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あと映画チャレンジもついでに

昨日「7日間ブックカバーチャレンジ」の記録を掲載したついでに、同じく昨年の自粛期間中に、映画助監督の藤本信介さんに誘われて行なった「7日間映画チャレンジ」も記録用として。

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(1)『異境の中の故郷』(大川景子監督)
日本語表現作家のリービ英雄氏を主人公とするドキュメンタリー映画.プロデューサーは管啓次郎さんで,作家の温又柔さんも出演する.3年前にRethink Booksでの上映会とトークイベントに行って,その後,大川監督と温さんと3人で水炊きを食べに行ったのが懐かしい.九大でも上映会を開きたいと思いつつ,今に至ってしまった.まずは茲に紹介することで,このドキュメンタリーの魅力をより多くの方々に知ってほしい.『模範郷』(リービ英雄,集英社)も併せて味わうとなおよいと思う.

(2)『愛しきソナ』(ヤン ヨンヒ監督)
ヤン ヨンヒ監督は、周知の通り、在日コリアン2世の映画監督で、『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』などでも広く知られる。『愛しきソナ』はヤン監督作品の中で私が最も好きな映画で、授業でも何度か見せたことがある。ソナとは、ヤン監督の姪で、平壌に住んでいる。帰国事業により70年代に北朝鮮に移り住んだお兄さんの娘である。彼女を主人公として前景化させつつ、愛が充溢した家族の紐帯を精緻に描出していて、名状しがたい光芒を放っている。

(3)『Love Letter』(岩井俊二監督)
岩井作品の至純なる感性とあまやかな映像美が私の嗜好といつも吻合する。cinéphileではない私も監督の映像詩的な世界観に魅惑され、岩井作品は概ね観ている。
『Love Letter』は、韓国でも、日本大衆文化の第二次開放がなされた1999年に大ヒットし、この映画を契機に日本語の勉強を始めたという韓国の人も多かった。しかし、私がソウルの女子大で教鞭を執っていた2010年前後には既に知らない学生も多くいて、日本語の授業でよく見せていた思い出の映画。日本語の科白と韓国語字幕とを較量しながら、日韓対照言語学的な思考も頻回に傾けた。だから、この映画を観ると、私の脳裏にはいつも韓国での日々が自ずと顧瞻される。ちなみに、岩井作品の中では他にも『四月物語』をよく授業で見せた。これもいい。
今年1月に公開された、『ラブレター』ならぬ『ラストレター』もマスターピース。――「岩井俊二ほどロマンティックな作家を僕は知らない」(新海誠)

(4)『八月のクリスマス』(ホ・ジノ監督)
いまや古典的名作と顕彰される,韓国映画史に永らく響動むであろう作品.初めて観た韓国映画としてこれを挙げる日本語圏の人も多いと思う.私も,ハン・ソッキュの声音(こわね)とシム・ウナの透徹した婉然さ,そして「八月のクリスマス」という撞着語法的なタイトルに魅せられ,幾度となく観た.韓国語も聴き取りやすい.授業でも見せたことがあって,現在韓国の大学院に通う教え子がつい最近,私の授業を思い出して,ロケ地(全羅北道群山市)に行ってきたとSNSに書いていた.
映画評論家のイ・ヨノ氏は,この映画には「メロ(恋愛感情)は若干あるが,ドラマ(劇的な出来事)はほとんどない」と評する.慥かに,フェーズを反転させるような大きな事件は出来(しゅったい)しない.淡い恋情が混淆した凡庸なる日常が澹然と進行していく.しかし,それは決して〈終わりなき日常〉ではない.死が刻々と迫頭するテリック(telic)な日常である.換言するなら,この物語は〈終わりの始まり〉から始まると言ってよい.結末を知るが故,再観するたびに,随所に闇の遍在を察知し,テロメア(telomere)が短縮していくように,〈終わり〉へと残酷にも向かっていく日常に,私は劈頭から流涕してしまうのである.

(5)『マチネの終わりに』(西谷弘監督)
誰もがご案内の通り,平野啓一郎氏の同題の小説の映画版.
まず,何よりも小説が素晴らしかった.平野氏の椽大の筆に嗟歎の声を漏らしつつ,物語の巧緻な結構にも瞠目し,居住まいを正して,一気呵成に読了した.小説には各人の好尚があるので,あまり他人に薦めるということは日頃しないのだが,『マチネの終わりに』ばかりは友人や学生たちにも読むことを慫慂した.そして,通奏低音として蒔野のクラシックギターが仄聞こゆるような馥郁たるこの言語芸術を総合芸術の映画にいかに移植するのかということに関心を持ち,映画も封切りされるやいなや劇場へと足を運んだ.小説とは設定が異なるところも散見されたが,原作を損なわない映像と音楽の力に全身が共振し,いつまでも残像と残響が揺曳する,忘れ得ぬ観覧となった.――「出会ってしまったから,その事実をなかったことにはできない」

