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【ショートストーリー】ビター・オレンジ【5200字】

【注意】毒親表現がありますので、苦手な方はご注意ください。



目の前にある醤油皿が、秋刀魚の脂でてらてらと光っている。

魚でも脂ってこんなに出るんだ、と私はぼんやりと思う。旬の魚は脂がのっている。家庭科の教科書に載っていた文言を思い出して脳内でなぞって読んでみた。

本当はそんなことを考えずに、一心不乱に箸を動かし、秋刀魚の身をつまみ、白米を口に運びたい。温かいうちに、秋の味覚を頬張り、咀嚼し、自分の舌を思い切り満足させてやりたい。

それが叶わないのは一重に、目の前に座る父が怒り狂っているからである。

「魚ぐらい綺麗に食べれないで、一家の長男が務まると思っているのか」

いつものように、太い粗雑な声を張り上げる。その声の矛先は一家の長男こと、2つ上の兄だった。

兄が食べている途中の秋刀魚の皿を見ると、確かに小学生が食べたのかと思うぐらい、ぐちゃぐちゃと汚かった。秋刀魚の肝が苦手で、ちびちびつまんでいたのが良くなかったんじゃないか、と私は勝手に分析をする。

父の叱責を浴びる兄は、言い返す訳でもなく、箸を置き、静かに目を伏せていた。それはまるで、雨が少し収まるのを待ってから出発しようとするようにも見えた。ただただ静かに、その時をやり過ごそうとしているようだった。

高校生にもなって、こんなにつまらないことで声をあげられても怒らない兄。現代の価値観からはほど遠い部分で怒りを露わにする父。

そしてその状況をどうすることもできずに、箸を置き、夕飯がどんどん冷めていくのを気にしながら、兄と同じようにこの時間が少しでも早く過ぎさるのを待つ、私と母。

私の家は、窮屈でたまらない。きゅうくつ、という漢字を脳内で書き取りながら、私も父の怒りが収まるのを待っていた。


それから3日後。兄が、思いもかかけない形で反旗を翻した。

「朱莉、隼人から連絡来てないわよね」

吹奏楽の部活が終わった後、友達とファミレスでだらだらと過ごしていた私は、帰宅早々、おろおろとした母に出迎えられて面食らった。

いつもの寄り道は、人生初彼氏ができた、という友達の話で今までにない盛り上がりを見せた。その余韻は友達と別れ、一人になった後もずっと尾を引いていた。

そんな調子で終始舞い上がっていて、ふわふわとした頭が急に現実を思い出したかのように、ずんと重くなる。

「え、知らない。帰ってきてないの?まだ自習室で勉強してんのかな」
「違うの、一回帰ってきたんだけど…」

母が、後ろを振り返りながら声を潜める。
「隼人、お父さん殴っちゃったのよ」
「はあ!?」

殴っちゃった。母の言葉が信じられない。父の理不尽な怒りに対して、兄が反抗したのを見たのはいつだっただろう。反抗すればするほど、父の怒りは長くなり、手がつけられなくなる。

それが分かっているからこそ、いつの頃からか、何も口を出さずにただじっと耐えるのが、この家の不文律になっていた。

「え、嘘、お父さん大丈夫なの?」
ケガとか、と言いかける私に母が大丈夫、と更に声を潜める。
「殴った、って言ってもね、空の500mlのペットボトルでぱこーんってやっただけなの」
「は…」

母がこらえきれないように噴出したのにつられて、私も思わず笑ってしまう。なんて殺傷能力のなさそうな武器だろう。いや、痛いだろうけど。16歳男子の反抗にしては子供だましのように思えた。
自らの拳ではなく、あえてそれを選んだのかもしれない兄のことを思うと、彼らしい。

