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自分が分かるための文章と、他者へ伝えるための文章


最近、文章の書き方がわからなくなってきてしまった。私はいつも文章を書くとき、書きたいテーマに沿って、ダラダラと散文的に書いていくことが多い。でも、そうやって書かれた文章は、句読点も、語彙も、論理も飛躍していることが多いから読み手にあまり優しくない。

たまには読み手を意識した文章を書いてみようと思うのだけれど、それがまた難しい。読者にどうしたら共感してもらえるのか、どうしたら伝わりやすいのか。私にはそれが分からない。それに、そもそもそうやって他者に迎合した文章というのは、自分で「面白い!」と思えなくなるのだ。そうして、文章を書くことが辛くなる。


最近、「文章を書く」という行為には2種類あるのかな? と思うようになった。それはすなわち、

①自分が分かるための文章
②他者へ伝えるための文章

である。

『①自分が分かるための文章』とは、自分が読者の文章である。思考していたとしても、頭の中でグルグルと回しているだけでは、思いはとっちらかる。そこで文章にしてみる。ノートでも、スマホでも、noteでも。ひとまず文字に起こしてみることで、自分が何を考えていたのかが明確になったり、頭で考えているだけでは出会えなかった思いの形に出会ったりする。私は、そんな自分の『思い』に出会いたいから、きっと文章を書いている。

ところが、そうやって書かれた『①自分が分かるための文章』は、自分だけが分かればいいという点で、他者に伝わりにくかったりする。①の文章を書いた時点でやめておけばいいものを、それをSNSで公表したりすると、全く共感してもらえず落ち込む、ということもままある。


文章を書くこととは、自分の内面を曝け出す行為だ。外見は、美容室に行ったり衣服を整えたりすることで、なんとかカバーすることができる。ところが文章は、あなたの内面であり、ユーモアであり、思考であり、心なのだ。外見には現れない、あなたの恥部よりも深い恥部を晒しているのだ。

①の文章というのは、衣服を何にも身につけずに、路上へ出るような行為に近いかもしれない。文章が他者から攻撃されたり共感されなかったとき、それは自分の素肌を直接傷つけられる感覚に似ている。だが同時に、人の心に響く文章というのは、同じく内面を露見させた文章でもあるから塩梅が難しい。

それを心と技をもって成せるのが、きっと文筆家や小説家と言われる人たちで、いわゆる「文章が上手い」ということなのだろう。 心で書いたものを、『②他者へ伝えるための文章』へ昇華させることができるのが技なのだろう。
文章が上手い人は、①と②をうまく往復する。自身の内面を曝け出しつつも、それが相手の心に届くようにうまくコーティングする。それを無意識にできているならば、あなたには文才がある。


私には、それを無意識にできる才がないから、苦労している。でも、①と②の文章に分けて考えてみることで、なんとなく文章を公表するときの注意点、というようなものがわかってきた気がする。これも書いてみたから、気づいたこと。

最近は、noteをアップする前に推敲する。自分が分かるために思いのまま書いた文章に、少しだけ衣服を纏わせる。自分が「面白い」と思える文章と、他者が「面白い」と思える文章。書き方は、やっぱりまだわからないけれど、その両立を目指して今日も文章を書く。

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