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【短編小説】頑固な迷子の対処法

 『雨が降ったらお休みで』なんて歌詞の歌があったが、なんて羨ましい学校なんだろう。雨の日は気持ちの落ち込みが特にひどく、学校の授業なんて少しも頭に入らない。いっそ雨の日はあの歌の通り、学校も部活も休みにしてくれればいいのに。
 バドミントン部の部活に嫌気が差した早紀さきは、部活をサボって立ち寄ったホームセンターで深々と溜め息をついた。中学二年生になってようやく上達を実感し始めたところだというのに、昼過ぎに降り始めた雨のせいで何もかも嫌になってしまった。
 明日からは何を楽しみに登校すればいい? まあそんな悩みも、学校に通うという日常が続けばの話だが。
 心もとない財布の中身が、余計に気を滅入らせる。つい先ほどホームセンターでビニール傘などを買ったので、残金がとうとう千円を切ってしまった。家に帰って母に相談すれば、傘代くらいは出してもらえるだろう。しかし、たったそれくらいのことで母に頭を下げるなんて絶対に嫌だ。
 雨はさらに激しくなり、周囲の道路を白い飛沫でかすませている。いつもなら次の電柱が見える辺りも、今はまるで異世界にでも呑まれてしまったかのように、すっかり濃いもやに閉ざされてしまっている。人通りのない歩道に立ち止まり、鈍色にびいろの雲を見上げながら雨音に耳を傾けた。耳にまとわりつく湿っぽくて不快なノイズ。それらはちょうど、部屋を閉め切っても聞こえてくる母の電話の声に似ていた。
 ここ最近、些細なことですぐに胸が重くなり、うんざりとした気分に深く沈み込んでしまう。早紀は、突然降り始めた今日の雨を恨まずにはいられなかった。この雨さえなければ、今頃は放課後の体育館でバドミントンに精を出していただろうし、雨の中こんな気分になることだってなかった。

 気だるさに堪えられなくなって視線を雨雲から逃すと、前方に小さい人影を見つけた。三歳くらいの男の子が歩道に立ち止まって、雨粒に揺れる低木の植え込みを覗き込んでいる。
 男の子は雨具を持っていないようだ。濃紺のTシャツと臙脂色のハーフパンツが雨に濡れて、より深い色に染まってしまっている。
 早紀は男の子の傍まで歩み寄り、買ったばかりのビニール傘を頭上に差し出した。
「そこにいたら濡れちゃうよ」
 傘を叩く雨音が騒がしいが、同じ傘に入っている者の声が聞こえないはずがない。しかし男の子は声のほうを振り向きもせず、なおも植え込みの中を熱心に見詰め続けている。辺りを見回しても、男の子の親らしき人影は見当たらなかった。ということは、この激しい雨の中を一人で出歩いているということになる。
「もしかして迷子?」
 再度話しかけてみたが反応はない。早紀はあからさまに眉を寄せた。目に入ったので何となく声をかけてみたが、別にこの子に用があるわけではない。気づかないふりをして素通りしたって一向に構わないのだ。
 早紀が立ち去る気配をみせると、雨粒が傘の縁から滑り落ち、男の子の頭の上でいくつも跳ねた。同時に、彼の口から小さなくしゃみが飛び出す。これ以上放っておくと、風邪を引いてしまうかもしれない。
「ちょっと、返事くらいしなさいよ」
 ぎょっとせずにはいられなかった。自分の口から出た言葉が、母の耳障りな口調にそっくりだったからだ。口うるさくて薄情なあの母とそっくり? そんなの絶対にあり得ない。今のはたまたま。そう、本当の私は決してあんなじゃない。
 早紀は目の前に浮かんだ母の面影に当てつけるかのように、男の子の傍に寄り添って屈み込んだ。改めて彼の顔を覗き込んでみる。植え込みを見詰める彼の表情は真剣そのものだ。こんな大雨だというのに、一体何が彼を釘付けにしているのだろうか。不思議に思った早紀は、彼の視線の先を慎重に追ってみた。
