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【小説】箱庭の青【10000字】

透きとおるような青だった。

雲のかけらすら浮かんでいないそれをぼんやりと眺めた。すがすがしい程の秋空。もし触れたら自分が跡形もなく溶けてしまいそうだ。それを想像すると少し怖かった。

読みかけていた本のページが風にさらわれる。席替えで窓際の列に来てからというもの、必死で整えた前髪も、整理したプリントも、隙あらば台無しにされた。

一人しかいない教室には、突然入ってきた風に文句を言う声は当然のように響かない。

3時間目は体育だった。

「夏実ちゃん、今日も見学?」

「うん。教室で待ってるね」

小1の時から仲良しのゆうちゃんは深くは聞かず、じゃあまた、と手を振って教室から出て行った。

今わたしが着ている、薄手の長袖を少しめくれば赤い湿疹がやけどの跡の様に広がっている。本当はかゆいし、半袖のままでいたいけれど、目立ってしまう方が嫌だった。

学校中から聞こえていた音が、チャイムを合図にぴたりと収まる。ややあって、隣のクラスの始礼の声や、運動場から響く、拡声器特有の間延びした音声が耳に入ってきた。

不思議だと思う。校内には400人以上の生徒や先生たちがいるのに、教室に一人残されているだけで、自分がどこか遠くにいるような気分になれる。

座席表を見ずに、誰がどこの席に座っているのかを頭の中で思い浮かべた。席替えさえあれば今より学校はましになる、とわたしは自分に言い聞かせるようにしてこの1カ月を過ごしてきた。

違和感は始業式からだった。ホームルームが終わって皆が帰る準備をしているとき、その声はやけにはっきりと聞こえた。

「ていうかさ、先生何回も職員室行ったり来たりするの、ださくない?馬鹿みたい」

「だよね。忘れ物ばっかりしてさ」

何てことのない、ちょっとした軽口。今となってはそう思うけれど、その子が今までそんな言葉を先生に対して使っているのを見たことがなかったから、余計に衝撃的だった。思わずまじまじと見つめてしまう。

 でさ、と声を潜めて会話を続ける二人に、どきりとする。

わたしのことが言われている訳じゃないよね。…多分。

「夏実ちゃん、帰ろーよ」

後ろから聞こえたゆうちゃんのおっとりした言葉にはっとする。

「う、うん。帰ろ」

教室を出るときに、ちらりとさっき先生への悪口を言っていた二人を盗み見た。二人とも、何事も無かったかのように楽しそうに笑っていた。

ゆうちゃんと一緒なのは学校から出て10分ぐらい歩いたところにある歩道橋まで。それからは逆方向だから、いつもそこでバイバイする。

「5年生でも同じクラスで良かったー、またね!」

「うん、またね」

いつも通り、おっとりとした笑顔で手を振るゆうちゃんが背を向けたのを見ると、ゆうちゃんと話して楽しかった気持ちが急にしぼんでいく。

その代わりに、さっき目にした光景がまた思い出された。

馬鹿みたいって、わたしも言われたらどうしよう。

心臓が急にばくばくしてくる。聞かなきゃ良かった、と思っても遅い。あの後、何の話してたんだろう。

居てもたってもいられなくなって、歩道橋の階段を急いで登った。

運動は全然得意じゃないし、足だってクラスでも遅い方だ。本当はゆっくり歩いて帰るのが好きだけれど、その時は少しでも早く家に帰りたくてたまらなかった。

息を切らしながら走ると、さっきよりもどんどん鼓動が早くなっていく。それに応えるように、足を踏み出す度に上下に揺れる、ランドセルの金具がかちかちと鳴る。中に入ってる教科書が揺れて、がたがたと騒がしい音も、わたしを急き立てるように重たく響く。

その音が家に着くまでずっと、耳障りだった。

クラス替えしてすぐの時は馴染めなくて当然だ。小学校も5年目になると、経験的にそう思えることができた。

けれど、カレンダーの日付を何日も×の印で消していっても、誰かに対する悪口や不満をあからさまに口にする子や、今までとは違う声の荒げ方をする子がやたらと目について、休み時間が楽しめない日が続いた。

