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政治講座ⅴ466「文化大革命に行われた虐殺と人肉食:チワン族への虐殺そしれウイグル人へのジェノザイド」

支那共産党は虐殺の歴史で血塗られた旗のように真っ赤である。文化大革命と称する虐殺、民主化運動への虐殺、法輪功学習者を人体臓器移植のために弾圧・監禁、ウイグル人への監禁・強制収容・強制労働、ウイグル人滅亡政策、これでも共産党を支持しますか?文革開始から50年を迎えた中国共産党は当時の回想も、文革そのものや残虐行為についての歴史的評価も、包み隠そうと躍起になっている

         皇紀2682年10月19日
         さいたま市桜区
         政治研究者 田村 司

「中国式現代化」を推進=共同富裕、加速へ―習近平氏

昨日 23:42

 【北京時事】中国共産党の習近平総書記(国家主席)は17日、開催中の党大会で広西チワン族自治区の代表団の会議に出席し、自身が目指す「中国式現代化」の推進を訴えた。国営新華社通信が報じた。「共同富裕」(共に豊かになる)などの看板政策を加速させる。


中国共産党大会での習近平総書記(国家主席)の演説を
映す屋外スクリーンを見る人たち=16日、中国・杭州(AFP時事)
© 時事通信 提供

 中国式現代化とは、党の指導を重視する中国独自の発展モデルを指す。16日に公表された中央委員会報告(政治報告)では、欧米や日本とは異なる制度や理念での発展を目指す方向性を強調。共同富裕に加え、質の高い発展などが目標に盛り込まれた。

 習政権は近年、対外開放の継続を唱える一方、米国による制裁強化をにらみ、重要産業と位置付ける半導体分野などで対外依存を減らす方針を打ち出してきた。市場に対する国家統制も緩めていない共同富裕を目指す中、巨大な影響力や資本力を持つ国内IT大手への締め付けを強めている

広西虐殺

文化大革命中に広西チワン族自治区で発生した虐殺と人肉食である。
殺害の方法には、斬首、殴打、生き埋め、石打ち、溺死などが含まれる。
中国本土での公式の死者数は10万人から15万人。
虐殺と共に大規模な人肉食武宣県と武鳴区を含む多くの郡で起こった。
なお、当時の広西において飢饉の発生は無かった。
部分的に開示された資料によると、少なくとも137人が食べられ、少なくとも数千人が人肉食に参加した。
一部の研究者によると、広西チワン族自治区の約30の郡人肉食が報告され、これまで犠牲者のうち421人の名前が判明している。

文化大革命後、虐殺や人肉食に関与した人々は軽微な罰を受けただけであり、武宣県では、15人が起訴されたものの、最高で14年の懲役を受けたにとどまった。また、91人の党員が除名処分となった。
1968年には武宣県が人肉食についての内部報告を「中央」に提出したが、それを止めるための行動は取られなかった

歴史的背景

韋国清

韋国清

文革真っただ中の1967年3月から、広西チワン族自治区の軍隊と民間人の中に「共同司令部」「4.22」2つの派閥が形成されていた。[2]

このうち「共同司令部」は、韋国清(広西チワン族自治区議長)を無条件に支持していたが、「4.22」は無条件の支持に反発し、魏に自己批判をするように求めた。

黄永勝

黄永勝

「4.22」は周恩来首相の支援を受けてはいたが、桂林市を除く広西チワン族自治区全体で不利な立場にあった。

1968年2月、広州軍区は「4.22」を支援する軍隊に自治区からの撤退を命じ、 さらに1968年4月、当時広州軍区長だった黄永勝は、「4.22」は「反動組織」であると宣言し、大規模な弾圧を開始した。1968年の夏以来、虐殺は地方から広西チワン族自治区の都市に広がった

虐殺方法

虐殺の方法には、生き埋め、石打ち、溺死、釜茹で、腹裂きの刑、心臓や肝臓を抉り出す、肉削ぎ、ダイナマイトでの爆破などが行われていた。

  • 背中にダイナマイトを縛りつけられた人が、爆殺され粉みじんになったという記録が残っている。

  • 武宣中学校で地理の先生であった吳樹芳という教師が生徒に殴打されて死亡した際は、その遺体は黔江の平らな石の上に運ばれ、生徒達に銃を突き付けられた別の教師によって心臓と肝臓を抜き出された。抜き出された臓器は生徒達が焼いて食べた。

死亡者数

一次調査[編集]