 途端に声が出そうになった。彼が凝視している枝の先には、殻の直径が五センチほどもある大きなカタツムリが鎮座していた。これほど立派なカタツムリを、こんなにも間近で見るのは初めてだった。飛び出した両目で辺りを漫然と眺めながら、濡れた枝の上をのろのろと滑り始めたカタツムリ。足元を波打たせて前進する牧歌的な様を眺めていると、心なしか全身の力がみるみる抜けていくようだ。
 そういえばここのところ、母と大声で言い争うことが多かった。そのたびにイガグリが身体中を暴れ回るような気持ちになって、日中も落ち着いて物事を考えられる心境ではなくなっていた。それだけに、ぼんやりとではあるがこうして一つのことに集中できたのは久し振りのような気がする。
 我に返って視線を戻すと、隣にいたはずの男の子はいつの間にかいなくなっていた。慌てて立ち上がり、辺りを見回す。男の子の小さな背中が、歩道をゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。
「待って、どこ行くの?」
 追いついた早紀が訊ねても、男の子は依然としてだんまりを決め込んでいる。振り返る気配さえないところをみると、知らない人と話してはいけないと厳しくしつけられているのかもしれない。
「一人で来たの? お母さんは?」
 男の子はたまに立ち止まって分かれ道に迷ったり、後ろを振り返ってみたりしながらも、難しい顔をして雨の中を歩き続けた。どうやら迷子で間違いなさそうだ。
「ほら、もっとこっちにおいで。傘からはみ出ちゃうよ」
 そう呼びかけると、男の子は無反応ながらもわずかに歩速を落とした。知らない人の指図とはいえ、やはり雨には打たれたくないらしい。
 突然、早紀の胸にじんわりと温かいものが広がった。男の子の素直さが垣間見えたからだろうか。前を歩く彼の頭を見下ろすと、艶のある柔らかそうな髪の毛がすっかり雨に濡れ、雫をしたたらせている。再び早紀の胸に穏やかな火が灯った。
「雨に濡れて寒くない? ちょっとあそこで休憩しようよ。頭と服を拭いてあげる」
 早紀がどしゃ降りの向こうにぼんやりと浮かぶコンビニの明かりを指差すと、相変わらず返事はなかったが、男の子は早紀が指差したほうへ緩やかに向きを変えた。どうやら提案を聞き入れてくれたようだ。
 ここまでだんまりだとさすがに可愛げがないが、最近は物騒だとも聞くのでこれくらいでちょうど良いのかもしれない。それともまさか、私からただならぬ気配が漂ってる? ここのところ気持ちの浮き沈みが激しいせい……? はっとした早紀は慌てて自身を顧みると、すっかり強張っていた頰をさりげなく緩めて見せた。

 コンビニに入った早紀は、ボックスリュックから部活用のスポーツタオルを取り出して男の子を念入りに拭いてやった。彼は別段嫌がることもなく、早紀に頭を差し出してされるがままになっている。コミュニケーションは何一つ成立していないが、こうしてしおらしくしてくれるだけでも可愛く思えるのだから子供とは不思議なものだ。
 あらかた拭き終えると、男の子は一人でふらりと店の奥へ行ってしまった。リュックを背負い直して追いかけると、ドリンク類が並ぶ冷蔵棚の前で彼を見つけた。
「そういえば喉乾いたね。なんか飲む?」
 早紀が冷蔵棚の扉を開けてペットボトルを一本摑むと、男の子は初めて小さな声を出した。
「わーらー」
 驚いて見下ろすと、男の子が得意げに早紀を指差している。
「今、何て言ったの?」
 優しく問うてみると、男の子は突き出した自分の人差し指を、早紀が持っているミネラルウォーターにぐいと近づけた。
「ああ、ウォーター。英語で言えるなんてすごいね」
 頭を撫でようとすると、彼はまるで拒否するかのように激しくかぶりを振った。
「ううん、わーらー」
 早く水が飲みたい、ということだろうか。それにしても、外見はどう見ても日本人だがかなり流暢な発音だ。
「その発音、まるでネイティブの先生みたい。どこかで習ってるの?」
