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フィルム・ノワール入門

1.そもそもフィルム・ノワールって何?

 みなさん、フィルム・ノワールという言葉を聞いたことがあるでしょうか? 聞いたことがない人が多いと思うのでここで軽く一息で説明してしまうと、数ある映画ジャンルの中の一ジャンルを指す言葉として知られています。

 つまり、ミュージカル映画とか西部劇とか法廷劇とか怪獣映画とかと同じカテゴリーの言葉ということになります。そしてこのフィルム・ノワールというジャンル、知名度の割に映画史的に非常に重要なのです。

 というのも『ブレード・ランナー』『ガタカ』『マイノリティ・リポート』『攻殻機動隊』(下記動画参照)などをはじめとする大作SF映画の多くはこのジャンルの影響を直接的に大きく受けてると言われているからです(これらの作品をSFノワールと言ったりします)。そのためか、いまだにフィルム・ノワール愛好家を名乗る人は後を絶たず、日本でも特集ムックや研究書、関連本が複数出版されていたりと、出版界ではかの有名なジャンル・ミュージカル映画よりも大切にされている印象すら持ちます。

 またSF映画のみならず、フィルム・ノワールのノワールっぽさは新たな映画ジャンルを生み出したりもしてます。西島さんと香川照之のやってたテレビドラマダブルフェイスの原作である『インファナル・アフェア』を代表作とする香港ノワールや『甘い人生』をはじめとする韓国ノワールのことです。

 そしてそしてさらには、フィルム・ノワールの影響はついに世界的コミック作品にも及ぶことになりました。そう、かの有名なスパイダーマンです。フィルム・ノワールという映画ジャンルは、ついにスパイダーマン・ノワールという新キャラをも生み出すことになったのです。いやいや素晴らしい。

 こんなにも現代のエンタメに影響を残してるフィルム・ノワールとかいう輩はいったい何者なのでしょうか。気になってきた方、是非とも安心してください。これからたっぷり書かせていただきます。

 しかしそれだけ重要なジャンルなのに、他の映画ジャンル名に比べてみるとフィルム・ノワールという言葉はあまり聞き慣れません。それはなぜなのでしょうか?

 そうなんです。この言葉、妙に使われる範囲が極端に狭いのです。それはいったいなぜなのでしょうか? また、なぜ使われる範囲が狭いのにこれほどまでに後世に影響を与えることができたのでしょうか? この記事ではまずこの問題について考えていきたいと思います。

 【なぜ、フィルム・ノワールという言葉は極端に使われる範囲が狭いのでしょうか?】

 それでは、このに迫るためにも、フィルム・ノワールという言葉の適用範囲の狭さを説明する前にまず、フィルム・ノワールという映画が共通して持つざっくりとしたイメージをなんとか雰囲気で伝えたいと思います。

 最近、日本テレビで『ニッポン・ノワールー刑事Yの反乱ー』というテレビドラマが放送されていましたが、ざっくりといえばあのカンジ。気力を失った(死語を使うならニヒルな男ってやつ)タフガイのヒゲ面・髪モジャの刑事(or探偵or殺し屋)が、嫌々も妙な事件の真相を傷心を抱えながら追いかけなくてはいけなくなる。。。これはそう、日本映画でいえばあの名作、押井守の『イノセンス』のようなイメージ。あの映画はまさにフィルム・ノワール的な作品だということができるでしょう。

 また、一方でタフガイの主人公が悪い美女(ファム・ファタール)に騙されて、破滅・絶望へと陥っていくというイメージを持つ作品もあります。すなわち、

 「<攻殻機動隊のバトーのような男が、魔性の女・美女に騙されて絶望の淵に突き落とされる的な展開>が、フィルム・ノワールと呼ばれる作品では多いんだな

くらいのイメージで思ってもらえるといいかもしれません。また、もしあなたがミュージカル映画のファンであれば、以下の動画を見てもらうのが一番手っ取り早いでしょう。素晴らしい音楽とダンスでフィルム・ノワールの世界観を表現しきっています。

 では、フィルム・ノワールとは具体的にどういった作品に対して使われてきたのでしょうか? これについては、さっきも書いた通りめちゃくちゃ範囲が狭いです。もちろん、例に挙げた『イノセンス』や『ダブル・フェイス』をフィルム・ノワールに分類しようとする人はこの世界には存在しません。『ブレード・ランナー』や『ガタカ』も同様です。もちろんこれにははっきりとした理由があります。

 それはつまり、フィルム・ノワールという言葉は、

ハリウッドで1940年代から1950年代後半までの期間に制作された前述したような雰囲気を持つ犯罪映画 ”のみ”を基本的に指すからです。

 具体的にいくつか例をあげます。

・『拳銃貸します』(1942)

※この作品の主人公の格好であるトレンチコート中折れ帽の組み合わせは以後フィルム・ノワールのド定番となりました。

・『飾窓の女』(1944)

・『ギルダ』(1946)

※この映画は『ショーシャンクの空に』のポスターでも有名ですね。

・『狩人の夜』(1955)

 この三つの映画なんかは典型的なフィルム・ノワール作品として挙げることができます。
 これらの映画はどれも、

・映像が全体的に黒白明暗のコントラストがこれでもかと強調されているところ
煙や影やタバコが演出で多用されるところ
・舞台として大都市の夜が選ばれがちなこと
・雨が降りがちなど水のモチーフが多用されがちなこと
退廃的な雰囲気を持っていること