そんな教室の雰囲気を感じる度に、皆に気付かれないように自分だけいなくなれたらいいのに、と真剣に願った。

とげとげしい感情に触れると、自分の中にまでそのささくれが入り込んでくるようだった。休み時間の度に起きる、声の渋滞の中で、ぎゅ、と手を握ることが増えた。

そうしないと、自分がその波に飲まれて、どこかへ流されてしまいそうだったから。   

************

一度だけ、お母さんに相談したことがある。

お父さんが帰ってくるのが遅い日で、二人で晩ご飯を食べていたときだった。

ランチョンマットやスプーンやコップを食卓に並べながら、言おうかどうしようか、気持ちが行ったり来たりして落ち着かない。

ホワイトソースが入った鍋をおたまでゆっくりとかき混ぜているお母さんの横顔を見ると、いつもより機嫌が良さそうに見えた。

今日なら、いつもより話を聞いてくれるかもしれない。

切り出したのはグラタンを半分と少し食べたタイミングだった。

「最近、学校…ちょっと嫌なんだよね」

「あら、どうして?」

お母さんが身構えるような仕草を見せたので、余計に申し訳なくなった。さっきみたいに、心配させたくない、という気持ちと、聞いてほしい、の間でぐらぐらと揺れる。

そして自分が感じていることを伝えるだけなのに、苦手な算数の図形の問題よりも、ずっとずっと難しい。

「皆、誰かのこと陰でくすくす笑ったり、先生のこと馬鹿にしたりしてるのが、前より増えた気がする。だから…自分もそう言われてたらどうしよう、とか、そんな風に言わなくてもいいのに、とか、色々考えちゃって…」

ふうん、とお母さんは少し表情を崩した。

「夏実は、自分がそういうこと直接言われたり、陰言われているのを聞いたことあるの?」

「直接はないけど…」

そう、と相槌を打ってお母さんは微笑んだ。笑うことじゃないのに、とむっとする。

「じゃあいいじゃない」

「えっ」

びっくりちゃった、とビールに手を伸ばすお母さんを信じられない気持ちで見つめた。

私の食べかけのグラタン皿に放置されている、鈍く銀色に光るスプーンとは対照的な、黄金色の液体がコップに注がれていく。

「そういう年頃だもの。しょうがないわよ。人のことが色々気になって、何にでも文句言わなきゃ気が済まないお年頃なの。お母さんも、夏実ぐらいの年の時はクラスの子に悪口言われたりした時もあったわよ」

「だから?」

「そういうものって割り切って、あなたはそういう悪口に乗っからなければそれでいいじゃない。人の悪口言ってる人は損してる、ってそう思っとけばいいのよ。思春期なのよね、夏実たちの年頃ってちょうど」

気にしない、気にしない、と歌うように言いながら、お母さんはテレビのリモコンに手を伸ばした。そのまま美味しそうにビールを飲む姿に、もやもやとした、学校で感じるのとはまた違う怒りが沸き起こる。

言わなきゃ良かった。

「そういえば夏実、今度の塾の冬期講習、頑張ってよね」

「・・・わかってる」

「あんまり言いたくないけど、結構あれ高いんだから」

そんなの、わたしが絶対したいって言った訳じゃない。頼んでもない。お父さんとお母さんが塾に行けってずっと言ってたから。だからそれに従ってるだけなのに。お金のことなんか、小学生のわたしに言われたって、どうしようもないのに。

口に出したい言葉を押し込むように、スプーンでグラタンをすくって乱暴に口に運ぶ。一口で食べるには大きすぎる鶏肉にちょうどぶつかって、イライラに拍車をかけた。

「ごちそうさま」

吐き捨てるようにいって席を立った。お母さんが何か言う声を拾う前に、2階の自分の部屋に駆け込む。倒れこむようにしてベッドに寝転んで、枕に思いっきり顔を押し付けた。

気にしない、っていうのができるなら、とっくにやってるよ。

今の自分の気もちをどこに持っていけばいいか分からない。鞄の中身を全部ひっくり返して、中身を踏んづけたいような気持ちだけが体の中にぐるぐると渦巻いている。

思春期なのよね、って。そんなもので、自分の気持ちを分かったように捉えないで欲しい。私は思春期だから悩んでるんじゃない。思春期だから苦しんでいるんじゃない。そんなものじゃ絶対、ない。あの教室にいるから、あのクラスメイトに囲まれているから悩んでいる、ただそれだけなのに。

分かったような言葉で、使い古された言葉で表現されて、どこにでもあるようなものだと思われたことに腹が立ってたまらなかった。

後からお母さんが部屋に来るかと思ったけれど、その日はそのまま顔を合せなかった。お風呂を呼びに来たのも遅く帰ってきたお父さんで、そのことにもイライラする。

翌日、朝ごはんの時に顔を合わせても、何もなかったかのような態度で拍子抜けした。私にとってはこんなに重大でも、お母さんにとってはちっぽけで、どうでもいいことなんだ。いつまでも親だからって、頼りにしちゃだめなんだ。

