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「良い子」について

僕は「良い子」という言葉に抵抗がある。
心にモヤがかかる感じがする。

「良い子」は我慢しなくてはいけないからだ。

甘える必要がない、助けられる必要がない、だから人に頼るなんて「贅沢」できない。
僕より恵まれていない子のために、僕は我慢すればいい。

そうやって寂しさを抱え、傷ついてきた自分がいる。

漫画『鈴木先生』の五巻でこんなセリフが出てくる。
「今の学校教育は 我々が普段思っている以上に―― 手のかからない子供の 心の摩耗の上に支えられている」
これにはグサッときた。


それは大学生の頃だった。
親はめちゃくちゃ僕に甘いし、優先してくれる。
自分は恵まれてると思っていた。し、事実恵まれている。
誰が悪いとかいう話ではない。

それでも学校で、教会で、自分が我慢するという「簡単な解決法」を選んでしまう時があったのだ。
「僕にもかまって。」と言えない自分がいたのだ。
そして「手のかかる子」を羨ましかった。

そんな自分の傷に、気づいた時には驚いた。

「あ、僕って寂しかったんだ。
 迷惑をかけられる人が、羨ましかったんだ。」

「恵まれてることが辛い。」
これも鈴木先生に出てくるセリフ。

「本当は僕こそ心配してほしい。
 迷っているから探し出してほしい。
 他に手のかかる子はいっぱいいる。やるべきこともたくさんある。
 僕は我慢ができる。でも。。。」

甘ったれることを自分に許せたら楽だったろうな。
そう思うのです。
まあ割と甘えさせてもらえてるんだけど。
それでも寂しさがあるってことは、この問題は相当難しい。


うちの娘は良い子だ。
あまり泣かない、たくさん寝る、手のかからない「やりやすい」子だ。
それを喜ぶ自分と、このままじゃなにか危ないと思う自分がいる。

それは自分の子が我慢できることを理由に我慢させてしまうんじゃないか、
そのことで、僕のように孤独感を覚えてしまうのではないかという。

子どもの我慢できる力は、親のための力じゃない。

頼ってくれ。甘えてくれ。
安心して寄り掛かれる場所にならせてくれ。

良い子は良いこと。
でも、我慢は美徳じゃないからね。


参照:「恵まれてるって、つらい」鈴木先生「手のかからない子」描いた理由

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