そして、何よりも、


悪女(=ファム・ファタールといいます)が男を惑わすところ

などといった共通点があります。

ここで、ひとつこの記事で最終的に突き詰めたい最大の謎を一つ提示したいと思います。それは悪女の正体とはなんであるか?というものです。ニヒルなタフガイを絶望の淵に叩き落とす悪女とはいったいどういった心理のあらわれなのか。。。それについては、いづれ細かい謎を追っているうちに明るみに出ることになります。

 ちなみにフィルム・ノワールという言葉の使われ方について、「え、めっちゃ期間限定するやん!!!」って思った方、たくさんいると思いますが、こういった言葉の使われ方自体は決して珍しいものではありません。例えばテレビドラマのジャンル名のひとつであるトレンディードラマもよく似た使われ方をします。というのもトレンディードラマという言葉も基本的には1988年から1992年までに制作された恋愛に興じる若者を描いた日本のテレビドラマ作品にしか使われないからです。

2.でもフィルム・ノワールってフランス語じゃないの?

 ちなみにトレンディードラマがなぜ1988年から1992年の間に限定されるのかは簡単に説明できます。それはつまり、「トレンディードラマという言葉自体にそもそも”バブル時代に流行ったドラマ”というニュアンスが含まれているため、当然バブル時代(=1988年~1992年)のドラマにしか使わないし使えない」ということです。

 それでは、フィルム・ノワールという言葉はなぜ1940年~1950年代後半という限られた期間に作られた映画にしか使われないのでしょうか? 

 これは、重要かつ不思議な問題です。たとえば、トレンディードラマに”バブル時代に流行ったドラマ”というニュアンスがあったように、フィルム・ノワールという言葉にもそういった何かしらニュアンスが含まれているのかもしれません。そのニュアンスが1940年~1960年という期間を暗に示したとして、ではそのニュアンスとはいったん何なのでしょうか? この問題には簡単に答えられそうもありません。
 かといってフィルム・ノワールがミュージカルや西部劇のように誰の目にも明らかなジャンルだったのなら、期間が限定されることはなかったでしょう。たとえば次のような状況を想像してみてください。2010年代に流行った音楽映画であるララランドに対してある人が「40年代でも50年代の映画でもないからミュージカル映画とは言えない!」と主張していたとしましょう。もしそんな人がいたら「この人は何を言ってるんだろう。歌を歌って踊っているのだからミュージカル映画に決まっているじゃないか」と変に思うのが普通ではないでしょうか。でもこれがフィルム・ノワールのことになると話は変わります。製作時期の理由でジャンルから外されることは、最初に例に挙げた『イノセンス』や『ブレード・ランナー』(作品自体はフィルム・ノワールそのもの)がそうであるようにざらにあります。ということはやっぱりフィルム・ノワールという言葉自体に時代的なニュアンスを含まれていそうですが、はて、めちゃくちゃ不思議です。
 さらに、この謎にとりかかる前にもうひとつだけ、絶対に考えなければならないがあります。それは、そもそも、

 なんでアメリカ映画のジャンル名なのにフランス語なの?

 という問題です。

 フィルム・ノワールとは"film noir"、日本語に直訳すると「暗黒の映画」という意味になるフランス語です。先ほども言った通りフィルム・ノワールという言葉はハリウッドで製作された作品にしか原則使いません。不思議です。アメリカ映画のみを指す言葉なら中途半端にフランス語を使わずに”dark cinema”と英語を使ったほうが自然ではないでしょうか?

3.フィルム・ノワールは誰が”発見”したの?

 では、なぜアメリカ映画のジャンル名なのにフランス語なのでしょうか? その答えは意外にも簡単です。それは、フィルム・ノワールというジャンル自体が、フランス人によって”発見”されたものであるからです。
 では”発見”とはどういうことなのでしょうか? まず、大前提として重要なのは、アメリカでフィルム・ノワールという言葉が使われるようになるのは1970年代以降であるということです。フィルム・ノワールが1940,50年代の映画を指す言葉であることを思い出せばわかるとおり、フィルム・ノワールが製作されている時、それを作ってる人たちは監督も脚本家も誰もフィルム・ノワールという言葉自体知らなかったし、そもそも当時アメリカにはそんな言葉存在しなかったということになります。
 そのため、映画が完成した時点では、その映画は誰にとっても”アメリカの犯罪・探偵映画のなかのひとつ”でしかありえませんでした。が、たとえば、それを見ている映画の客が勝手に独自の基準で、「この映画は青色が多いから青色犯罪映画というカテゴリーを作ってそれに分類してしまおう!」と言うことは可能です。一度そう言ってしまえば、少なくともその人の中ではその映画は単なるアメリカ製犯罪映画から「青色犯罪映画のなかのひとつ」へ変貌を遂げることになります(もちろんそんな言葉は一般的になりえませんが)。もちろんその客がフランス人であれば、フランス語のジャンル名がつけられることはありうるでしょう。”発見”とはこういうイメージになります。
 つまり言い換えると、フィルム・ノワールを発見したということは、アメリカ製の数多くの犯罪映画や探偵映画をたくさん見ていたとあるフランス人が、
「この作品とあの作品とその作品と・・・・・・etc.は似た雰囲気を持っているな? そうだ! フィルム・ノワールと名付けてひとまとまりで分類しようではないか!」
と勝手にカテゴリーを作って分類をしちゃったということを意味しているのです。
 実際に、フィルム・ノワールという言葉がジャンル名として使われるようになったのは、1955年ボールドショムトンという二人のフランス人が『アメリカン・フィルム・ノワールの概観 1941-1953』という本を出版したのが最初のきっかけであったとされています。もちろんこの本では、著者によってフィルム・ノワールに分類されると考えられた数多くのアメリカ映画が一覧で紹介されています。
 しかし、フランス人がフィルム・ノワールを発見したのであれば、別の疑問が生まれてしまいます。それは、

 なぜアメリカ映画に限定する必要があったのか?