自分自身への違和感やうまく表現できない感情への対処は、誰も教えてくれない。暴力とか、持ち物隠されるとか、そんな分かりやすいことが起こったら、きっとお母さんもお父さんも、学校の先生も守ってくれる。

けれど、わたしの小さな葛藤は、「気にしない」で済まされて、一過性のもののように扱われる。まるで、「そういう年頃」である時期を上手く乗りこなせないわたしが幼いみたいに。

*************

「何それ、ひっどい!」

給食を食べ終わった昼休み。いつものように、百葉箱の近くにある石でできた長椅子に二人で座っておしゃべりしている時間が一番好きだ。お母さんに対するイライラが朝ごはんの時から収まらなかったけれど、ゆうちゃんにそう言ってもらえると少しだけ気持ちが軽くなった。

「本当にいやだよね、そういうの。聞いてほしい時に限って流されたり、話題変えたりするんだから」

そうやって、沢山慰めてくれたゆうちゃんはいつもよりもきらきらして見えた。もうわたしの気持ちを一番分かってくれる人はお母さんじゃなくて、ゆうちゃんになったんだ。

そんなことを思ったのが生まれて初めてで、何だか少しだけ寂しかった。

「あのさ、ゆうちゃん」

「何?」

「わたしだけかもしれないんだけど、聞いてくれる?」

「もちろん!」

「誰かの悪口とか言った後に、すごく嫌な気持ちになるの、変じゃない?」

「変じゃないよ、あたしもそういう時あるよ。言い過ぎちゃったなー、とか」

ゆうちゃんの言葉にほっとする。良かった、わたしだけじゃない。

「それから、さっきみたいに自分のこと言われているのは本当に嫌だけど…他の子の悪口言われてるの聞くのもすっごく嫌で…」

ゆうちゃんは、また深刻そうな顔で大きく頷いてくれた。その顔がいつもと全然違うからちょっとだけおかしかった。

「夏実ちゃんは優しいもんね。だから嫌なんだよ」

「ゆうちゃんは嫌じゃない?」

「わたしも悪口たくさん言ってる子はあんまり好きじゃない!こそこそ教室の隅っこに集まって色々言ってたりする人も嫌い!」

わたしもゆうちゃんと同じように、うんうん、と大きく頷いた。ゆうちゃんがくふふ、と笑う。わたしも変な顔になっていたのかもしれない。笑うところじゃないのに、二人でいひひ、と笑った。

「でもね、わたしこの前、すごいもの発見しちゃったんだ」

「すごいもの?」

「お父さんが新聞読んでるときにね、こっそり見ちゃったんだけど」

「うん」

「人生相談のコーナーがあるんだけど。何だっけ・・・『パートのおばさんが困った人で、みんなイライラしてます。どうしたらいいですか?』っていう相談だったの」

「へえ」

新聞ってそんなコーナーがあるんだ。わたしはそんなことも知らなかったし、新聞を読んでるゆうちゃんにも驚いた。ずっと一番の親友だったけど、まだまだ知らないことがある。

「それでね、それに対する相談の回答、何だと思う?」

「うーん。偉い人に注意してもらいましょう、とか?」

違う違う、とゆうちゃんはなぜか得意気な顔になった。

「正解はね、『同じ職場に困った人がいると大変ですね。時には皆で悪口を言い合って発散しましょう』だって!」

「えーっ!」

「すごいよねえ、びっくりしちゃった!学校で先生がそんなこと言ったら、皆きっと大騒ぎだよね」

「本当だね…」

大人も大変なんだよねえ、フクザツなんだねえと急にお姉さんみたいな口調になったゆうちゃんの声を聴きながら、わたしは益々分からなくなる。

悪口言うのは悪いことだって思ってたけど、違うのかな。

何を信じればいいのか、よくわからない。キーンコーンカーンコーン、と間延びして昼休みの終わりを知らせるチャイムを、ぼうっと聞いていた。

*************

席替えはいつも毎月の始めにある。くじの結果に皆がきゃあきゃあと騒ぐ中、机の海を何とか切り抜けてやってきた新しい席に、うわ、と思わず声に出してしまう。

新しい私の席は一番端っこ、窓際の前から2番目。その前が長谷川さん。後ろが崎田さん。

 二人とも、いつもおしゃれでクラスの中心的な子だ。堂々としてすごいなあ、と思う反面、気が強くて怖い、と思ってしまう。不意に長谷川さんがくるりと後ろを向いて、私をじいっとつまらなさそうに見つめた。