「あたし、お兄ちゃん探してくるね」
「場所、分かるの?」

私は母を安心させるために、大きく頷いた。伊達に14年間同じ屋根の下で暮らしていないのだ。

私は家から自転車を15分ほど走らせた。家の近所では一番飲食スペースが広いコンビニ。店内の窓ガラス越しに、兄の姿を発見した。

聞き馴染みのある入店チャイムを尻目に、私は兄の元へと一直線に向かう。

「お兄ちゃん」
「…なんだよ」

私は兄がテーブルに広げている参考書と、それに並べておいてある500mlのペットボトルを手にとり、しげしげと眺めた。

「なるほど、これが凶器に使われた…」
兄は一瞬面白くない顔をしたが、さっきの母と同じように、こらえきれないように笑いだした。

「ばっか。ちげーよ。凶器はコーラの500mlだ」
「自白成立だね」

そう言いながら近くに座る。

「なんかおごってよ」
「嫌だよ、自分で買えよ」
「折角迎えに来てあげたのに」

別に来てくれって頼んでませんけど。そう言いながら、兄は財布の中からじゃらじゃらと小銭を漁りだした。手渡されたのは100円玉2枚。

妹の前で恰好つけたい割には微妙な金額だね。そう言うと不機嫌になりそうなので、ありがとっ、と軽快に言って席を立つ。

180円で買えるガトーショコラを持って兄の元に戻ると、スマホを見ながら難しい顔をしていた。

「どしたの」
「…家からの連絡」

ほら、と見せた画面には不在着信は13件。

「重たい彼女みたいになってるね」
「お前のとこにも電話来てるんじゃないの」

私のスマホには、お母さんからのメッセージが1通だけだった。

『隼人、見つかった?お父さん、色々言いながら先に寝ちゃった。帰ってくるなら今だと思うんだけど…』

父を相手に狼狽している母の姿が浮かぶ。可哀そうな気もするけれど、母も変なところで父に慣れているから、案外大丈夫かもしれない。

「電話、お母さんからでしょ?かけ直してあげなよ。心配してたよ」
「いいよ別に」

不貞腐れたような声で私からの助言を制する兄の頬を見る。ニキビの跡が前よりも酷くなっているような気がする。

最近のお兄ちゃんはこんな顔ばかりしているな、とふと思う。朝の鏡の前。模試が帰ってきた後にお父さんから叱責されているとき。お母さんからの気遣いに対する面倒くさそうな仕草。

妹として、何かしてやった方がいいんだろうか。おごってもらっちゃったけど、ほんとは私がおごるべきだったんだろうか。

そんなつまらないことを、ぐちぐちと考え出していると、兄が広げていた参考書をぱたんと閉じた。

「不公平だよな、色々」
「何が?」
「生まれた順番でどうのこうの言われることだよ」
「それは…まあ」

跡取りだの長男だの、そんな言葉を産まれてから兄は何回浴びたのだろう。それをいうと私だって「朱莉はどうせこの家を出るんだから、隼人にしっかりしてもらわないと困る」なんて、よく分からない流れ弾でひっそり傷ついた時だってある。

「男だとか女だとか、後に生まれただの先に生まれただの、そういう選べない部分で親から色々言われんの、ほんっと、もう、無理」

最後の無理、に少し涙が滲んだような響きがこもっていて、私の喉の奥がぎゅっ、と閉まる。

兄も私も、父に言い返すことがなかった訳じゃない。ただ何度反抗しても、それを上回るようにして父が怒り狂うから、その意を削がれていっただけだ。

要領の良い私は父の怒りが届かないところへあらかじめ逃げる術をいつの間にか身に着けたけど、兄はそういうことが苦手なタイプだ。

そういうことの蓄積が今日の事件に、今にも泣きそうな兄へと繋がっている。

「お兄ちゃん」

兄の右手を、そっと包むようにして、握る。兄が眉をひそめて私を見たけれど、無視してそのまま触れる力を更に強めた。

少しかさついた手は小学校の時から変わらないように思えた。サイズ感はその頃に比べれば全然違うけれど、内にこもるような熱も、変わらない。

「ごめん」
「何でお前が謝るの」
「分かんないけど、家族なのに、ごめん」

ため息のような声をもらして、兄は私の手を静かに払う。上手く整えられていない、昔から変わらない、げじげじとした眉毛の緊張感がほんの少し解けたような気がした。

「別に、謝らなくていい」

重たい沈黙が流れる。イートインスペースに私たち以外誰もいなくて良かった、と心の底から思う。呑気な入店チャイムや繰り返し流れる店内放送が、何の効果ももたらさず、ノイズとして私たちの間を通り過ぎていく。

沈んでいく空気を先に壊したのは兄だった。

「じいちゃんの話、聞いたことある?」
「お父さんの方の?」
「そう。父さん、じいちゃんから今の俺と同じようなことされて育ったんだってさ」

「え、嘘」
初耳だった。

「もっと酷いかも。殴ったりとか、日常茶飯事だったらしいし」
だから怖い、と兄は絞り出すように続けた。

「もし俺が結婚して、子どもができても同じようなことしたら、とか。そういうの考えて怖くなる。俺が親を選べないって恨み事並べるのと同じように、俺の息子にもそういう風に言わせたらどうしよう、って…」

言い終わると、食いしばるようにして泣き始めた。
私は途端にどうしていいのか分からなくなって、紺色の学生服に包まれた背中を、そっとさする。

今の自分もに苦しんで、未来の自分にも苦しむ兄を、どうやって救ってあげたらいいんだろう。
もう、父は変わらないのだと、私たちは16年と14年、それぞれ一緒に暮らしてきて、いやという程知っている。

