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【10分で読めるショートストーリー】OLが最強のメンタル回復薬を手に入れた話

『絶対アヤカも気に入るから買った方がいいって』

アヤカがそんなメッセージが届いているのを見たのは、疲れた体を電車の座席に沈ませた時だった。親友のナミからだ。

またか、とアヤカはうんざりした気持ちで返信を打つ。正直、親指を動かすのも億劫なほど疲れていた。

『もう分かったってば。いいよ、私は。何だかそういうの怖いし・・・』

アヤカの返信を待っていたかのように、すぐに既読がつく。しまった、と思ったが遅い。ナミからまたメッセージが届いた。

『またそんなこと言って。乗り遅れるよ、時代に』

はあ、と人知れずため息をついて、アヤカは鞄にスマホをしまった。帰宅してから返事をすることに決めたのだ。

朝の通勤途中の電車はいつもぎゅうぎゅうで息苦しいが、仕事帰りの電車は座ることがほぼ毎日できるぐらい、余裕がある。

本当はパンプスを脱いでしまいたい気持ちをこらえる。安価な料金で最寄り駅まで運んでくれるというのは本当に便利だ。何なら家まで送ってもらいたい。

どれだけ疲れていてもタクシーを利用する、という選択肢は必ず除外する貧乏性の癖に、アヤカはそんなことを思った。

アヤカが新卒で入った会社は世間一般的な知名度は低いものの、業界のシェア率が高く、給与も悪くない。友達皆に羨ましがられるような会社だった。

入社直後は指導係の先輩に何度も注意され、涙を流しながらも懸命に耐えた。

それが今の部署になってから、直接的に注意はされない代わりに、裏でひそひそとアヤカができないところをつつくように話をする上司と一緒に仕事をする羽目となった。

出先から戻り、執務室に入ろうとしたときだった。マイペースすぎる、仕事が遅い、と言われているのを聞いてしまった時がある。

自分でも自覚しているだけに余計に辛く、その日は寝付けずに翌日余計に仕事が辛かった。

入社年数が長くなればなるほど、社内の人間関係をまざまざと見ることも増えた。それもアヤカを疲れさせるには充分すぎる程だった。

仕事のことを考えるだけで憂鬱でたまらない。アヤカはため息をついた。

がたん、と電車がやや縦に揺れた。それに呼応するように、うなだれていたアヤカの視線が上がり、車内を見渡してみる。

今日の車内のは9:1に分かれていた。視線を合わせないための不文律のように、スマホの画面に注視する乗客が9割。隣の友人と談笑している乗客が1割。

9割の顔は大体が無表情だったが、皆どこかくたびれたような顔をしていた。アヤカは正面に座る客から少しずれるように、座っている場所をやや左に移動した。自分の顔を見てみたくなったからだ。

沈みきった夜を走る電車の窓は、まるで鏡のように正面に座る自分を映し出す。勿論、鏡と違い、顔色までは分からない。

ただ、自分が冴えない顔をしている、というのは何となくわかった。
ふと、電車のつり革広告が目に入る。

今をときめく男性モデルの爽やかな笑顔の横の謳い文句を目で追う。

「あなたの心の傷、塗った側から癒します。世界初・メンタルケアクリーム『ヒールペイン』」

ヒールペイン、こんなところに広告出すようになったんだ。

思い出したように、鞄を漁りスマホを取り出し、ナミのメッセージを確認する。アヤカが鞄をしまってから、新たに2通のメッセージが届いていた。

「すごいんだって。悪質なクレーマーからの電話の後にこれを塗るだけですぐに元気になるのよ。元気っていうかそう…気にならなくなる、っていうのかな。ネガティブな気持ちに飲み込まれていた自分が立ち直る。物事を前向きにとらえられるし、穏やかな気持ちでまた仕事に戻れるんだから」

「心が弱った人につけ込むような、金儲け目当てのカルト宗教もこのヒールペインの流通で撲滅できるんじゃないか、って話。この前新聞に載ってた。プロのアスリートも試合前とかハーフタイムの時に塗ったりしてるみたい…」
 
ナミが言うには(そしてこの広告が言うように)、心が傷ついた時に「ヒールペイン」を塗ると、悲しみ、怒り、悔しさなどがすっとまるで無かったかのように心が穏やかになるらしい。

アヤカはナミが初めて試した日から何十回とヒールペインの素晴らしさをプレゼンされてきた。最早ナミの興奮した口調を真似できるぐらいだ。

アヤカはそんなナミの興奮しきった顔を見ながら、唯一の親友が怪しげなビジネスにでもハマってしまったのではないかと本気で心配していた。

そんなアヤカの心配をよそに、ヒールペインは瞬く間に全国ネットのテレビや大手メディアに取り上げられ、徐々にその知名度を上げていった。

マスコミに取り上げられたぐらいでその商品の信頼度が上がるように感じるなんて、我ながら酷い時代錯誤だとは思う。だが、アヤカの警戒心がやや薄らいだのも紛れもない事実である。