「うん、しおかぜモールのとこ」
 そういえば、近所のショッピングモールに子供向けの英語教室が入っている。そこに通っているなら慣れた発音も不思議ではないし、ひょっとすると今も教室に行った帰りなのかもしれない。
「だから英語が上手なんだ。ねえ、その英語教室に戻ってみようか。お母さんが捜してるかもしれないし」
 男の子はそれには答えず、早紀の目を覗き込みながら例の言葉を繰り返した。
「わーらー」
 早紀の笑顔が微かに歪む。どうやら彼は、早紀の発音の間違いを指摘しているようだ。自慢するほどではないが、英語は早紀の得意科目だ。十歳以上も歳下の幼児にダメ出しされるのは、さすがに面白くない。
「はいはい、ウォーターね。君も飲む?」
「ううん、わーらー」
「──えっとね、アメリカ英語だとそうだけど、イギリス英語だと〝ウォーター〟っていうんだよ。知ってた?」
 男の子はあからさまに眉を寄せた。思わず視線が泳ぐ。顔が燃えるように熱い。私は幼児相手に何をむきになっているのだ。
「う、うん。わーらーね、わーらー。もう覚えた、ありがとね」
 何とか土俵際で苛立ちをせき止め、精一杯の笑顔を作って見せると、男の子はすぐに満面の笑みを浮かべた。頑固なところはあるが、悪気があるわけではない。しかも目の前の笑顔は、早紀が一つ賢くなったことへの純粋な祝福だ。そう考えれば、いつも怒ってばかりの母なんかよりずっと優しくて思いやりがあるではないか。早紀は苦笑せずにはいられなかった。とてもじゃないが、今の自分はこんな風に人の幸せを喜ぶことはできない。
 早紀と男の子は飲み物を持って、コンビニのイートインカウンターに落ち着いた。ガラス壁の向こうは相変わらずの大雨で、建物も木々も道路もぐずぐずと灰色に滲んでいる。そして隣には、紙パックのオレンジジュースを嬉しそうに飲む男の子。この光景がやたらと長閑なだけに、外の荒天がなおさら陰惨に見えてしまう。
 嫌な気分に負けず部活に参加していれば、少なくとも目の前のどしゃ降りに辟易することはなかった。もちろんこの子に会うことも、ホームセンターに立ち寄って買い物をすることも……。
 早紀は改めて男の子の顔を盗み見た。もしかすると彼は、今日の自分を救うために現れた小さな王子様ではないだろうか。自分勝手な妄想かもしれないが、ひどく沈んでいた心がそう感じるのなら、もう少しこの偶然に付き合ってみるのもいいかもしれない。
 先ほどの英語のやり取りが功を奏したらしく、男の子は少しずつ会話に応じるようになった。彼の名前はユウト。思った通り、母親とショッピングモールにある英語教室に行った帰りらしい。だが、当初から母親の姿はどこにもなかった。帰る途中ではぐれたか、もしくは一人で教室を出てしまったのかもしれない。どちらにしても、今頃母親は血眼になって彼を捜しているだろう。
「これ飲んだらさ、一緒におまわりさんのところに行こうか」
 ユウトはぽかんとするばかりで、返事をする様子はない。いまいち要領を得ないようだ。
「おうちに帰りたいでしょ? お母さんも心配してるだろうし」
「今ね、帰ってるとこ」
「おうちがどこかわかるの?」
 力強く頷いたユウトは、少なからず口元を強張らせた。迷子ではなく、あくまで帰宅途中なのだという彼の主張はそこはかとなく怪しい。しかし本人がそう言い張るのだから、強引に交番まで引っ張っていくわけにもいかない。
 早紀の気苦労などどこ吹く風とばかりに、ユウトは機嫌よくジュースを飲み干すと、両手の人差し指を立てて頭の上に乗せた。まるで彼の頭に二本の角が生えたかのようだ。
「なあに、それ? お母さん?」
 何気なく訊ねると、彼はいかにも心外といった様子で目を丸くした。
「違う。スネイル」
「スネイルって何?」
「カタツムリ」
 どうやら頭の角は、先ほど植え込みで観察していたカタツムリの真似らしい。