 という疑問です。 もしフィルム・ノワールを名付けたのがアメリカ人であれば、自国の映画に無意識に限定してしまうのは当然といえば当然なので疑問にはなりません。しかしフランス人であれば別です。わざわざアメリカ映画に限定するということはそこに何らかの意図や経緯があったと考えるのが自然です。
 ではなぜ、フランス人は、「※フィルム・ノワールはアメリカ映画でなくてはならない」と考えたのか? その理由を知るには少し、フィルム・ノワールという言葉の使われ方の歴史をたどる必要があります。

4.そもそもフィルム・ノワールは悪口だった?

 フィルム・ノワールという言葉が最初に出現するのは1930年代後半のフランスのことです。人民戦線が崩壊し政治的に不安定なこの時期、アクション・フランセーズという保守的な新聞のとある映画に対する批評コーナーでのことでした。
 内容としては、「昨今のフランス映画は、ストーリーも画面もなんだか暗くて、対外的なイメージも悪そうだし、国民への悪影響もありそうだからいい加減やめてくれ!」というもの(『万引き家族』の件といいこれといい、保守的な人々が貧困とか犯罪とか自国内の暗い話題を取り扱う映画を攻撃するのは世の常なのかもしれません)でした。そのような文脈の中で、特定の映画のことをフィルム・ノワール(暗黒映画)と呼んで罵ったのがこの言葉のはじまりなのです。
 これはたとえば知り合いに対して「根暗」と言い放つようなイメージだ思ってもらって問題ありません。つまりぶっちゃけてしまえば、フィルム・ノワールという言葉はただの悪口として生まれた言葉だったのです。そして、フィルム・ノワールという悪口表現はその後様々なメディアに用いられるようになり、当時の街の人々にもじわりと浸透していったのではということが当時の新聞記事からわかっています。

※これは当時よく槍玉にあげられていたジャン・ギャバン主演映画の代表作『望郷』。これらの作品はフランス国内の保守からは攻撃の対象として見られていましたが、保守の心配とは裏腹に世界的に詩的リアリズムとして高く評価され大変な人気を博しました。

 では、この単なる悪口だった言葉がいつアメリカ映画に対して用いられるようになったのでしょうか?

5.アメリカ映画 v.s. フランス映画どっちがすごい?

 初めてフィルム・ノワールという言葉がアメリカ映画に使われたのは1946年の8月のこと。解放後まもないフランスで一番人気の映画雑誌だった『レクラン・フランセ』に掲載されたとある論考でのことでした。また、ほぼ同時期に『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』という映画雑誌に「アメリカ人もまた『暗黒』映画を作る」というタイトルの論考が掲載されます。

 このほぼ同時期に公開された二つの論考は不思議なことに全く内容が真逆でした。というのも、『レクラン・フランセ』に掲載された方は、「アメリカ映画の質にいつの間にかフランス映画は追い抜かれているんじゃない? このままじゃフランス映画ヤバイでしょ!」という内容。一方で、『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に掲載されたのは、「最近ではアメリカでもフランス映画っぽい作品が作られているらしいけど、ウチのホンモノと比べたらアメリカの奴は全然ダメだね」というもの。まったく評価が真逆です。

 しかし、どちらも、<アメリカ映画>と、<かつてフィルム・ノワールと右翼に攻撃されていた(一方で世界的に人気だった)フランス映画>を比べてどっちが優れているかを論じているということは共通しています。このように、戦後、フィルム・ノワールという言葉は、ただの悪口ではなく、アメリカ映画とフランス映画の優劣を語るときに持ち出される一種の合言葉、言い換えれば批評ワードへと変化していったのです。

 このような変化が起きたのには以下の三つの背景があると考えられます。

①映画大国フランスの衰退とアメリカの躍進
 そもそもスクリーンに映し出す形式の映画が最初に発明されたのはフランスでした。そしてそれ以降しばらく世界最大の映画大国はフランスだったのです。たとえば世界初のSF映画とされ未だに人気のある『月世界旅行』も製作されたのはフランスでのことした。

 しかしこの状況は第一次世界大戦によって徐々に変わり始めます。戦争でボロボロになったフランスとは異なり、戦争によるダメージが少なかったアメリカは経済的に急速に発展、ハリウッドでの映画製作は隆盛を極め、気が付けば世界最大の映画生産地はフランスからハリウッドへと移り変わってしまいました。

 とはいえ、第一次世界大戦後もフランス映画は世界的な人気と評価は依然として高いままでした。というのもギャグ動画(スラップスティックコメディ)や大量の美女によるショー(レヴューが売りでストーリーに深みのないとされた当時のアメリカ映画とは異なり、