広告塔に使われたモデルの端正な顔立ちを見つめながら、アヤカはその商品を手に取る自分を考えてみた。

商品価格は30,000円とやや高い。ヒールペインを真似したと思われるやや安価な類似品も出てはいるが、それは効果が薄いらしい

(当然の義務のように類似品も一通りしめしたナミが言うのだから間違いない、とアヤカは思う)

やっぱり無理だな、私には。とても手が出せそうにない。そう思って返事を変えそうと思う前にナミからまたメッセージが届いた。

『私、アヤカのにヒールペインの試供品送っといたから。受け取ってね』
「えっ!」

思わず出たアヤカの声に反応して、斜め前の乗客がちらり、と視線を自分に向けたのが分かった。

恥ずかしさに首をすくめながら、アヤカは急いで返信を返す。

『嘘でしょ、試供品だって結構高いって聞くのに…』
『良いわよ、親友なんだから。お守り代わりと思って使って。肌身離さず持っていた方がいいよ』

どう返事をしたらいいものかアヤカが迷っていると、最寄り駅に到着したことを知らせるアナウンスが響いた。

慌てて立ち上がる。家まであと少し、と気力を奮い立たせるようにして、アヤカは帰路を急いだ。

ナミが言っていた試供品はそれから2日程して届いた。5cm程の長さのチューブ。ピンク色のパッケージはさながら、かゆみ止めの軟膏そのものだった。

「あなたの心の傷を癒します、ねぇ…」
使ってみてナミに感想言わないとまずいだろうか。適切な保管場所が思いつかなかったアヤカはそのチューブをペン立てにさした。

どうせ一回も使わないだろう、と思いながら。

*******

それからほどなく経った頃だった。世界を真っ白に染め上げる程、日差しが強い日に、アヤカはヒールペインを初めて使うこととなった。

その日は大学の頃から付き合っているアキヒロがアヤカの家に遊びに来る日だった。

一緒に昼食を食べ、珈琲を飲みながらゆっくりくつろいでいる時だった。パスタを食べている間も浮かない顔をしていたアキヒロが、意を決したように口を開いた。

「アヤカ、ごめん。・・・俺と別れてほしい」

アキヒロの言葉に耳を疑う。

「えっ?急に何?どういうこと?」

アキヒロはまるで土砂降りの雨に見舞われた子犬のように、途方にくれたような顔していた。そして眉尻を下げながら、弁明するには弱々しく、言葉を絞り出した。

「他に好きな人ができたんだ」

絶句する。そんな、安っぽいドラマのような台詞をアキヒロの口から聞くとは思わなかった。

「は?何それ…誰のこと?浮気してたってこと?」
「違うよ」

アヤカの言葉を遮るようにアキヒロは反射的に言い放った。怒りが沸いてきたアヤカが半ば問い詰めるように話をしても、返ってくる言葉は同じだった。

好きな子ができた。こんな状態でアヤカと付き合うこと自体不誠実だ。自分が悪いのは分かっているけれど、とにかく分かれて欲しい…。

「アヤカだってわかってただろ…最近マンネリ化してたしさ、俺たち」

最後に聞いた言葉で、アヤカは引き留める気力も打ち砕かれた。日が沈み、夕日が差し込む部屋の中、アキヒロが静かに部屋から出ていき、一人取り残される。

アヤカは自然と溢れる涙で頬を濡らした。

出会った日のこと、アキヒロからのアタックに舞い上がりながらも、そんな素振りを見せないように、懸命に余裕を見せようとした時。デートのために服を買いに行った時。大型テーマパークで1日ずっと笑いあって過ごした時。

初めて肌を重ねた日。

私の何が悪かったんだろう。私のことをもう一度好きだと言って欲しい。抱きしめて欲しい。嘘だと言ってほしい。どこで間違えてしまったんだろう。いつから私から気持ちは離れてしまったんだろう…。

ひりひりと焦げ付くような痛みの中で、アヤカは嗚咽をもらした。こんなに悲しみで胸が潰れそうになったのはいつぶりだろう。

酷い喪失感で、体を折り曲げるようにしながら、ベットの淵に頭を擦り付け、涙を流した。

それからどのくらいそうしていただろうか。ふと、ナミの顔が頭に浮かんだ。

「あなたの心の傷、塗った側から癒します。世界初・メンタルケアクリーム『ヒールペイン』」

嗚咽を漏らしながら、机の上に置いてあったピンクのチューブに手を伸ばす。手のひらの上に取ると、アヤカは自分の体温に馴染ませるようにして、そのクリームを自分の肌に滑らせていった。

