見出し画像

吉田松陰の歩み #2 〜世界を知った6年間〜

前回は吉田松陰が生まれてから、長州藩の中で学んだ20年間を書かせていただきました。今回は、いよいよ長州から出て、九州から東北まで歩き回り、黒船とも対峙した6年間をたどっていきたいと思います。

九州遊学

1850年、松陰21歳。長州を発ち、九州へ向かいます。

よっしゃ!
長州の外の世界を見てくるぞ!
まずは九州!待ってろ平戸!
待ってろ葉山左内!

長崎に立ち寄り、到着したのは、この遊学の目的地である平戸。松陰が師範を務める山鹿流兵学の重要な拠点。下関の北浦防備視察中に、平戸へ行って葉山左内に教えを乞うが良いと言われ、葉山左内へ会いにいきます。

画像1

平戸では、葉山左内を通して多くの人と会い、様々な土地を見て歩いたと言います。さらに、50日間の滞在期間中に80冊もの書物を読んで、必要なところは写し書きをしていたと言います。

めっちゃ良い本いっぱいあるわ!
これもコピーしとかな!

そして平戸で葉山左内にお世話になったのち、熊本にも立ち寄りました。熊本では宮部鼎蔵(ていぞう)と出会います。宮部鼎蔵は、肥後藩の山鹿流の兵学師範を務めていた人で、吉田寅次郎と早速意気投合。この後の松陰の短い人生において、とても深い親交を持つ幕末の重要人物の一人です。

江戸遊学

九州遊学から戻ると、江戸へ向かいます。長州藩の参勤交代に従事する形で遊学が許されました。萩を出たのが1851年3月5日。4月9日には、江戸の長州藩邸に到着しました。

これが江戸かぁ!

そんな感じで興奮したかどうかは分かりませんが、江戸でも多くの先生や志士たちと出会います。

熊本で親交を深めた宮部鼎蔵とも再会し、二人とも山鹿流兵学の山鹿素行の直系である山鹿素水の塾に入門したり、また、朱子学、陽明学に明るく、海防論や外国事情にも詳しかった安積艮斎(あさかごんさい)の塾にも通いました。

江戸には多くの人が集まって刺激は多かったと思いますが、期待が大きかったせいか、少し物足りなさを感じていたようで、

江戸には先生になるような人はいねぇ

と手紙の中で綴っていたようです。ただ、そんな江戸で、唯一見つけた、尊敬に値する師が佐久間象山です。

佐久間象山は、真田信之を祖とする信濃松代藩の藩士で、1842年、松代藩が幕府から海防掛に命ぜられた際に、象山は顧問に抜擢されて、アヘン戦争による混沌とした海外情勢の研究を行い、海外に対する意識が高まり、蘭学習得の必要性に目覚めていきます。その後1851年から江戸で五月塾を開講し、吉田松陰のみならず、勝海舟坂本龍馬など名だたる志士たちが象山の教えを請いました。確かにめちゃくちゃすごい先生。

東北へ遊学・・・脱藩?

松陰は、宮部鼎蔵と東北行きの計画を立てます。名目上は、文武盛んな東北の著名な城下を訪れて見聞を広めることが目的だったようですが、本当の狙いは、世界の列強の脅威が迫る中、もっと自分の目で見て学ばないといけないと思っていた二人が、通商を求めてしばしば東北地方に現れていたロシア船を見にいくためだったとも言われています。

東北への出発の日を12月15日と設定した二人ですが、直前まで松陰の遊学の申請に許可が降りません。

なんで許可が降りんのじゃ!

そしてないまま12月14日を迎えてしまいます。

友との約束を破るわけにはいかん!

焦った、松陰はとんでもない行動に出ます。藩の許可なく旅立ってしまいます。つまり、脱藩です。死罪もありえるくらいの重罪です。下手したら家族まで重い罪が課せられます。

待ってろ鼎蔵!!

