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第二次長州征討: 幕府軍は「弱かった」から負けたのか? 八王子千人同心と小倉口の戦い

はじめに

 八王子千人同心とは、江戸幕府が八王子地域に置いた組織です(彼らの身分が武士なのか、それとも農民なのかという点については様々な説があります)。江戸時代を通じ、八王子及びその周辺地域の治安維持、日光勤番、街道整備、蝦夷地開拓等の役割を担っていました。
 幕末期に至り、八王子千人同心(以下、千人隊)は、幕府軍直轄部隊として従軍する様になります。その内の一つが、第二次長州征討です。
 テレビドラマや映画での長州征討(或いは戊辰戦争)の場面を思い出した際、戦国時代さながらの甲冑姿で太刀や槍を振り回す幕府軍兵士が、最新鋭の西洋式兵器部隊の圧倒的戦闘力の前に次々となぎ倒される、といった光景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。実際、従来の歴史研究でも、長州征討や戊辰戦争での幕府軍敗退の要因は、幕府軍の士気が低く、戦闘能力も劣っていた為とする見解がありました。殊に、第二次長州征討に関しては、幕府軍直轄部隊である千人隊が戦闘への参加に消極的であり、その極めて低い士気が諸藩に伝染したことが幕府軍の敗因の一つであるとの見方すらあります。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。幕末期の千人隊に関する研究はそう多くありませんが、隊士の日記等の一次史料からは、千人隊がゲベール銃やミニエー銃等の西洋式軍備で武装し、西洋式の軍事調練を受けていたことが明らかになっています。また、小倉口の戦いの直前に発生した倉敷浅尾騒動では、千人隊が冷静に合理的な対応を行い、事態の収拾にあたったこともありました。こうした点を鑑みるに、千人隊は先進的な機能を有する精鋭集団であったというのが実際であり、「千人隊低士気低戦闘力論」は、「圧勝した長州軍」「惨敗した幕府軍」という固定化した概念の影響によるものではないかという疑問が浮かんでくるのです。
 今回は、小倉口の戦いと、その敗退により九州・四国を経て大坂に戻る迄の千人隊の実態を追います。そして、彼らが本当に戦意が低く、戦闘力も劣る集団であったのか、考えてみたいと思います。

小倉での八王子千人同心隊

 慶応2年2月、幕府と長州藩の交渉は決裂し、第二次長州征討が始まります。千人隊は、広島を経て、小倉への出張を命ぜられ、敵陣の偵察や市街の警備、幕府軍小倉口総督である小笠原長行の護衛等といった戦闘支援任務に従事していました。
 7月27日に勃発した赤坂の戦いでは、千人隊は小笠原の警衛部隊として出陣し、その内二箇小隊が、小倉新田藩兵の応援に、三箇小隊が熊本藩兵の応援に赴きました。この様に、千人隊は、前線での実戦も経験していたのです。
 赤坂の戦いは、熊本藩兵の活躍もあり、幕府軍の大勝利に終わったことは周知の通りです。ところが、7月30日、同藩指揮官の長岡監物は、独断で撤兵を開始します。この長岡の決断は、他の諸藩兵の引き揚げを誘発することになりました。更に、夕刻には、最高司令官である小笠原が密かに戦線を離脱し、残された幕府軍は大混乱に陥ったのです。
 長岡は、当初より小笠原と折り合いが悪く、対立を深めていたといわれています。実際、長岡が国元に送った書状には、小笠原の軍指揮官としての力量不足や、再三の意見具申も採用されなかったことに対する批判と共に、このままでは敗北が必至であることから帰国の判断に至ったと記されています。
 一方、当日、千人隊は撤退を事前に知らされておらず、引き揚げの準備を粛々と進める熊本藩部隊の様子を発見し、大いに困惑している様子が史料に残されています。
 つまり、熊本藩兵の戦線離脱の大きな要因は、小笠原に対する不信感であり、千人隊の影響によるものとは考えにくいといえるでしょう。