「よろしくねー、河原さん」

「う、…うん」

私が後ろの席だと嫌かな。そんなことを考えて、益々声が小さくなってしまう。

「てか沙耶、同じ班じゃん、やったー」

「それー。めっちゃラッキー」

わたしを挟んで、崎田さんと長谷川さんが会話する。長谷川さんは崎田さんと話したくて後ろを向いただけ。そう思うと少しほっとした。

「オレは崎田の隣とか最悪だわー」

「えー何それ、ひどくない?」

崎田さんは隣の席の井上くんと楽しそうに話し始めた。井上くんはいつも声が大きくて、掃除を適当にして先生から怒られたり、女の子をからかいすぎて泣かせたりする。話しかけるときに勇気がいるタイプの男子だった。

この席で班活動や給食を一緒に食べなければならないのかと思うと、喉の奥がきゅっとしまった。きっと上手く話せない。こんなことなら、席替えなんかしたくなかった。最悪。

「はい、それじゃあ2学期も皆で協力しながら頑張ろうな」

皆、顔を見合せながら浮かれたように返事をする。

先生の声が、いつも以上に虚しく響いた。

「ねえ夏美ちゃん」

休み時間に入るとすぐ、ゆうちゃんが声をかけてくれた。

「…大丈夫?」

うん、と頷く。

わたしはもう、小さな子供じゃないから、これぐらい平気にならなくちゃ。

「廊下に行こうよ」

ゆうちゃんに手をひかれるの、いつぶりだろう。

わたしはその日から極僅かな友達としか会話ができなくなってしまった。 

**************

ぴーっと、先生の笛がグラウンドに響く。サッカーの試合をしている時のあの笛は、誰かがゴールを決めたのか、それか反則をしちゃった時だ。

どっちだろう、と思いながら首を伸ばしてみんなの動きを見つめる。その時、廊下からぱたぱたと誰がが走って来る音が聞こえた。足音が軽い。きっと先生じゃなくて同級生だ。数えるのをやめて耳を澄ましていると、ガラスがはめられた入り口のドアががらりと開いた。

「よっ」

「…梶田くん。おはよう」

 梶田くんは病院に行ってから遅れて来る、と朝のホームルームで先生が言っていたこと思いだした。

「今3時間目だよな?」

「うん」

「良かったー、二時間目の国語の宿題してなかった。ラッキー」

 独り言のように言いながら、梶田くんはそのまま慣れた手つきでランドセルから中身を取り出し、机の中に押し込んでいく。その様子をぼんやりと見つめた。

クラスの半分以上が長袖に変わった今でも、梶田くんはずっと半袖と半ズボンだ。ランドセルにはシールを貼った後や、正面に大きな傷がついていた。

その曲線を眼でなぞる。5年生にもなると、皆なにかしらの傷がついているのが普通だった。

「河原さんは何で見学なの」

「えっと…」

梶田くんとは5年になってから初めて同じクラスになったけれど、殆ど会話をしたことがない。どちらかと言えば、掃除やグループ発表の準備をさぼりがちな梶田くんは「苦手」な男子だった。

「アトピーが最近酷くて。汗かいちゃうともっと悪くなっちゃうから…」

言い訳のように言葉を並べる自分が嫌になった。何に引け目を感じているのか分からない。この居心地の悪さの正体を、いつまで経っても上手く言葉にすることができない。

「ふうん」

必死でぼそぼそと話す私とは対照的に、梶田くんは生返事しただけだった。きっと、興味があって聞いた訳ではなかったのだろう。そのまま自分の席に戻ったのを見て、顔のこわばりが解けていくのを感じた。

