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フランク・キャプラの『一日だけの淑女』(1933)と『おとぎ話』の話

今年の12月25日まさにクリスマスの日。ある話題がSNSを席巻した。
視聴者投票により、「豆柴の大群」というアイドルグループのプロデューサーのクロちゃんが解任されたのである。

番組的には酷いプロデューサーとして解任されたクロちゃん。しかし、彼が書いたあるフレーズが私の頭から離れない。

JASRACの関係で歌詞は引用できないためニュアンスでお伝えするが、「七夕をロマンチックに大人になってから感じなくなってしまったよね?」というような意味のフレーズだ。そう歌い出しのあの部分である。とにかく問題なのは、大人になるとおとぎ話を受け入れることはできなくなっちゃう!!とこの歌は言っていることだ。

しかし、本当にそうだろうか?

そうなのかも知れない。現に最近珍しくヒットしたおとぎ話的ラブストーリーのタイトルは『ララランド(お花畑のような用例で使われる)』だったし、劇中歌のタイトルは”The fools who dream”(夢見るお馬鹿さん)。はっきり夢を見てる人は馬鹿だと言ってしまっている。

もちろん、実際には『君の名は。』も『アラジン』も大ヒットしている。まさかお客さんみんな子供だったわけないし、大人が皆おとぎ話に魅力を感じないわけではないだろう。しかし、おとぎ話を小馬鹿にする態度こそが大人だ!という価値観は多くの人々の胸の底にある気がする。

そんな”大人な”価値観に異議を唱えた映画監督が1930年代のアメリカにもいた。フランク・キャプラである。


『一日だけの淑女』とフランク・キャプラ


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引用:『一日だけの淑女』, 1933 , フランク・キャプラ監督

「おとぎ話を信じるか」

『一日だけの淑女』という映画のセリフだ。

まずこの映画のあらすじを軽く説明する。

貧しいリンゴ売りのアニーは、留学している1人娘に、ホテルで暮らす上流階級だと手紙で嘘をついている。しかし、彼女は旦那さんを連れてアニーのもとに帰りたいという。あら大変。このまま帰ってこられたら嘘がバレてしまう。一方、アニーのリンゴを縁起物として勝負事の前に必ず買うことにしていたギャングの一味は、せっかくの大取引前なのにアニーが見つからず大混乱。やっとのことで見つけたアニーは意気消沈していてリンゴどころではない。そこでギャングたちはアニーの相談を聞くことにした。そして、ギャングたちはアニーたちのために一芝居打とうと立ちあがる。しかし、警察や記者はギャングたちの不可解な行動を見逃さなかった。

上記の「おとぎ話を信じるか」のセリフは、ついにギャングたちが警察に追及されてしまう場面のセリフだ。
珍しく良いことをしているのに、どうせ悪巧みしてるんだろうと疑われる悲哀。大人たちはどうせ人の善意なんか信じやしないという諦念。悲しみとやるせなさで画面は埋め尽くされてしまう。観客も、登場人物も、やっぱりおとぎ話なんて嘘なんだ!と皆が思ったその瞬間。

ものの見事に、それこそマジシャンのように、フランク・キャプラは、おとぎ話の存在を肯定してしまうのだ。

フランク・キャプラの作品の基本は皆同じだ。『オペラハット』も『群衆』も『スミス都へ行く』も、ちょっと亜種だが『素晴らしき哉、人生!』も『失われた地平線』も一緒だといっていいだろう。

キャプラの映画は下記構造で理解できる。

おとぎ話を信じる者v.s.おとぎ話を信じない者

この両者が戦う。まずは一度、おとぎ話信者が大敗する。ときに死すら直面する。しかし最後の最後で大逆転して勝つ。これ以上美味しいハッピーエンドはない。まさに、『三十四丁目の奇蹟』のラストのあれだ。サンタクロースがいるのか?いないか?を争うあの名裁判の流れである。(そもそもあのシーン自体がフランク・キャプラの『オペラハット』の精神判定のシーンや『スミス都へ行く』の議会のシーンをある程度念頭に置いていると思うが、実際はどうなんでしょうか?)