その肌に触れてくれていた、アキヒロのことを思いながら。

手のひら全体まで伸ばし終わると、不思議と気持ちが落ち着くのが分かった。シトラスの爽やかな香りのせいかもしれない、とアヤカは思う。

あれほど酷く漏らしていた嗚咽も、涙も鼻水も止まっていた。

それから気づく。自分の心を一面に覆っていたはずの、アキヒロの姿がぼやけている。喪失感と自己嫌悪で溢れていた気持ちがどこかへ消えてしまった。

‥‥どこへ?どうして?

アヤカの心を覆っていた、アキヒロの存在感、ぶつけられた言葉の重みがどこかへ行ってしまったようだった。

ぎゅ、と自分の両手を握る。さっきまで浅かった呼吸を、整えることができた自分がいた。目を閉じ、腕を交差させるようにして、両肩を体の内側に引き寄せた。自分自身を取り戻すように。

「…あはは」

思わず漏れた笑い声に自分でも驚く。ぼやけていた視界もクリアになった。

そして同時に、アヤカの心の内に巻き起こっていた荒波すらも、凪いだ海のように、穏やかなものになっていた。

***********

 
「ほらー、やっぱり良かったでしょ」

誇らしげなナミの声に、うん、とアヤカは素直に頷いた。
日曜日のカフェは混みあっていて、15分ほど待った後に入店することができた。

ゆったりと座れるソファー席が人気なこのカフェは、ナミとアヤカの行きつけだった。

BGMには女性ボーカルをバックコーラスにジャズが流れ、映画風のポスターが壁に嫌味なく貼られている。客の優雅な時間を演出すために作り上げられたかのような空間は居心地が良かった。

ナミはプリンパフェをつつきながら、満足そうに笑みを浮かべている。アヤカに布教できたのが嬉しくてたまらないらしい。

「最近寝る前にも少し塗るようにしてるの。次の日すっきりしているっていうか…」
「私もそうしてる!1日のモヤモヤが取れるから熟睡できるしね」

いつもエネルギッシュさが体から溢れ出ているナミも、ヒールペインをそんな風に使っているのかとアヤカは少し驚いた。

「他は?どういう時に使ってる?」
「実は、家用とは別に職場に置いとく分も買ったの。それから仕事も調子良いんだ。上司に怒られたり、クレームが入った時でも、ヒールペインを塗ったら気持ちもすぐ切り替えられるし」

カラン、とアイスコーヒーの氷が解けたことを知らせる音を聞きながら、アヤカは微笑んだ。

事実、職場でもヒールペインを使うようになってから、アヤカは職場での評価が上がったのを肌で実感していた。

『何だか堂々と意見が言えるようになってきたね。自信がついてきたのかな?』

課長との面談でそう言われたとき、アヤカは謙遜しながらも微笑んだ。自信がついてきたわけじゃない。ただ、怖くなくなったのだ。傷つくこと、リスクを感じることに対して向かっていけるようになった。

絶対に立ち上がれるという保証がある、という意味では自信がついた、と周りからは見えるのかもしれない。

「ほんと、ありがとねーナミ」
「全然!何か今度はカプセルタイプの商品も出るみたいだから。モニター募集してたけど、良かったらアヤカも一緒に応募しない?」
「えー、応募したい。どうしたらいいの?」

えーと、とスマホを開いたナミが、あっ、という顔をする。

「ごめん、私もう行かなきゃ。マッサージの予約してたの忘れてた。あとで連絡するね」
「ありがとう。ナミ、マッサージ行ってるんだ。どこか痛いの?」
「うーん、メンタルはヒールペインのお陰でいつもすっきりしてるんだけど、時々ちょっとだるいなーって時があってさ。年かなー」

肩を回しながら言うナミに、わかる、とアヤカは頷いた。

「もう30代だもんね、私たち。私も最近アレルギーかな?って思う時があるよ。体質が変わってきたのかな?」
「アレルギー?食べ物の?」
「ううん、時々鼻水とか涙が急に出てくるときがあるの。病院に行こうかなとは思うんだけど…」