※1925年当時大人気だった喜劇俳優キートンの代表作『キートンのセブンチャンス』のなかのワンシーン

※1929年のミュージカル映画、『ハリウッド・レヴュー』。ストーリーは存在せず、大勢の美女によるダンスシーンや楽しい音楽が何よりの売りでした。

 フランス映画は人間ドラマの深さ芸術性においてはとても優れているとされていたからです。

※1929年にかの有名なサルバドール・ダリルイス・ブニュエルが製作したシュールレアリスム(シュールな非現実を描こうとする芸術)の名作とされる『アンダルシアの犬』という作品

※トーキー映画(音のある映画)の最初期1930年におけるルネ・クレールの大傑作ミュージカル映画である『巴里の屋根の下』。この映画が世界におけるパリのイメージを作り上げました。

 しかし、第二次世界大戦とナチスドイツによる占領により自由に映画を作ることができなくなり、フランス映画産業は決定的なダメージを受けてしまいます。一方でアメリカ映画は世界を席巻し、アメリカの一大産業へと発展しました。かつての栄光が忘れられないフランスの映画ファンはこのような状況をどのように思ったのでしょうか? いやまだフランス映画は戦える!と思った人がいたかもしれませんし、アメリカ映画から学ばなければ!と危機感を持った人もいたでしょう。

②ナチスドイツによるフランス占領

 1940年、ナチスドイツ軍はフランスに奇襲をしかけました。フランスは、かねてよりナチスドイツの攻撃を防ぐために莫大なお金を投じて「マジノ線」という要塞を作っていました。しかし、アルデンヌの森は絶対に通ることができないだろうと思っていたため防御をあまりしていませんでした。ナチスは戦車を用いてその森を突破し、不意をつかれたフランス軍はまともに闘うこともできず、あっという間にフランスは占領されてしまうことになります。

 そして、1940年から1944年までフランスはヴィシー政権という政権のもとに支配されることになります。主席を務めたのはペタンというフランス人ペタンは第一次世界大戦のヴェルダンの戦いで大活躍した当時のフランス人ならだれもが知る英雄でした。そのため国民は皆、「あのペタンなら大丈夫だろう」と期待と安心を持って新政権を出迎えましたが、残念なことにこの政権はフランスを占領したナチスの傀儡政権(つまりナチスの言いなり)だったのです。

 このヴィシー政権の期間、フランスでは、アメリカ映画など様々な外国映画が輸入できなくなってしまいました。そのため、1940年~1944年(完全にすべて見れなくなったのは1942年だったと思う)に作られたアメリカ映画を当時は見ることが出来なかったのです。もちろんその間もアメリカ映画は急速に進化していました。

 これらの進化をフランス人が知るにはフランスが解放される1944年を待つしかありませんでした。言い換えれば、1944年フランス解放にともない、フランス人は今まで禁止されていた1940年~1944年に製作された数多くの進化したアメリカ映画を突然いっきょに目にすることになったのです。

 では、知らぬ間に進んでいたアメリカ映画の五年分の進化をいっきょに見せつけられた当時のフランスの映画ファンは何を思ったのでしょうか? アメリカ映画に起きた変化分析しようとしたかも知れませんし、より一層アメリカ映画にはもう勝てない!と思ったかもしれません。このような文脈のなかでフィルム・ノワールという言葉は戦後使用されたため、フィルム・ノワールという言葉はアメリカ映画にしか使われないようになったのです。

③ドイツ映画人大移動

 もちろん、アメリカ映画の急速な発展をいっきょに目撃したことによって芽生えたフランス映画このままじゃやばいんじゃないか!っていう不安や焦りだけでは、フィルム・ノワールという言葉を、戦中製作されたアメリカ映画に使ったことは説明できません。

 ちなみにここで思い出してほしいのは、この時点ではまだ、フィルム・ノワールという言葉が戦前のフランス映画(特に詩的リアリズム作品)に対して右翼が言った悪口だったということは忘れられていないということです。そのため必然的に、フィルム・ノワールという言葉には、悪口を言われていたフランス映画(=詩的リアリズム作品)という意味があることになります。すなわち、この時点ではフィルム・ノワール=詩的リアリズム作品と考えてもらって問題がないということです。

 そう考えれば、「アメリカ人もまた『暗黒』映画を作る」という論考のタイトルの『暗黒』映画とは詩的リアリズム作品を指していることになりますよね。つまりここまでの議論を念頭に置くと、このタイトルは、「占領されてるうちにアメリカが、戦前フランスが作ってた詩的リアリズム作品のような映画を作れるようになってしまってる!」という意味だということが理解できるのです。ではなぜフランス人はそう思ったのか? それはつまり、戦前の詩的リアリズムとアメリカ製フィルム・ノワールは実は似ているということなのです。では、似ているとはいったいどういうことなのでしょうか?