1981年4月、中央規律検査委員会と5つの組織(中国共産党中央弁公庁、中国共産党中央組織部、中華人民共和国公安部、最高人民法院、最高人民検察院)の取り決めの下、20人を超える調査グループが結成された。

1981年6月、調査グループは死者数は10万人を超えるとの調査結果を発表したが、一部の当局者や民間人には、死者数は15万人、20万人、50万人であると主張している者もいる

二次調査

1983年3月、中国共産党中央委員会によって40人ほどの調査グループが結成され、調査の結果、89,700人の死者の身元が判明した。

だが、なおも20,000人以上が行方不明であり、30,000人以上の死者は身元を特定できなかった。

学術研究

2006年、カリフォルニア大学アーバイン校の蘇陽教授は、広西チワン族自治区の虐殺が中国文化大革命の最中に最も深刻な虐殺であったと主張した。彼は、広西チワン族自治区にある65の郡のうち、43の郡が虐殺を報告していると述べた。これらの郡のうち15は、1000人以上の死者を記録しているが、平均死者数は526人である。

カニバリズム(食人、食人俗、人肉嗜食)

大規模な共食いは、文化大革命の間に広西で発生した。
1980年代後半にこのトピックについて詳細な調査を行い、後に公式文書のコピーを米国に密輸した学者鄭義によると、少なくとも137人、おそらく数百人がカニバリズムの犠牲となった。そして何千人もの人々が共食いに参加した。一次二次両方の調査に参加した公安省の職員である晏樂斌によると

1968年、武宣県では38人が食べられ、郡の113人の役人が人間の肉、心臓、肝臓を食べることに参加しました。たまたま武宣を通りかかった貴港県の農民 (陳國榮)、は太っていたため地元民兵に捕まり殺害された。彼の肉が20人に分配されている間、彼の心臓と肝臓は取り出されました。女性の民兵指導者は合計6人の肝臓を食べ、5人の男性の性器を切り、後で飲むアルコールに浸し、これらの臓器が彼女の健康に有益であると主張しました。人間の肉、心臓、肝臓を食べる行動は、武宣、武鳴、上思、貴港、欽州、桂平、凌雲を含む広西チワン族自治区の多くの郡で発生しました。

香港大学の人文科学教授でスタンフォード大学フーバー研究所のシニアフェローであるフランク・ディコッター(Frank Dikötter)によると[15]:

1967年から1968年にかけて、田舎には肉体的に殺し合い始めただけでなく、いくつかの小さな町で儀式的にお互いを食べ始めた派閥がありました。言い換えれば、あなたの「クラスの敵」を排除するだけでは十分ではありません。あなたは彼の心を食べなければなりません。儀式の共食いの非常によく文書化されたケースがあります。「クラスの敵」を食べるときは階層がありました。指導者たちは豚肉を混ぜて心臓と肝臓を食べ、普通の村人は犠牲者の腕と太ももをつつくだけでした。

カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で働いていた中国の歴史家、宋永毅によると

広西チワン自治区の独立した研究者は、食べられた合計421人を数えました。しかし、広西チワン族自治区の27の郡で共食いの報告があり、それは広西チワン族自治区の全郡の3分の2です。いわゆる「第五カテゴリー」と言われる男が一人、立ったまま殴打されて死亡した。彼には11歳と14歳の2人の子供がいた。地方当局と武装民兵はそのような人々を根絶することが重要であると言ったので、彼らはこれらの2人の子供を殺しただけでなく彼らも食べた。これは広西チワン族自治区の浦北県で行われ、合計35人が殺されて食べられました。犠牲者のほとんどは金持ちの地主とその家族でした。家族全員が一掃された劉正堅と呼ばれる一人の地主がいました。彼には17歳の娘、劉秀蘭がいて、9人に輪姦された(19回)。レイパーはそれから彼女の腹を引き裂いて開き、そして彼女の肝臓と胸を食べました。このような事件は非常に多かった。


文革50年、語られぬ「人肉宴席」 中国

2016年5月13日 16:09 発信地:武宣/中国 [ 中国・台湾 中国 ]
【5月13日 AFP】中国では文化大革命(Cultural Revolution)の狂乱のさなかに恐ろしい「人肉宴席」の犠牲となった人々がいた。しかし、文革開始から50年を迎えた中国共産党は当時の回想も、文革そのものや残虐行為についての歴史的評価も、包み隠そうと躍起になっている