ふーん、とナミは伝票の金額を確認しながら、にやりと笑いながら言った。

「こういう体のこと話すとさ、歳とったなーって思うよね」

本当にそうだと、二人で笑い合う。ナミと別れたその日、アヤカは追加で3本のヒールペインを注文したのだった。

**********

「ねえ、アイザワさん。先方からまだデータ届いてないって言われたんだけど…」
「えっ」

係長からの言葉に、アヤカは一瞬思考が停止する。そうだ、送らなきゃと思って忘れていた。

「すいません、すぐに送ります」
「あのさ、こういう基本的なことはちゃんとしないと、信頼問題だからね。最近ちょっと多いんじゃない?」
「すいません…」

機嫌が悪そうに席に戻る係長をアヤカは視界に入れないように身を縮め、慌ててメール画面を開く。

今日は散々な一日だ。理屈が分からないクレーマーにつかまって1時間以上電話応対で時間を取られた。

「アイザワさん、あのー…」
今度は誰だろう、と思っていながら振り返る。経理部にいる後輩からだった。

「A社から、先月分の入金がまだ確認できないって連絡が来たんです」
「えっ」
「請求書、経理部に提出されていますか?アイザワさんご担当の分でしたよね?」
「えっと…ちょっと待って」

慌ててファイルをめくる。フロアにいる全員が自分に注目していることを感じ、アヤカはどんどん体が熱を帯びていくのが分かった。

ファイルに残されたままの領収書を見て、アヤカは血の気が引くのを感じた。

「処理漏れしてました、すいません…」
「アイザワ、お前最近どうしたんだ」

係長の苛々とした声がまた飛び込んできて、思わず身をすくませた。アヤカが恐る恐る顔をあげると、怒りと呆れが混ざりきった、困惑しているようにも感じる係長がアヤカを見据えていた。

「最近ちょっとミスが多すぎるぞ」
どう返したらいいのか分からず、固まったように動けないアヤカを取り直すように、同僚がアヤカのデスクまで近寄る。

「ちょっと疲れているんじゃない?」
「そうそう、最近顔色もあんまりよくないし」
「俺、とりあえず先方に連絡とって先に謝罪入れときます」

次々とフォローを入れてくれる周りに、居たたまれない気持ちで更に身が竦む。最早ここからいなくなってしまいたい、と思うアヤカを気遣うように、同僚が肩に手を置いた。

「本当に大丈夫?」
うん、と頷きながら、アヤカは泣きそうになっていることに気づいた。

「ごめんなさい、ちょっとだけ失礼します…」
その場の全員から逃げるように、アヤカは机の上にあるポーチを掴むと、執務室を飛び出した。

「アイザワさん、何だか最近注意されたことも響かなくなったよね?」
「うん、何だか慎重さも無くなった気がする。彼女の良いところだったのに…」
「急に明るくなったな、とは思ったけど、ポジティブすぎて周りが見えなくなっている感じがするよな」

アヤカが真っ先に向かったのは女子トイレだった。
ヒールペインを塗らなきゃ。そしてちゃんと謝ろう。もう一回やり直そう。大丈夫、大丈夫…。

洗面台につくが早いか、ポーチのチャックを開けたアヤカは目を見開いた。
ヒールペインが入っていない。

「何で・・・?いつも入れてるのに」
ポーチを逆さにして中身を全て取り出す。化粧直し用のリップやチークが洗面台に叩きつけられるようにして、がちゃん、という耳障りな音を立てた。

「ない…ない…!」
そう言えば、とアヤカは思い出す。この前ちょうど無くなったんだった。本当は新しいものをポーチに入れておくべきだったのに、それを忘れていた。

押しつぶされるような気持ちが、涙となって溢れて来る。最後に泣いたのはアキヒロから別れを告げられて以来だ。ヒールペインを塗るようになってから、アヤカは涙とは無縁の暮らしを送るようになっていた。

「うっ・・・うっ・・・うう・・・」

会社とは思えない声量で涙を流す自分に驚くが、止められない。せき止めていたものが外れて無くなったかのように、涙が溢れる。

鏡の前の自分を見て、アヤカは愕然とした。

目の下の隅が酷い。顔色も悪い。まるで、夜を走る電車の窓に映る自分の顔のように、のっぺりとした、疲れ切った女の顔がそこにはあった。

「どうして、何で…」
ヒールペインを使うようになってから、ふて寝するようなこともなくなった。残業も捗るようになった。仕事が楽しくなった。

だって、ヒールペインが全部自分のネガティブな気持ちを覆い隠し、無かったことにしていてくれたから。

ナミ、と悲痛な思いでアヤカは親友の名前を頭の中で呼ぶ。
ポケットに入れていたスマホを取り出す。通話ボタンを押し、5コールした後、ナミの声が聞こえた。

『アヤカ?どうしたの?』
「ナミ…私…私…」

子どものようにしゃくりあげ、泣き出すアヤカにナミが息を呑むのが分かった。

「…私、私どうしたら…助けて…」
「落ち着いて、アヤカ。大丈夫よ」

一拍置いてから、まるで母親が子どもを宥めるように、ナミは言った。

「ヒールペインは、ちゃんと塗った?」


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