新潟県柏崎市で拉致。「ちょっと出かける。すぐ帰る。」と言って外出したまま消息を絶つ。同様に奥土も外出したまま両名が拉致される。実行犯は北朝鮮工作員のチェ・スンチョル、ハン・クムニョン、キム・ナムジンである。

2人は1980年(昭和55年)5月に結婚、1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に地村らと共に日本に帰国。2004年(平成16年)5月、残された子供(1男1女)も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(鹿児島県)

1978年(昭和53年)8月12日拉致

電電公社職員、市川修一(1954年(昭和29年)10月27日 - 当時23歳)、鹿児島の事務員、増元るみ子(1953年(昭和28年)11月1日 - 失踪時24歳)

鹿児島県日置郡吹上町(現在の日置市)、吹上浜キャンプ場で拉致。吹上浜拉致事件とも呼ばれる。

北朝鮮側の説明によれば、2人は1979年7月(2002年10月の報告では「1979年4月」としていたが後に訂正)に結婚したが、市川は1979年9月に海水浴場で心臓麻痺により死亡。増元も1981年に心臓麻痺のため死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は、両人とも遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はなされていない。一方、元北朝鮮工作員の安明進は、北朝鮮が死亡したとした日時の後、1988年から1991年にかけて「何回も二人を見た」と証言している。

母娘拉致事案(新潟県)(娘)

1978年(昭和53年)8月12日拉致

佐渡の准看護婦、曽我ひとみ(1959年(昭和34年)5月17日 - 当時19歳)

新潟県真野町(現:佐渡市)において母親と2人で買い物に出かけた帰り道、佐渡で拉致。1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で横田めぐみと同居した[17] 後、1980年(昭和55年)8月に元アメリカ兵のチャールズ・ジェンキンスと結婚。1983年(昭和58年)6月に長女出産、1985年(昭和60年)7月に次女出産。2002年(平成14年)10月に日本に帰国。夫および2人の娘については、2004年(平成16年)5月の日朝首脳会談の結果を踏まえ、夫と子ども(2女)は北朝鮮当局の与えた虚偽情報に基づき日本行きを拒否していたが、同年7月9日、インドネシアのジャカルタにて再会し、7月18日一家4人で日本に帰国。北朝鮮は、曽我ミヨシ(46歳)については、「日本国内の請負業者が拉致し曽我ひとみ一人を受け取った」と主張しているが、日本政府は、曽我ミヨシを拉致認定している。

母娘拉致事案(新潟県)(母)

1978年(昭和53年)8月12日拉致

佐渡の准看護師の母、曽我ミヨシ(1931年(昭和6年)12月28日 - 当時46歳)

曽我ミヨシは佐渡で上記の准看護婦と買い物帰りに同時に失踪。北朝鮮拉致認定。北朝鮮側は、佐渡の准看護婦の母(失踪時46歳)は北朝鮮に入国していない旨を主張し関与を否定。曽我ミヨシの消息は全く不明。

欧州における日本人男性拉致容疑事案

①1980年(昭和55年)拉致

京都外国語大学大学院生、松木薫(1953年(昭和28年)6月13日 - 当時26歳)

1980年(昭和55年)5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側の情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとしている。同年6月にスペインのマドリードにて拉致。松木は、石岡亨と共に「よど号ハイジャック事件」の犯人グループの妻2人(森順子・若林佐喜子)により拉致されたことが警察の調べで判明している。北朝鮮側の情報では、1996年8月23日に自動車事故で死亡したとしている。

2002年(平成14年)9月に派遣された日本政府調査チームは、北朝鮮側より「松木のもの」とする遺骨の提供を受けたが、法医学的鑑定の結果、別人のものであることが確認されている。また、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議の際に先方から提供された松木の「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部からも、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。

②1980年(昭和55年)5月頃拉致

日本大学学生、石岡亨(1957年(昭和32年)6月29日 - 当時22歳)

1980年5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側の情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとされ1980年6月スペインにて拉致。1980年4月にスペインの動物園でよど号メンバーの妻2人(森順子・若林佐喜子)と一緒に撮影された写真が存在する。

また、石岡亨のパスポートが北朝鮮によって偽造パスポートの原本に利用され、発効日が同じで旅券番号が異なる偽造パスポートが北朝鮮工作員やよど号グループの柴田泰弘や日本赤軍の戸平和夫が使用していたことが確認されている。

北朝鮮側によれば、1985年12月に拉致被害者(下記8-3.有本恵子)と結婚、1986年に長女が誕生するが、1988年11月4日ガス中毒で一家全員死亡したとしている。1995年8月に北朝鮮側は遺体が洪水で流失したと説明しており、遺体の確認はされていない。

※ 警視庁公安部は「よど号」犯人の妻の森順子・若林佐喜子を国際手配し、北朝鮮に対し所在確認と身柄の引き渡しを求めている

欧州における日本人女性拉致容疑事案

1983年(昭和58年)7月頃拉致

神戸市外国語大学学生、有本恵子(1960年(昭和35年)1月12日 - 当時23歳)