「そっか、確かに似てる。角みたいに目を伸ばしてたもんね」
 それにしても、角を生やした姿を母と勘違いするなんてとんだ笑い草だ。確かに早紀にとって母は、いつも怒ってばかりで、口を開けば押しつけがましい小言ばかりの厄介な鬼に違いない。しかも母と話したり、母のことを考えたりすると、早紀自身も鬼に取り憑かれてしまったような気持ちになることさえある。
「じゃあさ、お母さんの真似できる?」
 彼にとって母とはどんな存在なのだろう。ちょっとした好奇心から出た何気ない質問だったが、ユウトが取った行動はあまりにも意外だった。彼はしばらく思案を巡らせたかと思うと、いきなり早紀に抱きついてきたのだ。
「──どうしたの?」
 早紀の胸に頰を強く押しつけるユウト。戯けている気配はまったくない。おそらく彼の物憂げな瞳には、目の前にいる早紀ではなく、いつも一緒にいる優しい母が浮かんでいるのだろう。ユウトにとって母とは、こうして安心や温もりを与えてくれる掛け替えのない存在のようだ。
 母の真似をしようと考えているうちに、母のことを思い出して恋しくなってしまったのだろう。そんなユウトの頭をゆっくりと撫でていると、心の中に不思議な感覚が広がっていくのがわかった。彼のような時期が、幼い頃の自分にもあったような気がする。不意に母の穏やかな笑顔が脳裡をよぎり、抱きつくユウトを抱きしめずにはいられなくなった。
「早くおうちに帰ろうね。帰ったらお母さんに、いっぱい抱っこしてもらおう」

 コンビニを出て、再び雨の街を歩く。ユウトは一人で帰宅できると言い張るが、交差点で行き先を迷ったり、たびたび後ろを振り向いては泣きそうな顔をしているところを見ると、見栄を張っただけで本当は帰り道など覚えていないようだ。
「やっぱりさ、おまわりさんのところ行こう?」
 ユウトは口をぎゅっと結んで、頑なにかぶりを振った。きっと自分の不甲斐なさが許せないのだ。自分の不注意で迷子になってしまったこと。帰り道がわかると言っておきながら、いまだに迷い続けていること。そして、あまりの心細さに泣き出してしまいそうなこと。
「悔しいのはわかるよ。でも、このままだとおうちに帰れないよ?」
 早紀が差し出した右手を、ユウトはぴしゃりと払った。彼の歪んだ頰の上を、もどかしさの雫がするりと滑る。その勢いはたちまち激しさを増し、昼過ぎから急に降り出した今日の雨のようにどしゃ降りとなった。
 ユウトは肩を震わせるばかりで、もはや歩く気力もないようだ。早紀はその場に屈んで目の高さを合わせると、じっと彼の言葉を待った。
「ほんとに、知ってるんだもん……」
「うん、わかってる。帰り道、知ってるんだよね。だからなおさら、上手くいかないことがじれったくて仕方がない」
 母は何かにつけ早紀にケチをつけ、自分の考えを強引に押しつけてくる。今どき周りにそんな考え方をする友達なんていないし、母の指図はいつだって自分勝手で頭ごなしだ。それは現実的でも魅力的でもなく、早紀にとってはカビの生えた野暮ったい重荷でしかない。
 でも早紀は知っている。勝手気ままな母が命じる過剰な押しつけの根幹は、娘を案ずる気持ちだということを。だからこそ母は、苦くて不味いとわかっている薬を毎日飽きもせず飲ませようとする。今まさに早紀が、迷子という苦い現実をユウトに飲み込ませようとしているように。
「でも、大好きなお母さんがいるおうちに帰るためだもん。おまわりさんに助けてもらおう。私の言うことを信じて」
 急に言葉が詰まり、思い出したくもない光景がどっと押し寄せてきた。息苦しさと吐き気に思わず目元が歪む。

 あの日、母は残業で帰りが遅くなるとメッセージを送ってきた。だから早紀は、友達を誘ってファミレスで夕食をとったのだ。