 これは非常に簡単な話です。詩的リアリズムもアメリカ製フィルム・ノワールも両方とも、ドイツからやってきた人々によって映像が作られていたため、シンプルに映像が似ていたということだけなのです。そのため、両方ともドイツ表現主義(1920年代に世界的に流行ったドイツ流の映画表現)の影響にあり、映像がちょっとばかしぱっと見似た感じになってしまったのだろうと思われます。

ドイツ表現主義の代表的作品『カリガリ博士』(1920)。演出で影が効果的に使われたり、明暗のコントラストが強調されてたりする点で、フィルム・ノワールや詩的リアリズムと共通点があるのがわかります。

 じゃあなんでドイツ人がフランスやアメリカに行って映画を作ったのかっていうとそれも簡単な話で原因はナチスです。
 1930年代あたりはまだフランスに逃げる人が多かったのでしょう。そんな彼らがフランスで作ったのが詩的リアリズムと呼ばれる作品です。
 1940年代に入るとフランスも占領されちゃったし、頑張ってアメリカまで逃げる人が多くなったのでしょう。彼らがアメリカで作ったのがフィルム・ノワールです。だいたいこんな感じの理解でいいかと思われます。だから詩的リアリズムとフィルム・ノワールが多少似てても当然なんです。

 これら三つの背景により、フィルム・ノワールという言葉は、1940年代にアメリカ映画に起きた変化を論じあうときに用いられる批評ワードとして使われるようになりました。そして、その延長線上でジャンル名として使用されるようになったためフィルム・ノワールという言葉はついにアメリカ映画にしか使われない言葉になったのです。

 ここで少し寄り道します。というのは、詩的リアリズムフィルム・ノワールの違いをもう少し明らかにしたいからです。

6.詩的リアリズムとフィルム・ノワールって違いあるの?

・詩的リアリズム編
 まず、先に説明するのは詩的リアリズム。右翼から暗黒映画!とののしられたことでも有名なこれらの作品たちは実は日本ではとんでもない大人気。当時の『キネマ旬報』の映画べスト10には、毎年のように詩的リアリズム作品が上位にランクインしてました。
 こちらの作品は、フランス演劇の伝統の影響が大きいことで知られています。そのためセリフは詩的で凝っていて美しく、何よりも脚本を重視して制作されていました。
 これらの詩的リアリズム作品のシナリオ重視の考え方は戦後、若い映画ファンに痛烈に批判されます。そして生み出されたのが一世を風靡した”ヌーヴェル・ヴァーグ”だったのです。

・フィルム・ノワール編
 かつてアメリカ映画はA級映画とB級映画を完全にわけて製作していました。というのも当時は二本立て興行(つまり映画は二本抱き合わせで上映されてた)が主流であったため、効率性のために、メインの映画(=A級映画)を作る生産ラインとサブの映画(=B級映画)を作る生産ラインを作り、それらを抱き合わせて販売していたのです。
 フランス人にフィルム・ノワールとして評価されたのはもっぱらB級映画として安価で製作されたものでした。
 B級映画の製作をさせられていたのはドイツをはじめとするヨーロッパから来た移民の映画作家たち。彼らは一発逆転の名作を作り出すことでA級映画作家へ出世することを夢見ていました。そのために彼らが打ち出した作戦が、A級映画との差別化だったのです。
 当時、アメリカの映画産業はヘイズコードという自主規制のルールが定められており、性描写・愛情表現や犯罪描写において厳しい制約が課されていました。出世を夢見る移民映画作家はA級映画との差別化のためこのルールに果敢に挑戦していきます。
 影で表現される殺人や、メタファーで表現される性描写、複雑なストーリー。こういったフィルム・ノワールに見られる特徴は彼らの工夫の表れだったのではないかと現在では考えられているのです。

7.フレンチ・ノワールって何?ーーメルヴィルとベッケルーー

 それでは本題に戻りまして最後の謎に取り掛かります。それは、 

 フィルム・ノワールという言葉はなぜ1940年~1950年後半という限られた期間に作られた映画にしか使われないのでしょうか?

といった謎でした。この謎は少々厄介です。ちなみに、はじまりの1940年というのはナチスに占領された年という意味で間違いないでしょう。それはこれまでの文脈を見れば明らかです。それでは終わりの1960年というのはいったいどういった意味があるのでしょうか?

 この謎に取り掛かる前に、一つ重要な謎に取り掛かりたいと思います。それは、フレンチ・ノワールについてです。そのとはいったいなんなのでしょうか。その前にフレンチ・ノワールが何者であるかを軽く説明したいと思います。

 フレンチ・ノワールとはフランス人がフィルム・ノワールっぽいものを目指して作った作品のことです。香港ノワール韓国ノワールのフランス版と考えてもらえばひとまず問題ありません。最近では、

これらの作品が話題になりました。どれもギャング、裏切り、復讐、トレンチコートに中折れ帽などなど、いかにもフィルム・ノワールといった特徴がちりばめられています。

 もちろん、これ自体は何もでも何でもありません。今回として取り上げるのはこれらではなく、古典と言われるタイプのフレンチ・ノワールのことです。まずは、こちらをご覧ください。

 まず、上から説明します。上の動画は、『影の軍隊』というジャン・ピエール・メルヴィル監督によって製作された映画の予告です。内容としては、ナチスに占領されたフランスで、懸命にナチスに抵抗する秘密結社(=レジスタンス)を描いた作品になります。確かに、服装や映像の雰囲気はフィルム・ノワール的かもしれませんが、この作品には刑事や探偵やギャングは一切出てきません。ストーリーもどっちかというと実録もののようなリアリティー重視の作品となっています。が、一般的にこの作品はフレンチ・ノワールの名作として語り継がれており、メルヴィル自身もこの作品をフィルム・ノワールとして制作したと公言しています。でも、やっぱりどうもフィルム・ノワールっぽくないなあと引っかかります。