(6)『マルモイ ことばあつめ』(オム・ユナ監督)
1940年代,消えゆく朝鮮語を守るため,辞書作りに獅子奮迅した人々の物語.周時経やポスト周時経学派の崔鉉培といった学者たちの著作は,私を含む,現代の朝鮮語学者たちも座右に置いている.
自らのことばが他者によって侵襲的に殲滅されようとすること.蹂躙に抗い死にゆくことばを命を賭して記録せんとすること.人間にとってことばとは何か.ことばが人の為せる業である以上,ことばには人間の実存の根幹が刻印され,ときにそれが国家権力にいとも簡単に曝されうる政治的な存在となること.そしてそれによって齎される悲哀と瞋恚.こうした事柄に我々はもっともっと自覚的にならねばならない.言語を記号論的平面で把捉する伝統的な言語学や,言語を単なるコミュニケーションの道具へと矮小化する浅膚で牧歌的な言語教育学のフレームでは到底余蘊なく語り尽くせない,より深く,より人間的な問題群がこの映画には横たわっていると言えよう.

(7)『マイ・フレンド・フォーエバー(原題:The Cure)』(ピーター・ホルトン監督)
日本映画と韓国映画にしか触れていなかったので,最終日の今日はこれを挙げる.
孤独だった少年と,HIV感染者の少年との深い友情を描いたドラマ映画.ちょうど外国への関心の嫩芽が萌していた頃に観たこともあり,アメリカや英語への憧憬を強くした映画.ミネソタ,ミシシッピ川,ニューオリンズ…といったアメリカの地名にある種のフェティシズムを感じ,アメリカのランドスケープと美しいOSTに陶然とし,喪失のラストシーンでは涙滂沱として禁じ得なかった.

 映画の見巧者ではない私も,好きな映画や印象に残った映画,追憶の映画はたくさんあることに今回はたと気づいた.タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(管啓次郎さんの『ホノルル,ブラジル』にも出てくる),アキ・カウリスマキ監督の『白い花びら』(私が好きな西荻窪のミュージックカフェ「Juha」はこの映画に由来する),ソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』,松井久子監督の『レオニー』,『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』,『イルマーレ(시월애)』,『ホワイト・バレンタイン』,『ラブストーリー(클래식)』,『母なる証明(마더)』,『ホテルビーナス』,『すべては海になる』,『海街diary』,『おくりびと』,『バーバー吉野』(韓国の映画館で観たが韓国語の題名は『吉野理髪館』),『かもめ食堂』(ヘルシンキに行ったときロケ地も訪れた),『冷静と情熱のあいだ』,『娚の一生』,『東京シャッターガール』などなど…… あまり一貫性がないが.他にも,いつもお世話になっている西谷郁さんがプロデューサーを務められた『ある女工記』,同じく制作に関わられた西谷さんにお声をかけていただいてロケまで見学に行ったチャン・リュル監督の『福岡』,さらには,福岡アジア映画祭やアジアフォーカス・福岡国際映画祭などで観た映画も,タイトルを思い出せないものも含めて,印象的だった映画はいろいろある.『ネパールの首飾り』とか『プランマン』とか『作家とそのヒロインたち(여자들)』とか『하루』とか…… ソウルに住んでいた頃は,光化門のシネキューブで時々フランス映画を観ていたが,全然思い出せない.
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その後、観た映画の中で最も印象に残っているのは、瀬々敬久監督の『糸』。「平成史」という大文字の歴史として一括りにされる時空に沈淪する激動の「個人史」の繊細な交わりをあたかも織物を編むかのように活写した最高傑作。陰翳が揺曳する小松菜奈さんの演技も素敵。涙が止まらなかった。

号泣したといえば、『君の誕生日』。セウォル号事故をテーマにした映画だが、この出来事をあまり知らなくても没入できる映画。セウォル号事故をめぐる語りにはある種の政治性が随伴しやすいが、そうしたものは意識的に削ぎ落とされ、喪失が齎すリアルな悲しみを丁寧に描出しているからだろう。上映中、スクリーンの中の慟哭と、客席から漏れる欷泣が綯い交ぜになり、その声の交差と反響にまた泣かされた。

『ラストレター』の変奏曲とでもいうべき『チィファの手紙』も印象的だった。原題は『你好、之華』。当然だが、既視感のある内容。しかし、言語もキャストも風景も音楽も異なると、印象も大きく変容する。自ずと再生される記憶の中の『ラストレター』の朧げな映像が、眼前に展開される中国の声や風景と二重写しとなり、どこにもない「世界」を幻視した。

今年に入って観た映画の中で一番良かったのは、『花束みたいな恋をした』。「うち、飛田給なんですけど」という台詞によって一瞬にして私自身が大学生だったころにタイムスリップし、調布駅前のパルコ、明大前駅改札、ジョナサンのドリンクバーなどによって、青春時代の追憶が次々に脳裏に去来する。「花束みたいな恋」とはさぞかし理想的な=現実にはあり得ない恋なのだろうと思っていたが、〈恋の芽生えかた〉〈恋の壊れかた〉があまりにリアルで、唸ってしまった。

