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サロン乗る場のつくりかた【ふるまい】その2

サロン乗る場は、リラクゼーションサービスの提供を上演として捉え直し、リラクゼーションサービスを構成する要素を円盤に乗る場に参加するアーティストたちに演出してもらう。リラクゼーションサロンの形態した演劇作品です!

前回までのあらすじ!

前回に引き続き【ふるまい】の稽古のレポートです。
円盤に乗る派/ちょっとしたパーティーの渋木すずさんと共に、サロン乗る場にとってしっくりくる接客とは何かを探す旅。
今回は2回目の稽古をレポート。接客を考え続けた先に、サロン乗る場の隠れた設定も誕生しました!

これが前回(3/6記述)のラストです

「分け師」という架空の職業

さて、その後の稽古の中で公演に向けて渋木さんと話していった中で大きなポイントとなったのは
「分け師」という、この世界に存在しない職業。
なぜそんなありもしない謎の職業がキーワードになったのか。そんな目線から稽古で起こった事を紐解いていきます。

「分け」「師」(わけし、と読みます)

例えばなんですが、肩とか腰とか、体のここが疲れるって部位があったとして。
じゃあそれ以外の体は?
他にも「自分の体」はあるはずなのに、疲れがたまってるときって、激務で酷使してつらさを自覚している所ばかりを「自分の体」として認識している事ってないだろうか。
あるいは、毎日の生活の中で、自分の体と自分の外側に広がる「社会」や「世間」と一体化していることってないだろうか。
責任やタスクなどに没入して、自分が物体として持っている体積を忘れたりしてないだろうか。
そんな、現実社会と一体化してしまった感覚と「わたし」を分ける!
これがサロン乗る場にとってのリラクゼーションサービスの提供なのではないか?!2回目の稽古ではそんなところにたどりつきました。

まずは前回からの宿題だった、「わたし」をいなくする接客と「わたし」はここにいるぞって思える接客についての観察の結果を渋木さんからシェアしてもらう。


・型通りの接客は必ずしも人を透明化しない。型通りであっても私はここにいる、と思えた瞬間があった。・ふるまいの型よりも、そのふるまいを行っている時の態度や居方が重要なのではないか・私はここにいる、と思えたときを考えると、何かを発見できたり、何かに対してこちらから働きかけようとしたときかも?・電車とかバスのここにいない感がすごい。自動化してる。全然能動的になれない。(運ばれてる感がつよいのかも)・慣れる=自動化する、ではない。コンビニ行き過ぎて店員さんに認知されると、支払い方法を向こうが「PASMOでいいですか?」と聞いてくれて、その瞬間人間に戻ってる気がする→認知されるのが嫌な人もいるからこれが心地よい態度かは人それぞれ。

渋木さんの接客観察メモ

接客の型やマニュアルがあるとしても、それ自体が問題なのではなく、我々はそれを行う人の態度の方を受け取っているのではないかという説。言い換えると、マニュアルを遂行している人がどんな風にそれを演じているのか、演技に対して私たちは感想を持ちがち。
では、サロン乗る場の辻村はどんな態度で臨むのが作品にとっていい感じなのだろう。

・キーワード「普通さ」
ここでめちゃめちゃ引き算する。バランス。乗る場の辻村のふつう。
・ある態度を決めない。どこかに針がふれたようなふるまい、で、ないふるまい。
・どこにも針を振り切らせていない

相手の出方と関係なく役として決め切った態度だと、お客さんは引いてしまうのではないか、
という仮説。相手がいることに常に影響を受け続ける、ゆらいでいる状態。

それにしても、リラクゼーションサービスの提供は最終的なゴールがあいまいなのではないか。
レストランなら料理の提供。料理なら作ったものを料理人とお客さん、両者が一つのお皿を同時に認識できるけど(もちろん感じ方の差異はあるけど)
でも、提供するものがお客さんのリラックス…ってなんだろう。
共有可能なゴールというものがないために、施術者は際限なく奉仕する傾向にあったり、あるいは際限なく求められることを断る態度にならざるを得ない。
線をはっきり引く、という方法以外に、この傾向を回避することはできないだろうか。

・最終的な目標をお客さんと共有
・何が作品なのか前提をお客さんに伝える必要はあるかも
・このことが作品なんです、がお客さんに伝わればお客さんもゴールにたどり着きやすい
・ゴールを説明はせずとも、体験するにあたっての視点・柱がわかってると受け入れやすい

今作がどういう作品なのか。それは「日本リラクゼーション業協会」テキストに書かれている「リラクゼーションとは」のテキストを戯曲として扱った
リラクゼーションサービスの上演。

上記のようなことを、あらかじめお客さんに共有するのはどうだろう。

もみほぐしと演技って似てるな、という発見からリラクゼーションを上演する形態になっていること。
なぜわたしがもみほぐしと演技を似ていると感じるかの仮説の共有。
そういったことをタオルとか畳みながら雑談の延長みたいな感じで説明できないか。
その一連の流れの中で、ローズマリー水をお出して香りを感じてもらったり、施術に向けて感覚を開くようなことを織り込めないだろうか。

サロン乗る場にとっての商品とは?