 下の動画は『』というジャック・ベッケル監督によって製作された映画のサンプル映像です。内容としては、ある牢屋に放り込まれた若者が、その牢屋の古参メンバーが計画していた脱獄計画新参者として参加し、脱獄をしようとする脱獄もの。古参メンバーが若者を信用するかしないかが物語の肝となります。こちらもフレンチ・ノワールの名作として語り継がれていますが、さっきよりもさらに奇妙です。いわゆるフィルム・ノワールっぽさは一切ありません。「ジャンルが違うんじゃないか?これはどっちかっていうと『大脱走』とか『ミッドナイト・エクスプレス』と一緒の脱獄映画だろ」と言ってしまいそうになる内容です。つまりここで言いたいのは、

 昔のフレンチ・ノワールって言うほどフィルム・ノワールっぽくなくない?

 というフレンチ・ノワールにはあるということです。それではこのを解くべく、まずはさっきの映画を作った二人の映画作家ジャン・ピエール・メルヴィルジャック・ベッケルの生い立ちを振り返ってみたいと思います。

8.メルヴィルとベッケルは二人とも戦争で痛い目にあった?

 まずは、ジャン・ピエール・メルヴィル、『影の軍隊』を作った方の生い立ちから説明します。彼はなんと、元レジスタンスの戦闘員でした。それも、のちにフランスの大統領になるシャルル・ドゴール率いる『自由フランス』という組織の一員だったのです。つまり、『影の軍隊』とは自身の体験をそのまま映画にしたような作品だったと言えるのです。

 ここで少しレジスタンスの説明をしなければいけません。そもそもレジスタンスとは何であったのでしょうか? 

 先ほども説明した通り、フランスは1940年にナチスによって占領され、フランスは降伏することになります。これによってヴィシーという郊外の保養地(温泉地みたいな日本でいう別府のような場所)にペタン率いるヴィシー政権という新しい政権が作られ、フランスを支配し始めます。しかし、このヴィシー政権はナチスの言いなりの傀儡(=あやつり人形)政権でした。

 その状況に抵抗しようと、一部のフランス人は武力行使(今でいうテロみたいなこと)やビラ配りなどをはじめました。その活動のことをレジスタンスと言います。この活動は徐々に組織化していきました。そんななか、ペタンのかつての部下であった軍人シャルル・ドゴールはBBCというイギリスの放送局を通じて世界中(特に植民地)に存在するフランス人に対して演説を行います。「何が起ころうとも、フランスの抵抗の炎は消えてはならないし、消えることもないだろう」これがきっかけで組織されたのがメルヴィルが所属していた「自由フランス」だったのです。

 こうしてフランスでは解放まで様々な組織によってレジスタンス活動が行われることになります。そして、新たな英雄となったシャルル・ドゴールによってフランスが解放された後も、人々は「俺たちはフランス国民は全員一致団結して占領下でもレジスタンスを続けて敵と戦い続けた!だから我々は解放されたんだ!」と信じ続けることでフランス国民の連帯を保とうとしました。とはいうものの、実際はみんながみんなレジスタンスをしていたわけではなく、ナチス側についた人たちや、スパイのようなことをしていた人も大勢いたと言われています。そのため、戦後まもなくは壮絶なリンチ(これをエピュラシオンと言います)がたくさん行われてしまったのです。それを克服するため「みんながみんな一緒に戦ったんだ」と人々は信じることにしたのです。これをレジスタンス神話といったりします。

 ジャン・ピエール・メルヴィルは、このようなレジスタンスのもっとも攻撃的で過激な戦闘部隊に属していたとされています。彼は戦闘部隊に所属していた際に『白鯨』で有名な作家メルヴィルの名前をコードネーム(偽名)として使用し、その名前を戦後映画監督として活動する際も使用しました。偽名でなければいつ身元を特定され暗殺されるかわからない。そのような恐怖や不安、仲間への疑心暗鬼は『影の軍隊』でも描かれています。

 一方で、ジャック・ベッケルは戦前から師匠のもとで映画制作活動のお手伝いを始めていました。しかし、師匠がナチスを恐れアメリカに亡命してしまったためフランスに残ることになってしまいます。フランスに残された彼は、第二次世界大戦に兵士として参加することになってしまい、さらには戦闘中にナチスドイツに捕えられ、収容所に閉じ込められることになってしまいます。戦後、ベッケルは解放され、ようやく念願の処女作を製作することを許されたのです。

 こうみてみるとジャック・ベッケルの『』も自身のヴィシー占領時代の経験をもとに製作された作品であるとみることができそうです(こちらは明言はされていませんが)。少なくとも、『穴』が戦争時代の記憶を呼び起こすような作品であったことは間違いないでしょう。

 ここで、昔のフレンチ・ノワールって言うほどフィルム・ノワールっぽくなくない?というに立ち返ってみると、当時のフランス人にとってのフィルム・ノワールっぽさっていうのは別のところにあったのではないかと思わされるのです。それはつまりフィルム・ノワールに対して当時のフランス人は無意識に、フランスが占領されていた時代、すなわちヴィシー時代のイメージや雰囲気をなんとなく重ねて持っていたのではないでしょうか? これは一つの仮説にすぎません。ですが、そう考えると、メルヴィルがフィルム・ノワールとして実録レジスタンス映画『影の軍隊』を作ったのも、ベッケルの『』がフレンチ・ノワールとして評価されるのも納得がいくのです。