欧州にて失踪。有本の拉致については、「よど号」ハイジャック犯の柴田泰弘の妻となった八尾恵が、2002年3月12日、「私が有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました」と東京地裁で証言している。警視庁公安部は「よど号」犯人の魚本公博を国際手配し、北朝鮮に対し所在確認と身柄の引き渡しを要求している。

北朝鮮側の説明によれば、有本は1985年に石岡と結婚、一児をもうけるも、1988年にガス中毒で一家3人全員が死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。

辛光洙(シン・グァンス)事件

  • 1980年(昭和55年)6月頃拉致

  • 大阪府鶴橋中華料理店「宝海楼」勤務の調理師、原敕晁(1936年(昭和11年)8月2日 - 当時43歳)

  • 宮崎県青島海岸から拉致された本件については北朝鮮工作員、辛光洙が韓国の警察当局に対し中華料理店勤務、調理師男性の拉致を認める証言をしている。本件に関連し、警視庁公安部は辛光洙を国際手配した。辛光洙は1999年12月31日恩赦により釈放。キム・デジュン政権の「非転向長期囚送還」により翌2000年9月2日北朝鮮に送還された。北朝鮮当局は、拉致実行犯は処罰したと説明しているが、一方で辛光洙は拉致実行後に金正日から大きな功績があったとして「国旗勲章1級」を授与され[31]、英雄として北朝鮮の記念切手にもなっている。

  • 北朝鮮側の説明によれば、原敕晁は李恩恵(リ・ウネ)拉致事案の田口八重子と1984年に結婚するも1986年に肝硬変で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は1995年7月遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。北朝鮮側の情報では、本人の金儲けと歯科治療の意向を受け、1980年(昭和55年)6月17日 宮崎市青島海岸から連れ去った[注釈 5]。警視庁公安部は「宝海楼」の家宅捜索を実施後、工作員の辛光洙、共犯者の金吉旭、指示役で工作機関副部長の姜海龍を国際手配し、北朝鮮に対し所在確認と身柄の引き渡しを要求している。

  • 原には地元長崎市に兄がおり、家族会にも参加していたが、事件がドラマのように取り上げられることを嫌い、メディアに登場することは無かった。そして、帰国を見ることなく、2010年に亡くなっている。

在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書に関して

1989年(平成元年)、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯の釈放を求める在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書が、当時の公明党、社会党、社会民主連合らの議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出された。その際、釈放要望対象者の中に辛光洙らの拉致実行犯・共犯者が含まれていた。

その後、2002年(平成14年)9月に金正日が拉致実行を認めたあとで同年10月19日に当時官房副長官の安倍晋三が土井たか子・菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と批判する[32] など、署名した国会議員は自民党や共産党から非難された。菅直人は「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」 と謝罪した[33][34]。公明党は、釈放要求の対象は学園浸透スパイ団事件の首謀者とされた徐勝・徐俊植兄弟で、当時の日本国内における拉致問題の認識は「北朝鮮工作員による拉致の疑い」という程度のもので、実行犯の氏名や犯行内容は全く認知されておらず、辛光洙の関与も明らかではなかったと抗弁し、また社民党も、1984年4月25日の衆議院外務委員会において、社会党の土井たか子が釈放について政府の尽力を求めたことに対し、政府は「内政干渉にわたらない範囲内で人道的配慮を韓国政府に絶えず求めていきたい」と答弁したことにつけ込みことを非難し、同罪であるなどと転嫁するに至った。一方、共産党は、要望書が提出される1年前の1988年昭和63年)3月26日参議院予算委員会において、共産党議員が辛光洙事件について質問しており、署名議員も予算委員として出席しており、当時、公明党が主張するように、署名した国会議員らがそうした事実や疑惑を知らなかったこと自体おかしな話であると批判している。また、共産党は自民党に対しては、自公連立友党の公明党議員の署名について言及しないのは二重基準として批判している。

元飲食店店員拉致容疑事案

1978年(昭和53年)6月頃

元ラーメン店店員、田中実1949年(昭和24年)7月28日 - 28歳)

兵庫県神戸市灘区出身。1978年(昭和53年)6月、北朝鮮からの指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人土台人によって、成田空港から日本国外に連れ出された後、ヨーロッパ経由で北朝鮮に送り込まれた。1994年(平成6年)6月、在日朝鮮人男性が平壌で田中という拉致被害者と会ったと兵庫県警に証言したほか、1996年(平成8年)、別の北朝鮮の元工作員が「北朝鮮工作員と『土台人』のラーメン店店主に誘い出され、ウィーンモスクワ経由で連れて行かれた」と告白している。この工作員の手記は『文芸春秋』1997年1月号に掲載され、広く知れ渡ることとなった。なお、北朝鮮側は田中が北朝鮮内に入国したことは確認できなかったと主張している。