スーパー→食べ物や飲み物、もの
ホテル→滞在空間
リラクゼーションチェーン→セラピストの施術・接客によるリラクゼーション、一律に受けられるサービス

サロン乗る場→パラレル

サロン乗る場という素敵なマッサージ屋はリアルの世界では存在しないが、施術を受けた体が真実として存在すること。演劇はリアルではないが、その創られた世界に実存を感じ、それを観ている自分がいること。

パラレル?!突然でてきたパンチライン

つくっている中で感じました。こんな風には、いまアルバイトしているお店で施術できないよな、と。
それは、私がどういう人間かという事とは関係なく値段に応じたサービスが受けられることを、そこに来る人は疑っていないような感じがするから。
つまり、支払うことともみほぐされることは全く違う事象にも関わらず、今私がアルバイトしている場所では、価格=受け取れるサービスという幻想が何の疑いもなく流通している。でも、それって本当なんだろうか。

もしかしたら、お金を払っても欲しい物が手に入らない時代が来るかもしれない。
これまで当然受け取れていたサービスが、払支払っても受けられない日が来るかもしれない。
世の中の動きを眺めていて、わたしはそんな事を実感を持って想像するときが増えました。

たとえば、
戦争が始まったり、資本主義が立ち行かなくなった世界にひっそりと存在するマッサージ屋さん。世の中がそんな風になっても人は生きるし体はある。乾ききった世界の中にぽつんと残されたマッサージ屋さん。そこで久しぶりに自分の輪郭を取り戻すような。

いまこの世にはないかもしれないけど
どこかのパラレルワールドにあったかもしれないマッサージ屋さんと
そこにいる「(世界から私の形を分ける)分け師」という架空の職人。
というファンタジー。

これそのものでなくても、
体は今まさにここに在りながら
一瞬でも現実社会からふわっと開放されてパラレルに漂う。
そんな体験ができたら、心も体もリフレッシュできそう。

稽古は、サロン乗る場にとってのリラクゼーションをこんな感じで言語化していきました。

リラクゼーションとは、心と身体の「休養」「気晴らし」「緊張の緩和」などのことを言い、リラクゼーションサービスとは空間の演出などで五感に安らぎを与え、心をリラックスさせ、身体へは手指などを使って心と身体が日々の緊張から解放される時間を提供することを言います。
また、お客様との会話を大切にして傾聴を柱とするコミュニケーションから日常のストレス解消を支援します。

〈日本リラクゼーション業協会2級公式テキスト〉

心と身体が日々の緊張から解放される時間を提供すること とは?

日常じゃない、ハレ、お祭り、ちょっとしたパーティ、ちょっとしたハレ。ハレとは日常の雑事を一度忘れて解放的な気分になるのが大事なんだと思ったことがあった。観劇。日々は解放されないし緊張しているものだという前提がこの文章にはある。

ちょっとしたパーティー、とは渋木さんの活動名!

つまりリラクゼーションの前提のさらにまえに、日常とは、緊張しているものであり本来の自分からズレているという前提があるわけです。
ではそのズレを元に戻そうとすることがリラクゼーションサービスの成すべきことなのか?!

・ズレを認識することは整うことにちかい?
ズレを指摘されたときに納得できないこともある思い当たる節がある時は納得しやすい

・緊張している時間はズレている時間?
・日々ズレてるのを一回のハレで調整してるのかも
・ケの日々の中で、引き受けたはずの役が自分になってしまう現象
・勝手に作ったファンタジーに自分が飲み込まれる
・自分がケのために作った役割から降りる時間こそがハレ

おかげさまで期間限定リラクゼーションサロン「サロン乗る場」は3/25に千秋楽を迎えました!!

三浦雨林さんにを撮影していただきました!
モデル協力は植村朔也さんです。
  

公演期間を無事に終えることができました!
全43公演!!
お越しくださったみなさま、
気にかけてくださったみなさま、
ありがとうございました!! 

つくりかたの記録は、あと少し続きます。
ぜひ最後までお付き合いください。

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