9.悪女の正体とは?ーートラウマと悪女ーー

 先ほども軽く触れましたが、ヴィシー時代という時代は決して「みんな一致団結してナチスに抵抗していた」ような感動的な時代ではありませんでした。そこには日常的に裏切り密告が横行していました。ここではいくつか印象的なヴィシー時代のエピソードを取り上げたいと思います。

・「魔性の女」リディ・バスティアン
 ヴィシー時代のフランスではリディ・バスティアンという女性が暗躍していたことが知られています。この女性は20才という若さと美貌を生かし、フランスの富豪や権力者を次々に手玉にとるという手法を用いてスパイ活動を行っていました。ナチスからの報酬が宝石であったというところは映画みたいで面白いです。しかし、彼女の活動によりレジスタンス組織の統一という一大事業を成し遂げた重要人物であるムーランという男が逮捕されることとなり、彼は凄絶な拷問のすえに惨殺されることとなったりしました。こういった実績から彼女は大変恐ろしい「魔性の女」として戦後、語り継がれることになります。

・ゲシュタポの貴婦人
 ゲシュタポとはナチスの有名な秘密警察のこと。レジスタンスの摘発と一掃(当然皆殺しのことである)やユダヤ人狩りを仕事として当時はあらゆる人々から恐れられていました。ゲシュタポの貴婦人とはそのゲシュタポの手先となったフランス女性のことです。彼女たちはゲシュタポのレジスタンス摘発を手伝うことで、有力者に取り入り贅沢三昧を尽くしたとされています。ときに、彼女とその仲間たちは、金のために残虐な拷問を行うことすらありました。

・物資買い付け事務所
 ゲシュタポの手先は、当然女性に限りませんでした。男性たちも恐怖や自らの欲のためにゲシュタポの手先となり、レジスタンスへの拷問の手助けや情報収集を行っていました。彼らは、何の変哲でもない物資買い付け事務所を隠れみのとして使い、ときにはレジスタンスのために物資を調達しつつ、一方で、レジスタンスへの拷問を自らの手で行っていたとされています。また、正義の側と思われがちのレジスタンスメンバーも、裏切り者と推測されるフランス人を暗殺・殺害したりあるいは拷問に近いことをしたりすることは日常的にあったと思われます。

 また、一部のフランス人は当時、ナチスによるユダヤ人大虐殺に加担していたという事実もあります。

 このようにヴィシー時代のフランスは、裏切り拷問など非道徳的な行動が日常的にあちこちで行われていて、誰が敵で、誰を信用すればいいのか、誰ひとりとしてわかる人がいないという地獄のような状況でした。このような状況は女性であれ、男性であれ、子供であれ大差なかったでしょう。ヴィシー時代の普通の人たちの不安や不信はメルヴィルの『モラン神父』という映画でも描かれています。

 これらの時代の経験の記憶はフランス人の脳に深く強くトラウマとして刻まれました。これらのトラウマのことを歴史学の世界では「ヴィシー症候群」「ヴィシー・シンドローム」といったりします。これらのトラウマから逃れるためにレジスタンス神話が作られ、今に至るまで続くフランスの歴史修正主義問題につながるのです。(ちなみに今フランスで人気の極右政党「国民戦線」はレジスタンス組織の名前が由来となってます)

 こういったヴィシー時代のフランスは、フィルム・ノワールで描かれたギャングの世界に大変似ているような気がしませんか? 裏切りや密告、拷問や処刑は、ギャングの世界であれば、現代であろうが、アメリカであろうが、はたまた日本であろうが変わりありません。

また、フィルム・ノワールにおける悪女の正体もわかってしまいました。それはつまり、このヴィシー時代にスパイとして暗躍したような悪女のことを表しているのです。というのもフィルム・ノワールでたくさん描かれた悪女なんかまさにヴィシー時代の裏切り者の女性たちと言えるのではないでしょうか? フィルム・ノワールを見て、当時のフランス人が「魔性の女」を無意識に連想していたとしてもおかしくないでしょう。
 このように、アメリカ製フィルム・ノワールにはヴィシー時代のフランスを思い出させるようなモチーフや特徴が数多くあるように思えてくるのです。

10.最後に

 フィルム・ノワールという言葉はなぜ1940年~1950年代という限られた期間に作られた映画にしか使われないのでしょうか?

 トレンディードラマの場合は、バブルの記憶と密接にかかわっているからという理由でした。では。フィルム・ノワールの場合は何の記憶なのでしょう。それはもうお分かりだと思いますが、おそらくヴィシー時代の記憶が密接にかかわってているというのが答えになるのだと思われます。

 言い換えると1950年代後半にフランス人のヴィシー時代の記憶が薄れていったあるいは修正されてしまったので、フランス人はそれ以降のアメリカ映画を内容にかかわらずフィルム・ノワールとして見ることができなくなってしまった(なぜならフィルム・ノワールにはヴィシー時代の記憶を呼び起こすような作品であるという意味が無意識に含まれていたから)ということになるのだと思います。

 それでは、本当に1950年代後半にフランス人はヴィシー時代の記憶を忘れてしまったのでしょうか? これについては実は、先ほど書いたヴィシー症候群についての研究ですでに明らかにされています。

 この研究成果によれば、1944年~1954までの時期はフランス国民ひとりひとりがきちんとヴィシー時代の記憶を持っていたが、1953年ペタン)の大赦が行われたことがきっかけで、1954年~1971年までの期間を経てヴィシー時代の記憶はどんどん忘れ去られ、あるいは抑圧されていったとされています。ドンピシャといえば大袈裟かもしれませんが、1950年代後半という時代は必ずしも的外れではないと言えるのではないでしょうか?