次の休み時間まで、20分。何とかこの状況をやり過ごさなければいけない。梶田くんを見ると、5時間目の算数の宿題のプリントに取り掛かっているようだった。

向こうもやることがあるなら、もうこのまま静かにこの時間は過ぎるだろう。わたしはまた窓の外に視線を写した。皆が運動場の中心に集まって、体育座りをしているのが見えた

「あーあ、俺も出たかった」

後ろから残念そうな声がした。

「俺、体育しに学校に来ているようなもんなのに」

その言葉に思わずくすりと笑ってしまう。確かに体育の時間の梶田君はいつも誰よりも早く運動場を駆け抜けていて、思わず目で追ってしまう。

「梶田くんは今日どうして遅れたの?」

 するりと言葉が自然と口をついた。

「ぜんそく。発作でたのは昨日だけど、体育は一応休んどけって」

「そうなんだ。大丈夫?」

「全然。点滴すればすぐ治るし」

梶田くんが消しゴムで乱暴に何かを消している音が微かに聞こえた。さっきまで静かだった教室の形が変わっていく。一人でいるのと、他の誰かが同じ場所にいるのは全く違う。さっきまで沈んでいくように思えた教室の空気に丸く穴が開けられたようだった。

 さっきよりも一段と勢いのある風が入ってくる。その肌を刺すような冷たさに肩を竦めた。わたしの机の上にあったプリントは、その風に煽られて舞い上がり、床の上を滑っていった。

「あっ」

 腕を伸ばしても届かない所まで飛んだそれに、梶田君が手を伸ばす。拾って、わたしの席まで届けてくれた。

「はい」

「ありがとう」

「ねえ、それってサーガシリーズの新刊?」

「えっ」

梶田君の視線はわたしの机の上にあった本に注がれていた。私が昔から読んでいる、ハードカバータイプの分厚いファンタジー小説のシリーズ最新作。小中学生に人気は高いけれど、身近に読んでいる子はあまり見掛けなかった。

「知ってるの」

「おれ読んでるよ。3巻ぐらいで止まってるけど」

 主人公がカッコイイ、と梶田くんはにかっとしながら言った。

「河原さんよく本読んでるよね」

「う、うん」

「俺も母さんが図書館で働いているから普通に読む。意外って言われるけど」

へえ、と素直に驚くと、梶田くんはまた笑った。今度は満足そうに。きっとこの反応を返されるのが面白いんだろう。

「このシリーズね、今度映画化するんだって」

「そうなの?全然知らなかった。続き読まなきゃ」

「あ、映画自体は3巻まで基にするらしいから、大丈夫かも…」

 想像していたよりも自然に話せている自分に驚く。周りに沢山のクラスメイトがいる時はつっかえてしまうかもしれないけれど、今はちゃんと話せている。皆がいると届かないかもしれない声も、ちゃんと梶田くんに聞こえている。

 本の話が終わると、好きなゲームまで話が弾んだ。梶田くんはわたしがゲームをしていることに驚いていた。

「えー!あれもう全クリしたの?俺より全然やりこんでるじゃん」

そのリアクションが面白くて、さっきの梶田くんと同じように笑ってしまう。意外、と言われることは悪くない。ほんの少し楽しい気分になれる。

「てかさ、河原さん大丈夫?」

「何が?」

「崎田とか長谷川とか、言い方キツいだろ」

 思いもよらず出てきた名前にどきりとする。

「う・・・うん、ちょっと」

「まじであんなの気にしなくていいよ。あいつら、すげーうるせーし。俺嫌い」

俺嫌い、と言い切った梶田君を思わず見つめる。

「梶田君も、嫌いとか思うんだね」

「へ?」

「いつも皆と仲良さそうに見えるから」

「えー、嫌いなやつなら全然いるよ。男でも仲悪いやつはいるし」

そうなんだ、と再び驚いた。

「わたしはそんな風にはっきり言えなくて…」

ふーん、と相槌を打つ梶田君の顔がはっきり見えない。馬鹿みたいなこと言ってるって思われたらどうしよう。

サッカーの試合を再開したらしいグラウンドから、また誰かがゴールを決めたのかもしれない歓声と先生の笛の音が響いたのが聞こえてきた。その歓声の余韻が混ざる中で、梶田君がそういえば、と切り出した。

「母さんが前言ってたんだけど、自分の気持ちの輪郭はちゃんと自分で掴みなさいって」

「輪郭?」

「自分がどういう風に思ってるかとか、こういうのが好きとか嫌いとか全部。あとは何だっけ・・・こういう風にしたい、とか?そういうのが分からないときが一番苦しくてしんどいって。で、それを無理に無視したりしちゃ駄目らしい。で、その上で自分がどうしたいのか考えろ、ってよく言われる」

何となく分かるような、分からないような気がした。

「それでいくと、こいつ好きとか嫌いとかは何となくある・・・まあ日によって変わるかも。嫌いだと思っててもずっと一緒に遊ぶ日もあるし、かと思えば絶対口ききたくないって時もあるやつもいるし」