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引用:『三十四丁目の奇蹟』, 1947年 , ジョージ・シートン監督

そういった特徴ゆえか、彼の作品はキャプラコーン(大甘)と揶揄されることもしばしばあった。いや、もしかしたらすでに圧倒的な成功者であった彼が能天気にハッピーエンドを描くことへの強い反発もあったのかもしれない。

そう。忘れてはいけない。フランク・キャプラはアメリカンドリームを叶えた成功者だった。いや体現者とも言っていいだろう。

フランク・キャプラの成功

彼はイタリアからアメリカン・ドリームを夢見てアメリカへ来た移民だった。コント作家をして食いつなぐ日々。監督になるまでも大変だったが、なってからも大変だった。

フランク・キャプラの才能を見出したのはハリー・コーンという人物。彼が創設したコロンビアは、まだ数ある弱小映画会社のひとつにすぎなかった。当時のコロンビアは、MGMやユニバーサルの足元にも及ばず、アカデミー賞からも無視されるようなB級映画を製作することしかできなかった。

キャプラは、この新しく小さな映画会社コロンビアで映画を作ることになる。

1932年、彼にとっても、コロンビアにとっても、転機となる作品が公開される。『狂乱のアメリカ』だ。「悪徳銀行員の仕業で取り付け騒ぎが発生した銀行を、善良な銀行員が救う」という話は世界恐慌後のアメリカ市民に刺さり、大ヒット。しかし、世間の評判に相反し、アカデミー賞には相変わらず無視されてしまう。いつかメジャーの映画会社になるためにアカデミー賞作品を世に送り出すことを至上命題だったが、無念の結果となってしまった。この時、彼が資本主義の権化銀行員を悪役として描いてしまったことは後の伏線となるのだが、キャプラがこの作品を機に成功者へといっきに近づいたのは事実だ。

そして、翌年の『一日だけの淑女』でついにアカデミー賞に初ノミネート。『或る夜の出来事』ではアカデミー賞を史上最多部門受賞。「とある金持ちの令嬢が窮屈な生活から家出抜け出し、新聞記者と出逢う。記者はスクープがほしかっただけだがやがて二人は恋に落ちる」というストーリーは後の映画に多大な影響を与えた(ラストの許嫁との結婚式を抜け出すくだりもパロディが豊富)。

この作品の映画史に残る大成功により、決定的にフランク・キャプラは時代を代表する映画監督となり、コロンビアはメジャーの仲間入りをした。
(この映画は、「ルパン三世 カリオストロの城」や「新世紀エヴァンゲリオン」の「瞬間、心重ねて」にオマージュシーンがあることでも知られている)

人気監督の仲間入りをしたキャプラは、いつの間にかに、アカデミー会長にまで上り詰めていた。が、そこでもキャプラは困難にぶち当たることになる。アカデミー賞が存続に危機にみまわれてしまったのだ。労働組合による賃上げ交渉で、会員らの授賞式のボイコットが提案される。これではアカデミー賞は成り立たない。もはや彼らの怒りは鎮まらない。アカデミー賞は終わったと思われた。

キャプラはある提案をする。アカデミー賞授賞式の場で映画の父「グリフィス」に特別に賞を授与しようじゃないか。グリフィスを敬愛する会員らは皆賛同した。キャプラは見事、彼らの怒りを鎮めることに成功した。

すなわち瀕死のアカデミー賞を守ったのもキャプラだったのだ。さらに彼はアカデミー会員の増員に尽力し、現在のアカデミーの基礎を作ることになる。

それだけなら良かった。問題だったのはキャプラはその後労働組合の会長にもなってしまったことだ。彼は、監督スタッフの待遇改善のために尽力することになる。『沈まぬ太陽』の恩地元を思わせる奮闘ぶりだったのだろう。そして、1941年、問題の作品が公開される。

キャプラが最高傑作と自負する『スミス都へ行く』という作品だ。腐敗した議会民主主義に、ある一人の好青年が立ち向かうというストーリーだ。しかし、この映画は政府関係者には民主主義批判の映画として受け取られてしまった。本当は、民主主義というおとぎ話を最後まで信じた者が勝つ話なのに。政府関係者らはこの映画がヨーロッパ諸国や諸外国に悪影響を与えることを懸念し、上映妨害工作を行い、キャプラは、政府の要注意人物のリストに明確に記されることとなった。

そもそも彼は、移民という出自や今までの様々な経緯から「共産主義者」を疑われやすい立場にあった。彼はそれを自覚していた。「赤狩り」の嵐がハリウッドにも吹き荒れる当時。仲間の裏切りや告発によって仲間が映画業界から追放されるのを何度も目の当たりにしていたキャプラは、誰よりも追放を恐れていた。共和党支持者で根っからの愛国者であったキャプラは、それをあらゆる手を尽くして証明しようとした。

第二次世界大戦。キャプラは軍に志願。プロパガンダ映画の制作に邁進することになる。彼のお陰でプロパガンダ映画はわかりやすく、より面白いものへと変化。軍隊の士気を上げるのに貢献した。気がつけば中佐にまで昇進していた。

しかし、もっとも油の乗った時期、自由に映画を作ることはできなかった。

『汝、敵を知れ』 , 1945年 , フランク・キャプラ監督


キャプラの挫折と『ボケット一杯の幸福』

フランク・キャプラの人生にわかりやすいハッピーエンドはない。戦後、世界の価値観は激変していた。欧州も日本も米国もリアリズムの時代になっていた。とてもおとぎ話を信じれる状況ではなかった。