2018年3月16日に、北朝鮮側が「入国していた」と2014年の日本側との接触の際に伝えられていた事が日本政府関係者から明らかになる。また同時に、田中と同じ児童養護施設出身で神戸市の元ラーメン店店員の金田龍光(被害者未認定。韓国籍)の入国も認めていた。また2019年2月には田中が妻子とともに平壌市内で生活していることや金田にも妻子がいることが北朝鮮から日本側に伝えられていたことが報じられている。内閣総理大臣の安倍晋三(当時)は、この報道の真偽について国会で質問を受け、肯定も否定もせず、「今後の捜査・調査に支障を及ぼすおそれや関係者のプライバシーを侵害するおそれを考慮する必要があることから、お答えを差し控えたい」と答弁している。これについては、田中と金田が児童養護施設出身で身寄りがないため、安倍政権が優先順位をつけてしまっている可能性もある、と批判的な見解も述べられていた。

以上のように、政府見解としては田中・金田両名の生存情報については肯定も否定もせずコメントしないという態度であるが、2021年8月、当時の古屋圭司拉致担当大臣が両名の生存情報と日本政府がそれを受け取らなかったことを認めた。さらに2022年9月、当時の齋木昭隆外務事務次官もその事実を認めた。

その後、2022年9月17日、複数の交渉関係者からの情報として、日本政府が2014~15年頃北朝鮮からこの2名について「一時帰国」の提案を受けていたものの、当時の安倍首相が提案に応じれば拉致問題の幕引きを狙う北朝鮮のペースにはまりかねないと主張し、拒否していたことが報じられている。

拉致被害者認定(2名中、田中実のみ):2005年(平成17年)4月27日

女性拉致容疑事案(鳥取県)

1977年(昭和52年)10月頃

会社員、松本京子(1948年(昭和23年)9月7日 - 当時29歳)

1977年(昭和52年)10月29日午後8時頃、自宅近くの編み物教室に向かうため外出。近所の住人が同日夜に男と見られる2人と話している松本を目撃。話しかけたところ2人のうちの1人から殴りかかられた。その直後に、サンダルの片方を残して失踪。北朝鮮側は、入国を確認できなかったと主張している。日本国内の会社関係者が北朝鮮の貿易会社に電話した際、「キョウコ」と名乗る女性が対応したとの証言がある。また脱北者により北朝鮮では清津市に居住していたとの情報がもたらされているほか、失踪直前に沖合いにて不審船が目撃されていたとの情報もある。2013年(平成25年)5月、ラオスで拘束され北朝鮮に強制送還された脱北者9名の中に松本の子息が含まれている可能性がある、と韓国の一部マスコミが報じたが、脱北を手配した人物に接触した韓国政府がこれを否定した。韓国の拉致被害者家族が組織する「拉北者家族会」は、松本は北朝鮮で結婚したが子供はおらず、2011年(平成23年)頃清津から平壌に移されたとの情報を得ていることを公表、韓国の国家情報院も同様の見方をとっている。しかしこれらの情報について日本政府は「捜査中」であるとの理由から見解を公表していない。

拉致被害者認定:2006年(平成18年)11月20日

政府が未認定の拉致事件

2児拉致事件

1973年(昭和48年)12月頃

埼玉県上福岡市(現:ふじみ野市)在住の渡辺秀子が拉致され、工作員グループによって活動拠点だった朝鮮総連第一副議長の金炳植が設立した東京都品川区の貿易会社「ユニバース・トレイディング」の本社内で工作員の男に絞め殺されるとともに、6歳の長女・敬美と3歳の長男・剛の2人が拉致され、1974年(昭和49年)6月に北朝鮮に拉致されたとされる事件。渡辺秀子殺害についての警察の事情聴取では、ユニバース・トレイディング関係者によって「箱に入れ石を詰めて捨てた」「遺棄場所は山形と秋田の県境」などの証言がなされていたが遺体発見にはいたっていない。また拉致した際の世話役として当時55歳だった女とその協力者として2人の男がいたこともわかっておりこの3人は現在も日本にいる模様。事件が公になった当時の国家公安委員長の福田一は「拉致事件は現在も継続中であり時効は成立しない」としていたが、警察はこの3人の逮捕はしておらず事情聴取なども行っていない。

この事件の被害者の国籍が朝鮮籍であったため政府は拉致認定を見送ったが、捜査を行った警察自身が拉致事件であると断定している

参考文献・参考資料

「地上の楽園」だまされた… 「北朝鮮帰還事業」韓国が異例の調査に着手 日本から9万3000人渡航、被害解明へ (msn.com)

北朝鮮帰国事業 全マスコミが「北朝鮮は天国」と騙された|NEWSポストセブン (news-postseven.com)

政治講座v210「北朝鮮は恐怖支配集団,韓国よ第2次南北体制競争で優位に立て」|tsukasa_tamura (note.com)

在日朝鮮人の帰還事業 - Wikipedia

一括政策の導入 中国不動産市場の回復は「金九銀十」に期待 (msn.com)

習近平もお手上げ…34億人分の在庫を抱えた「中国のマンションバブル」の行き着く先 電気も水もない「鬼城」の住人が急増 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

総額10兆円の明るい廃墟、593mの世界一高い未完成タワー…中国のスゴすぎるゴーストタウンはなぜ爆誕してしまったのか? | 文春オンライン (bunshun.jp)

万景峰号 - Wikipedia

北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia

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