しかしこの時、まだ宮部鼎蔵は江戸にいました。松陰が先に東北に向かった知らせを受けて、慌てて追いかけます。そして、ようやく水戸で合流したと言います。

なんとも思い切った行動に出る松陰のエピソードですが、友との約束を守ることも大事だったとは思いますが、それ以上に、友と旅して得られる貴重な体験が、この先の自分の人生、つまり天下の行先を大きく決めることになるという強い信念があってのことではなかったかなと推察されます。藩からの許可が降りないというくだらない理由で、その天命を全うできないなんて事があってなるものか!くらいに捉えていたのかもしれません。

東北遊学〜萩送還

1ヶ月を過ごした水戸では、会沢正志斎(あいざわせいしさい)という人物と何度も会って、尊皇攘夷の思想を深く胸に刻んだものと思われます。水戸の改革派との親睦も、この東北旅行の大きな目的の一つであったとも言われています。

その後、この東北旅行では、水戸→白河→若松→新潟→佐渡→弘前→今別→青森→小湊→盛岡→仙台→米沢→若松→日光→足利→江戸と長きに渡る旅程を4ヶ月かけて回り、二人は江戸に帰ってきます。

脱藩を犯した重罪人である松陰が帰ってくるまで、松陰の友人である来原良蔵が謹慎処分となっていました。東北旅行の件を知りながら止めなかった責任を感じ、東北に行かせたのは自分だとして自首してきたためです。これにより、松陰の処分は保留されていました。

そして松陰が江戸に戻った際、友人が謹慎処分を受けていることを知り、松陰も自首をしました。

脱藩してすんません。。

そうして松陰は長州へ送り戻されて、裁きを受けることになります。

しかし、萩に戻った松陰は、藩士の身分を剥奪されますが、松陰の類稀なる才能を惜しんだ藩主の毛利敬親により、10年間有効の国内パスポートゲットします。向こう10年間の国内遊学が許可されたのです。

そして無敵となった松陰は、再び江戸へ向かうことになります。

海外渡航への想い

脱藩したにもかかわらず、無敵となった松陰は、スターマリオさながらの幕末無双状態で国内を駆け抜けます。

まず、再び江戸に戻り、佐久間象山に師事していた1853年、とうとう浦賀沖にやってきたペリー提督率いる黒船を、佐久間象山と吉田松陰は目の当たりにします。

画像2

そして佐久間象山は吉田松陰に、外国船に乗って海外への密航を勧めました。元々、幕府に対して若い優秀な人材を外国に送り込んで学問をさせるべきだと提言していた象山ですが、それは叶わない事だと悟ったため、密航しかないと思ったそうです。

浦賀沖から黒船が去った後、プチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に入港したという知らせを聞いた松陰は、象山から旅費4両をもらい、スターマリオの勢いで長崎へ走りました。しかし、残念ながら間に合わず、長崎からの密航は失敗に終わり、また江戸へと戻りました。

黒船搭乗〜萩送還

そして翌1854年1月。ペリー率いるアメリカ艦隊が、再び来航します。

今度は下田に停泊しているという情報を聞き、松陰は下田へ向かいます。この時、密航計画を知った金子重輔(しげのすけ)は、松陰に同行を強く願い出て、弟子として引き連れて行きました。

画像3

下田に着いた松陰と重輔の二人は、夜間、小船を漕いで停泊している黒船に向かいました。旗艦ポーハタン号に乗り込んだ二人は、通訳と漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えました。

頼む!私たちをアメリカに連れてってくれ!
連れてってくれないと捕まって殺されてしまうから
どうか慈愛の心を持って乗せていって欲しい!

その熱い思いは、ペリーの心を打ちますが、日米和親条約を締結したばかりの両国は、互いの法律を守る義務があったため、二人の願いを叶えてあげることはできませんでした。失意のもと、船を降りる二人ですが、ペリーは江戸幕府に対して、骨のある日本人に心を打たれた旨を伝え、二人に対して重い罪を与えないように伝えたと言います。

死罪をも覚悟した二人ですが、幸いにも自宅での謹慎処分にとどめる判決が幕府から言い渡され、萩に返されることになりました。

幕府の判決は、自宅謹慎だったにもかかわらず、萩へ戻った二人は投獄されてしまいます。流石に黒船に乗って異国の人と勝手に交渉するような危険人物は投獄せざるをえなかったようです。

松陰は士分が投獄される野山獄へ入れられますが、金子重輔は、劣悪な環境の岩倉獄へ送られました。重輔は、1年後に25歳の若さで、獄中で亡くなってしまいました。

吉田松陰は、この野山獄から一気に人々を感化させていく才能を開花させていきます。

参考文献