 文化大革命は、大躍進政策(Great Leap Forward)で失敗し政敵打倒をもくろむ毛沢東(Mao Zedong)の主導で1966年に始まった全土で暴力行為や破壊行為が10年続き、党主導の階級闘争は社会的混乱へと変貌していった。まだ10代の紅衛兵(Red Guards)たちは、「反革命的」だとして教師を撲殺。家族間で非難の応酬が起き、各地で激しい派閥争いも発生した。

 だが、かつて毛沢東について「70%は正しく、30%は誤り」と評価した中国共産党は、文革の下で起きた出来事や責任の所在をめぐって本格的に議論することを認めてはいない。

 文革時代の最も行き過ぎた行為の一つに、中国南部・広西チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)の武宣(Wuxuan)県で起きた、粛清の犠牲者の心臓や肝臓、性器が食べられた事件がある。

 共産党が文革を宣言した1966年5月16日の「五一六通知」から50年が経過した現在、武宣県にはフローズンヨーグルトを売る店が立ち並び、こけむした石灰岩の下を流れる川で男性たちが釣りを楽しんでいる。木々の枝には共産党の人民への貢献をたたえる赤い旗が掲げられている。

 地元住民の中には、飢えではなく政治的憎悪によって武宣県の路上を血に染めた数十件に上る食人行為について、聞いたこともないと話す人もいる。

 80年代初頭に公式調査を行った主要メンバーの一人は、匿名を条件にAFPの取材に応じ、武宣県では少なくとも38人が食人の犠牲になったと明かした。「全ての食人行為は、階級闘争があおられた結果起きたもので、憎悪の表現として行われた。恐ろしく、獣にも劣る殺人だった].

10年間の惨劇の中、広西チワン族自治区では無数の人々が命を落としたのみならず、ぞっとするような残酷行為と悪意が吹き荒れた」――この調査団の元メンバーは、未公表のままの報告書草案にこう書いている。AFPが確認した草案には「首切りや殴打、生き埋め、石打ち、水責め、釜ゆで、集団虐殺、内臓の抜き出し、心臓や肝臓、性器の切り取り、肉のそぎ落とし、ダイナマイトでの爆破など、あらゆる方法が使われた」とあった。

 1968年には、中学校の生徒たちが地理の講師を殴り殺した後、遺体を川辺に運び、別の教師に強要して心臓と肝臓を取り出させる事件があった。学校に戻った生徒たちは臓器を焼いて食べたという。現在、この中学校は移転しており、現役の生徒たちに聞いても事件は知らないと首を振る。地元住民らも、知らないと答えるか、口を閉ざすかのどちらかだ。

 事件について議論することを望むごく一部の人々は、記憶が風化する中、町は過去から逃れることに必死だと話す。ここ数年で急激に発展する武宣県にとって、歴史は「何の意味も持たない」のだ、と。

■破られた沈黙と当局の抑圧

 ある中国当局者の推計では最大15万人の犠牲者を出したとされる広西チワン族自治区での大虐殺のうわさは、その後15年にわたって中国全土でささやかれ、ついに当局が調査団を派遣するに至った。しかし、調査報告書が公表されることはなかった

 外部が事件について知ったのは、ジャーナリストの鄭義(Zheng Yi)氏1989年の天安門事件後にひそかに資料を国外に持ち出し著作「Scarlet Memorial(邦題:食人宴席)」を出版してからだ。同書は中国本土では発行禁止とされている

 近年になって調査団の元高官も、中国国内での事件に関する認識を深めようと改革派の中国誌に調査結果に関する記事を寄せたが、当局によってもみ消されたという。この高官は、地元の元共産党幹部から「反党、反社会主義、反毛沢東主義」だと中央に告発され、自己批判と誤りの修正、謝罪を要求されたとAFPに語った。

 今、中国政府はメディアや世論の統制を強めていると、この高官は言う。「党の権威を確立するため、世論統制を行っているのは明白だ」。文革開始50年の節目に、党の公式行事は予定されていない。専門家は、当時の回想によって党の正当性が損なわれるのを指導部は恐れていると指摘する。

 知識と議論に対する抑圧に、現在米国に居住する鄭氏は懸念を強めている。「掘り下げた歴史分析を中国政府が頑として容認しない現状では、何らかの教訓を得たと言うことは不可能だ」と鄭氏はAFPに話した。(c)AFP/Benjamin CARLSON

参考文献・参考資料

「中国式現代化」を推進=共同富裕、加速へ―習近平氏 (msn.com)

チワン族 - Wikipedia

広西チワン族自治区 - Wikipedia

広西虐殺 - Wikipedia

カニバリズム - Wikipedia

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