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箴言から学ぶイエス

箴言8章、9章に出てくる
人々に叫び呼びかけている知恵(悟り)

これはイエスキリストの姿だ。
彼を愛する者を愛し、求めるものに出会う。

世が創られる前から神と共にいたという記述はヨハネの福音書の1章とリンクする。
私を得る者は命を得るという所でもイエスの言葉と繋がる。
イエスは人であり神であり、知恵である。

知恵とは「存在」を意味する。決してアイデアという意味には留まるものではない。

特に9章の1−6と13−18は対比となっており、
1−6では神殿を思わせる記述、パンとぶどう酒(新改訳)で聖餐式を思わせる記述がある。
7つの柱とはなんなのだろう?御霊の実かと思ったけどそれは9個だから違う。黙示録の7つの教会だろうな。

また、ここでは、思慮のないわざを捨て(悔い改め)、命を得て、そのあとの道は悟りの道だ、とある。悟りの道、私は霊的な直感の大事さを思う。

また、13−18で知恵の反対にあるのは愚かな女だ。
ここまでの箴言でも度々出てくる、悪い淫らな女に気をつけろという進言。

箴言を丁寧に読んでいると、これはただ単に姦淫の罪を犯すなということだけではない気がしてきた。
旧約聖書の中でイスラエルの偶像礼拝を姦淫と表現するが、神の道を逸れることを姦淫の罪としているのではないか。
つまり、罪全体を姦淫と表すことができ、姦淫の罪の性質から私たちの罪を犯す性質を学べるのではないかと思う。

神から与えられた者で満足せず、目に美しい、刺激的な者に惹かれていき、優先してしまう。神を忘れる。他の人を傷つけることよりも自分の欲望を優先する。

そんな性質は他の罪にも共通するのではないか。
つまり罪を犯す、神の道から逸れることを姦淫の罪が象徴しているのではないか?と思う。

箴言は深い。神が箴言の時代でも変わらない、一貫していることがわかる。

カオスをクリアに。その力が箴言にある知恵にはある。

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