キャプラは1946年、自分で会社を設立し、巨額を投じて『素晴らしき哉、人生!』という映画を製作する。しかし、興行的に大失敗。会社はたった一作で見事に倒産してしまった。

それから1961年まで彼はヒット作を産み出せなかった。
最後にキャプラは『ポケット一杯の幸福』という映画を製作し、映画監督を引退する。
この映画こそが、あの『一日だけの淑女』のセルフリメイク作品だった。最後の最後に彼は、おとぎ話を信じる者が勝つ映画を再び作ろうとしたのだ。

キャプラは成功者であったから、おとぎ話を信じることができたのではない。そもそも『一日だけの淑女』を作ったのは、アカデミーに見向きをされない弱小映画会社の一介の監督だった時だ。それをもう一度リメイクしたのだって、時代遅れのオワコンになってしまったどん底の時だ。どちらもキャプラにとって輝かしい時代では決してない。

私にはむしろキャプラは辛い時こそおとぎ話を信じようとしたように思える。映画監督人生の最後の最後まで。

そして忘れてはいけない。キャプラの映画は、ラスト数分のハッピーエンドマジックが来るまではどこまでも現実的な絶望を描き出す映画でしかないということを。


占領下フランスの熱狂

アメリカ政府関係者に反政府的な映画だと見なされ公開妨害も受けたキャプラの代表作『スミス都へ行く』は、観客には全く違った解釈を持って受け入れられた。その劇的な例として挙げたいのがドイツ占領下のフランスの例である。

ドイツ占領下のフランス。表現の自由は政府によって制限されようとしていた。もちろん、英米製の映画もやがて検閲によって見られなくなる。そんな時、フランス人が最後に見たい英米製の映画に選んだのがキャプラの『スミス都へ行く』だった。

数週間、検閲で見られなくなるまで上映が続けられ、フランス人は大挙として映画館に押し寄せ映画に熱狂したという。

彼らはなにを考え『スミス都へ行く』を見に行ったのか?自由と民主主義を感じようとしたのか。自由と民主主義というおとぎ話を信じようとしたのか。信じた者が勝つ物語を見たかったのか。もしかしたらアメリカに強い憧れすら抱いたかもしれない。実際のところはわからない。だが、アメリカ政府の判断は誤りだったのは間違いないだろう。

彼の映画は民主主義を愛する国民を熱狂させた。アメリカへの憧憬を呼び起こした。アメリカ政府は、決して反民主主義映画として上映を妨害すべきではなかったのだ。


おとぎ話を信じる者たちの足を引っ張るな

ハラリ氏の『サピエンス全史』によると、ホモサピエンスがネアンデルタール人を駆逐し世界を席巻するようになった理由は、フィクションを操れるようになったということが大きいらしい(認知革命)。それにより、認知革命以前は信じられないほどの大量の人数が協力することが出来るようになったという。

人間にフィクションが必要なのであれば、オーウェルの『動物農場』の豚みたいに敵意の物語で協力しあうのではなく、私は是非とも『一日だけの淑女』のギャングのように善意の物語で協力しあいたいと思っている。善意の物語とはすなわちおとぎ話のことだ。

『男たちの旅路』という1976年のドラマで敬愛する脚本家・山田太一氏が堅物で戦中派の吉岡司令補(演:鶴田浩二)にこう言わせていたので引用したい。

恋愛も友情も、永続きすりゃあ嘘だと思う。人のためにつくす人間は偽善者かバカだと思う。金のために動いたと言えば本当らしいと思い、正義のために動いたと言えば、裏になんかあると思うんだ。お前らは、そうやって人間の足をひっぱって、大人ぶっているだけだ。(男たちの旅路、山田太一)

このセリフが常に正しいとは限らない。
しかし、このセリフはときに必要になるのだ。

『一日だけの淑女』の野暮な警察官にならないためにも、
アニーと娘の関係を壊さないためにも。


参考・引用資料

・井上篤夫(2011)『素晴らしき哉、フランク・キャプラ』,集英社新書
・フランク・キャプラ監督(1933)映画『一日だけの淑女』
・ジョージ・シートン監督(1947)映画『三十四丁目の奇蹟』
・ケネス・バウザー監督(1997)映画『フランク・キャプラのアメリカン・ドリーム』
・山田太一(2017)『男たちの旅路』,里山社
・ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史(上)(下)』河出書房新社

(今はこっちで執筆してます)

筆者:とび
学生映画企画『追想メランコリア』の脚本担当。一橋大学社会学部四年。
好きな映画は『素晴らしき哉、人生!』。

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