私は大学生になって一人暮らしして、そのまま社会人になって距離とればいいや、ぐらいに考えていたけれど、兄は全身全霊で、今の状況と戦っている。

今すぐにでも変えたい、逃げたい、と思ったときに、私たちはあまりに無力だ。

生まれる場所も性別も選べない中で、選べる範囲では自由にできたとしても、選べないものが自分にとってあまりにも苦しいとき、一体どうしたらいいのだろう。

嗚咽をこらえるように泣く兄の背中をさすりながら、気づいたら私の口は勝手に動き始めた。

「…あたしが、いるよ」
涙で覆われた目が私を捉える。は?というような視線を送られたけれど、怯まずに続けた。

「もしお兄ちゃんが子供にそんなことするんだったら、叔母さんとしてお兄ちゃんを叱る。もし今度…例えば今からうちに帰ったとして、お父さんがまたお兄ちゃんに訳わかんないこと言い出したら、あたしも反抗する、ちゃんと怒って、わめいて、戦う」

口から勝手に飛びだしていく言葉は、私から離れた途端に弱弱しく聞こえるような気がした。けれど、今の自分が兄に言えることは、できることはこれしかない。

「兄妹なんだから。お兄ちゃんがおじいちゃんになるときとか、死ぬ間際で一番身近な肉親ってあたしだから。だから、お兄ちゃんの味方でいる、から」

喉の奥がどんどん狭くなっていく。声も上手く絞り出せず、涙声になっていくのが分かる。

こんなこと言ってもしょうがないんじゃないか。言葉だけで救われるなら、もうとっくに目の前のこの人は苦しみから解放されている。頭の片隅では冷静な自分がいるのに、それでも言わずにはいられなかった。

テストの点は常に平均点で、目立った才能は今のところ発見できていないようなあたしにできることはこの先も見つけきれるか分からない。けれど今この瞬間、一緒に泣き合っている14歳のあたしにできる最大限は、これしかないのだ。

そんなあたしを見て、兄は少し呆けたような顔をした後、困ったようにティッシュ、と言った。

「鼻水出てて、汚い」
「…人が折角今良いこと言ってたのに」

お兄ちゃんだって汚いから拭いた方が良いよ。そう言って、鞄からポケットティッシュを取り出して渡す。取り出した拍子に、鞄にぶら下がっている大振りのぬいぐるみのキーホルダーが呑気にぶらん、と揺れた。

「今の時代にこんなことで悩んいるの、うちだけかもな」
ティッシュを丸めて、さっき使っていた使い捨ての手拭き用タオルに包みながら、兄が言う。

「そんなことないよ。ネット見てたら、皆色んな家があるよ」
「そういうの覗いてんの?ツイッター?」
「まあ、色々」

ふーん、と続けた兄の声がいつもと同じに戻っていて、少しほっとする。ぶる、とスマホが震えた音がした。

「わ、また電話だ」
「いい加減帰ってこいってことでしょ」

サイレントモードにしていた私のスマホも確認すると、母からの着信やメッセージが何件も入っていた。

「…そろそろ帰るか」
はー、と首を回しながら言う兄の声に頷く。何となく盛り上がってしまった気持ちから、日常に戻るのは少し気恥ずかしさがあった。

「俺、理系に進みたいんだ」
兄がそう切り出したのは、食べ散らかした跡を備え付けのごみ箱に私が無造作に捨てているときだった。
「え、マジで?お兄ちゃん絶対文系だと思ってた」
「うん。それで父さんと喧嘩になったけど、俺は絶対そっちに行きたい」

殴るために、空のペットボトルに手を伸ばした兄の姿を想像する。多分、進路の話だけじゃない、色んな葛藤が詰まった一撃を思うと、このまま一緒に家に帰って本当にいいんだろうか、という思いがこみ上げた。

「…本当に、帰る?」
確認するように私が言うと、兄は少し考える素振りを見せた後、ゆっくり頷いた。
「帰るよ」

ぞろぞろと部活帰りの学生が私たちのいるイートインスペースに入ってきた。それに急かされるようにして、入り口の自動ドアまで自然と二人で足を進める。


「じゃないと、俺もお前のこと叱ったりできないし」
照れたように笑う兄は、妹の前ではええかっこしいになる、いつものお兄ちゃんだった。

コンビニを出た後に二人で見上げた月は、いつもよりぼんやりとした温かいオレンジ色を纏って、ぽかりと空に浮かんでいた。

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