 思いのほか話が弾み、帰りが遅くなったのがいけなかった。午後十時近くになって慌てて帰路につくと、家の近所に見慣れない車が停まっている。反対側の歩道から何気なく車内を覗くと、運転席の男が助手席の女に覆いかぶさってキスをしていた。女の顔は見えなかったが、首に巻いた涼しげな色のスカーフが印象的だった。
 まさかそれから十分も経たないうちに、そのスカーフと再会することになるとは思わなかった。帰宅した母の首元を飾る涼しげな色合い。早紀は先ほど見た鮮烈な光景を思い出し、母の目の前で激しい吐き気に襲われた。
 嘘だらけで汚らわしいケダモノ。帰り際にあんなことをするくらいだから、今夜の残業はさぞ帰りが名残惜しかったことだろう。

「ユウト君!」
 声のしたほうを向くと、今にも泣き出しそうな四十代くらいの女性がこちらに駆け寄って来る姿が見えた。
「この子のお知り合いですか?」
 彼女は英語教室の事務員だった。二時間ほど前、今日のレッスンを終えたユウトは、母親が目を離した隙に駐車場で迷子になったらしい。現在、通報を受けた警察官やスタッフが大勢で行方を捜しているそうだ。
 三人でタクシーに乗り、ユウトの母が待っている警察署に向かった。ユウトは警察署で母にきつく抱きしめられると、まるで必死に押し込んでいた固い栓が一気に抜けたかのように大声で泣き出した。母もぼろぼろと涙をこぼしている。ユウトがいなかった数時間、母は文字通り生きた心地がしなかっただろう。
 ユウトをずっと保護していた早紀は、後日警察から感謝状を贈られることになった。ようやく肩の荷が降りて、気分よく帰途につく。だが、ご機嫌だったのは束の間。次第に早紀は、先ほど警察署で見たユウトと母の再会に苦々しさを感じるようになった。
 口うるさくて、鬱陶しくて、家族が知らない別の顔を持つ私の母。同じ母には違いないが、子を抱きしめて涙を流すユウトの母のような心が、本当にあの母にもあるのだろうか。
 なおも辺りを埋め尽くす乾いた雨音を浴びながら、早紀は家に着くまでの間、ずっとそのことばかり考えていた。

 玄関のドアノブに手を掛け、何度も深呼吸を繰り返す。このドアを開けた先は、息苦しい空気に支配された冷たい世界。胸が早鐘を打ち始める。逃げ出したい気持ちがないといえば嘘になるが、逃げたところで行くあてなどありはしない。それに逃げたってどうせ、母が住むこの家に連れ戻されるだけだ。だったら私がこの手で、終わりの見えないこの世界にとどめを刺すしかないではないか。
 震える手でゆっくりとドアを開けると、思いがけない光景が早紀を待っていた。レインポンチョを着込んだ母が、二本の傘を手に持って玄関の土間に立っている。
「あら、早いじゃん。傘持ってたんだ」
「……うん。帰りに買った」
「そう、すれ違いにならなくてよかった」
 母はこれから、早紀に傘を届けるため中学校に行くつもりだったようだ。
「あのさ、帰りが早かったの、部活サボったから」
「ふうん、そういうときもあるよね。明日からまた頑張んなさい」
 傘立てに傘を戻した母は、レインブーツを脱ぎながら事も無げに言った。いつものようにねちねちととがめてくれれば、うってつけの淀んだ流れが出来上がったというのに。このままでは踏ん切りがつかない。こうなったら多少強引でも、逆戻りができないくらいの濁流を自分で作らなければ。
「だったらさ、小さい頃みたいに抱きしめてよ。できないなら、今日で全部終わりにする」
 目を疑わずにはいられなかった。あっという間に母の胸が迫ってきて、次の瞬間にはほのかな温もりが頰に優しく染みていた。
 思わず涙がこぼれた。いつもは自分勝手で口うるさいくせに、こういうときに限ってあの頃のお母さんに戻るなんて。やっぱり私の母は、ずるくて意地悪で鬱陶しい。でもあの頃と同じくらい、柔らかくていい匂いで、どしゃ降りの心をたちまち乾かしてくれるくらいあったかい──。
 迷子だった自分を、やっと見つけてもらえたような気がした。ホームセンターで傘と一緒に買った出刃包丁は、使わずにこっそり捨てようと決めた。

(了)