小倉から松山にかけての八王子千人同心隊

 小笠原の遁走は、幕府軍を最高司令官不在という異常事態の下に置くことになりました。残された幕府軍幹部らは、これ以上の戦闘継続は不可と判断し、小倉からの全面撤退を決定します。この突然の撤収命令は、7月30日当日中に幕府軍全部隊に伝達され、小倉城下は避難民で溢れ返る等、大混乱の状態となりました。
 千人隊も撤退を開始しますが、混乱下の為人足等の手配もままならず、自力歩行が難しい傷病人や持ちきれない荷物は小倉に残したまま出発することとなりました。一方で、将軍から貸し渡された武器類は優先的に運び出されています。
 小倉から脱出した千人隊は、8月3日、傷病者を除く全隊士が日田で合流し、四国へ渡る方針を一同で確認すると共に、険阻な山道に備え、荷物を西国筋郡代に預け、軽装で出発しました。松木村、別府を経て、9日には鶴崎から8艘の船に分譲し出航しています。この様に、混乱下であるにも関わらず、集団的行動を維持している点が窺えます。
 船団は、三机や長浜に寄港し、悪天候による引き返しや出航見合わせもありましたが、18日、目的地である松山に無事到着しました。尚、荒天の為途中で本隊とはぐれてしまった第二小隊は、15日に一足早く到着しています。
 ところで、千人隊到着直前の松山の様子について、興味深い記録が残されています。これによれば、幕府軍敗退の報がもたらされた為、長州藩兵の侵攻に備える必要が生じ、「以之外大騒キニ相成候」という有様であった様です。また、千人隊が散り散りに逃げ去り行方不明になってしまったとの風聞が広まり、関係者が驚愕する一幕もあったといいます。
 勿論、こうした噂は全くの誤報であり、千人隊は、混乱下であったにも関わらず一貫して指揮系統を遵守し、終始集団的行動を継続していたのです。

松山での八王子千人同心隊

 松山に到着した千人隊は、当分の現地逗留を指示されます。松山逗留中は、法華寺・龍泰寺等を宿舎とし、市街警備や軍事調練に当たりました。8月27日には、14代将軍德川家茂逝去の知らせを受けています。
 千人隊の軍事訓練は、他の幕府軍部隊と合同で行われることもありました。この内、9月16日の演習では、千人隊の練度の高さを、若年寄京極高富から称賛されています。一般的に、軍の練度と士気は比例するというのが軍事学の常識であることから、千人隊の士気はかなり高い状態にあったものと思われます。
 また、9月3日には、興味深い出来事が起こっています。小倉へ出張する目付に数人の隊士が随伴し、現地に残した傷病者探索を試みたのです。当時の小倉は、依然として長州藩兵と小倉藩兵との小規模な市街戦が頻発している状況でした。そうした中の小倉入りは、ほぼ確実に戦闘に巻き込まれることを意味します。むろん、小倉行きの主目的は戦闘ではなく同士の捜索であることは明らかです。しかし、戦闘意欲の低い集団が、そうした危険も顧みず救出活動を試みるでしょうか。動機は兎も角として、漸く安全な地域に辿り着いたにも関わらず、敢て再度危険な戦線への訪問を志願すること自体が、千人隊の士気の高さ、戦意の持続を具現化していると考えられるのです(但し、長州藩兵出没の影響もあり、結果的に彼らが小倉に入ることは出来なかった様です)。
 この様に、千人隊は、松山滞在期間を通じ、練度・士気の双方を高水準に維持していたのですが、10月4日、大坂への総引き揚げが命ぜられます。その3日後の同7日には、千人隊から行方不明者探索許可の嘆願書が提出されており、最後まで、彼らが同士救出の希望を持ち続けていたことがわかります。
 10月9日、千人隊は松山を出発、同14日、大坂に到着します。程なくして、千人隊は、関東への帰国が指示されました。「長賊」の横暴許すまじ、との意気を持ち続けた隊士も多かったものの、結局、長州藩兵との再戦も、仲間の探索に赴くことも、二度とありませんでした。

おわりに

 千人隊は、小倉では主に戦闘支援任務を担っており、幕府軍の一角で重要な役割を果たしていました。小倉撤退時も、混乱下であるにも関わらず、指揮系統に則った集団行動を維持していました。これは、近代的な軍隊行動の萌芽として捉えられる重要な点です。松山逗留中も、敗走中であるにも関わらず、規律に則り、軍事調練や市街地巡回を継続しています。
 抑々、千人隊は最高指揮官の護衛を目的とした少数精鋭部隊であり、当初より前線での白兵戦投入が想定されていた可能性は低いのです。そうしたことから、直接的な戦闘行為の機会が少なかったことを理由に士気が低く、戦闘能力も劣っていたとする見解には疑問が残ります。むしろ、鍛錬を怠らず、来る長州藩兵との再戦に備え、その練度の高さを称賛される等、高い士気と戦意を保ち続けるその姿は、最早敗残兵との位置づけは出来ないのではないでしょうか。
 「幕府軍=弱くてやる気のない部隊」という図式は、必ずしも幕末維新史全ての場面で当てはまらないといえそうです。

参考文献

辻󠄀 博仁「小倉から大坂までの八王子千人同心の動向」(岩橋清美・吉岡孝編『幕末期の八王子千人同心と長州征討』岩田書院、令和元年、175-191頁)


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辻󠄀 博仁
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