『街の上で』も素晴らしかった。冒頭の〈読む姿〉の複数のカットは、ケルテース・アンドルの『On Reading』を思い出させる。下北沢というそれ自体が記号として機能する街に、古本屋、古着屋、自主映画、恋愛といった魅力的な要素が織り込まれ、「カルチャー」を携えた、まだ何者でもない若者たちのリアリティーに心をぎゅっと掴まれる。登場人物間の距離感もそれぞれにいい。CITY COUNTRY CITYや古書ビビビなど、私にも馴染みのある場所が随所に現出して、懐かしさも感じる。下北沢の風景に若き思い出が刻印された人たちにはより楽しめる映画だと思った。

そして、最近最も注目しているのは、瀬尾夏美さんと小森はるかさんの一連の作品。いずれも、震災後の曰く言い難い〈第二の喪失〉を描いている。震災それ自体のみならず、あわいゆくときのなかで、復興工事により、産土(うぶすな)を喪い、風景が刷新されていくことへの心情は、〈あいまいな喪失〉(ポーリン・ボス)とも相通するように見える。
例えば、『二重のまち/交代地のうたを編む』。〈二重のまち〉とは言い得て妙である。そして、これは新旧の相互干渉不能な場所ではなく、往来可能な〈交叉しうるまち〉である。この寓話性が小さな慰藉として生起する。両者をつなぐ階段は、円環的時間ならぬ〈螺旋的時間〉の表象のようにも感じられる。現実的にはもう不在の場所であっても、ときの流れは常に地続きであって、空間を時間に読み替えれば、未だそこに在ると言えるかもしれない。そして、そのことにフィクション性を超えたリアリティを与えるのが記憶の継承だろう――「心配しないで 大丈夫 わたしのなかにとっておくからね」 映画の構造自体が、重層的にして重奏的で、時間と空間、断絶性と連続性、記憶と記録などといった概念群を沈思させてくれる奥行きのある作品。
それから、『息の跡』。「意味わかる?」「伝わるか?」と頻回に問いかけるたね屋の佐藤さん。経験を共有していない者にとって〈わかる〉とは何だろう。ことばが〈伝わる〉とは何だろう。「そもそもことばって伝わるものなの?」と私は常々疑問に思っている。それはことばの本態的な弱さとも繋がる。彼は震災を綴る。記録として残すことは社会的に意義があるし、書く行為が悲しみを癒すセラピー(筆記開示)にもなりうることは精神医学や臨床心理学の常識だ。しかし、彼が使うのは英語や中国語。なぜ日本語ではないのか。「母国語で書くことはできなかった。日本語だとあまりにも悲しみが大きくなるから」。言語の遠邇、そしてそれがもたらす粒度の問題。しかし「英語で書いても痛みは消えないと知った」。これは震災をめぐるドキュメンタリーだが、ことばの深みを考えるための映画でもあるように思えた。キーワードの「種」や「息」もいかにも意味深長だ。
瀬尾夏美さんと小森はるかさんの諸作品については、またいつか別に専論的に語る機会があればと思う。

そういえば、今年度は、後期に〈映画論〉の講義も担当することになっていたのだった。何を扱おうか。まだ何も考えていない。今月は、昨年に引き続き、KBCシネマでの韓国映画をめぐるトークの仕事も入っている。それに加えて、今月末にはヤン ヨンヒ監督、来月末にはイギル・ボラ監督の講演会の企画と司会進行、さらに再来月にはKBCシネマでイギル監督と対談。各種イベントの詳細は私のtwitterをご覧いただければ嬉しい。最近は、このように、映画関係の仕事も少しずつ増えてきた。

先月出たばかりの宮台真司さんの『崩壊を加速させよ:「社会」が沈んで「世界」が浮上する』(blueprint)の中に、「物語的思考と言語的理解への〈閉ざされ〉が映画リテラシーを低下させる。(中略)パケット化と早送り・倍速化が物語的思考と言語的理解への〈閉ざされ〉を支援する。加えてそれを加速するのが「映画館で観なくなること」。映画館での映画体験は、映画館という非日常的な空間性と、わざわざ映画館に出向くという時間性を伴う。前者の非日常性と後者の助走過程によって、普段働かない感覚への〈開かれ〉がもたらされる。それが失われてきた」という記述がある。まさにその通りだと思う。コロナがこの流れをさらに加速させる。今後も映画という媒体に注視していきたい。

*因みに写真は渋谷の好きな風景。左は雑居ビル、右はモダンなビルが櫛比している。渾沌とした東京という街を象徴する景色のようで、渋谷に立ち寄るといつもここに佇立して、つい風景を眺めてしまう。

 

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