「…うん」

その感覚ならわたしにも分かる。崎田さんや長谷川さんだって、いつも意地悪なわけじゃない。掃除時間の時に楽しく話せる時もあるし、理科の実験の時に協力してスムーズにやれた日だってある。そんな風に、「今日は仲良くできたかも」と思って眠れる日は嬉しい。

けれど、それが毎日続くわけじゃないから難しくて、分からない。一方的な悪役も、絶対的なヒーローもいない。皆大体優しくて、時々意地悪だ。

わたしだって、ずっと被害者な訳じゃない。かっとなって言い過ぎてしまう時はあるし、意識していなくても、誰かに嫌な思いをさせているかもしれない。それを考えるとまた少し落ち込んでしまう。

桃太郎みたいに、白黒はっきりした世界なら良かったのに。ずっと「良い子」でいれたらいいのに。そんなどうしようもないことを考えたこともあった。

「自分の、気持ちの輪郭を掴む…」

口に出してみると、わたしの中に丸い、それでいて不安定に形を変える輪っかがふわりと浮かんだような気になった。

「俺はあんまり深く考えてねーけど…よく友達と喧嘩するし。あと嫌いだからってそれをそのまま長谷川に言ったりは…あ、時々してるか」

けらけらと悪気なく笑う梶田君が眩しい。同い年なのに、梶田君の方がもっと先を見ている気がする。

「河原さんはあんまり言い返しきれないんだろ」

「うーん、どう言えばいいのか分からない、っていうのはあるのかも」

「じゃあさ、今度皆で作戦会議しよーぜ」

 打倒、長谷川と崎田!

 おどけるような一言に、苦しくなるぐらいに胸が詰まる。ゆうちゃんが同じように心配してくれていたのを思い出した。

 席替えの日に、廊下まで連れ出して、涙目のわたしを必死に慰めてくれたゆうちゃん。その日の放課後に、「嫌なことがあったら絶対教えてね」と手紙をくれたんだった。

 嫌だと思うことばかりで頭の中がいっぱいで、そんな大事なことを忘れがちだった。喉の奥がきゅうと締まる。ありがとう、と呟いた言葉は少し湿っていた。

「俺今、めちゃめちゃ良いこといったな」

思わず吹き出すわたしに、梶田君は更に満足そうな顔をした。

そういえば、と話の流れが変わろうとしたところで、終業のチャイムがあっけなく響く。

「あ、次なんだっけ」

「音楽。多分、学習発表会の練習だと思う」

「めんどくせー!あ、先に言って待ち構えてやろ」

移動教室のときはゆうちゃんと一緒に行くようにしているわたしは、今にも走り出しそうな梶田君を見送ることにした。

「河原さん」

 入り口から出る間際、梶田くんが振り返った。

「今度、サーガの本貸して。おれもソフト貸す!」 

うん、ありがとう。

そう言った声は、きっと梶田君には届いていない。 

また学校の中にざわざわとした波が起こってきた。ばたばたと校内を移動する音や、甲高い声で叫ぶ男子の声。いつもなら自分が呑まれていきそうな感覚に不安になる。けれど、今は不思議とそんな気分になっていない。

たった20分でたくさんの事を知れた。梶田くんが読書が好きだということ。思っていたよりもちゃんと話せて、全然苦手なんかじゃなかったこと。むしろとってもいい子だった。本を貸す日を楽しみに思うぐらい。

わたしは、まだ色んなことをちゃんと知ろうとしていないんだ。

皆のことを知っていると思っていたけど、きっと、皆少しずつ変わっていく。それは多分、わたしも。だから多分苦しい。

でも飛び込んでみなきゃ、そのすら分からない。良いことも悪いことも、好きも嫌いも入り混じる、フクザツなこの世界で、わたしはこれからも過ごしていかなきゃいけないんだ。

 もう少しでクラスの皆が帰ってくる。また多分、傷ついてめそめそするところは簡単に想像できた。漫画やアニメみたいに、たった1話で何もかも解決することなんてない。

すぐに仲良くできる訳もない。けれど、梶田君やゆうちゃんと作戦会議すれば、少しは前に進める気がした。 

 また強い風が教室の中に入ってきた。窓を閉めようと駆け寄ると、グラウンドから玄関の方へ走るゆうちゃんの姿が見えた。

「ゆうちゃん!」

わたしが大声を出すと、ゆうちゃんが気づいて、嬉しそうにひらひらと手を振り返してくれた。

 窓から見える空には、いつの間にか飛行機雲が大きく横切っていた。

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