 以上で、フィルム・ノワールをめぐるは一通り解くことができました。これを読んでフィルム・ノワールが気になったよ!って人がもしいましたら冒頭の作品に加えて、『緋色の街/スカーレットストレート』『幻の女』『ガス燈』『レベッカ』はとってもおすすめです。そして何よりも、

『サンセット大通り』がとにかく面白い!!!!!!

是非みていただければと思います!

(今はこっちで執筆してます)

11.参考文献

・中村秀之(2003a)『映像/言説の文化社会学 フィルム・ノワールとモダニティ』、岩波書店.
・中村秀之(2003b)「『フィルム・ノワール』の名において?--映像/言説・再考」『iichiko』102、pp.69-79、日本ベリエールアートセンター.
・中村秀之(2009)「少数報告(マイノリティ・リポート)は存在するか」『現代思想』31(8)、pp.76-93.
・中条省平(2003)『フランス映画史の誘惑』、集英社新書.
・野崎歓(1995)「映画を信じた男―アンドレ・バザン論」『言語文化』(32)、pp.23-42、一橋大学語学研究室.
・宮川裕章(2017)『フランス現代史 隠された記憶』、ちくま新書.
・小田中直樹(2018)『フランス現代史』、岩波新書.
・渡邊啓貴(1998)『フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ』、中公新書.
・渡辺和行(1997)「現代フランス社会と戦争の記憶」『香川法学』17(2)、pp.233-265、香川大学法学会.
・坂本季詩雄(1998)「四〇年代五〇年代のアメリカ的時代精神の反映としてのフィルム・ノワール」『FB:映画研究誌』27(6)、pp149-157、行路社.
・遠山純生(1999)「序にかえて~フィルム・ノワールとは何か?」『Film noir フィルム・ノワールの光と影』、pp.4-9、エクスクァイア マガジン ジャパン.
・野口久光(1954)「飾窓の女」『キネマ旬報』(68)、pp.50-51、キネマ旬報者社.
・岡俊雄(1953)「深夜の告白」『キネマ旬報』(78)、pp.53-54、キネマ旬報社.
・江藤文夫・丸尾定(1962)「穴――ジャック・ベッケルの姿勢」『キネマ旬報』(307)(1122)、pp55-57、キネマ旬報社.
・園山水郷(2015)『性と検閲:日本とフランス映画検閲と女性監督の性表現』、彩流社.
・加藤幹朗(1996a)『映画ジャンル論:ハリウッド的快楽のスタイル』、平凡社.
・加藤幹朗(1996b)『映画視線のポリティクス:古典的ハリウッド映画の戦い』、筑摩書房.
・ジャン・デフラーヌ(長谷川公昭訳)(1988)『ドイツ軍占領下のフランス』、白水社.
・ジャン=ミシェル・フロドン(野崎歓訳)(2002)『映画と国民国家』,東京大学出版会.
・ジャン=リュック・ゴダール(奥村昭夫訳)(1982)『ゴダール/映画史<1>』、筑摩書房.
・ポール・シュレイダー(細川晋訳)(1999)「フィルム・ノワール注解」『Film noirフィルム・ノワールの光と影』、pp.10-31、エクスクァイア マガジン ジャパン.
・ポール・カー(細川晋訳)(1999)「どのような過去から逃れて?B級フィルム・ノワール注解」『Film noir フィルム・ノワールの光と影』、pp.32-59、エクスクァイア マガジン ジャパン.
・ジャン=ピエール・メルビル(訳者不明)(1970)「大いに語るJ.P.メルビルーー『影の軍隊』とレジスタンス体験(対談)」『映画評論』27(6)、pp49-52、新映画.
・アネット・インスオーフ(和泉涼一・二瓶恵訳)(2013)『フランソワ・トリュフォーの映画』、水声社.
・J-P.シュヴェイアウゼール(平岡敦訳)(1991)『ロマン・ノワール―フランスのハードボイルド―』、白水社.
・J=F・ミュラシオル(福本直之訳)(2008)『フランス・レジスタンス史』、白水社
・M・アルヴァックス(小関藤一郎)(1989)『集合的記憶』、行路社
・アルベール・シャンボン(福元啓二郎訳)(1997)『仏レジスタンスの真実』、河出書房新社.
・ロバート・O・パクストン(渡辺和行・剣持久木訳)(2004)『ヴィシー時代のフランス』、柏書房.
・Palmer, R.Barton.(1994),Hollywood’s Dark Cinema : The American Film Noir,Twayne Publishers.
・Raymond,Borde.&Etienne,Chaumeton.(Paul Hammond訳)(2002),A Panorama of the American Film Noir,City Lights Publishers.
・Bertram, M. Gordon.(1995),”The ‘Vichy Syndrome’ Problem in History”, Frenchi Historical Studies, Vol19, No.2, pp.495-518.
・Altman, Georges.(1939),”Le Jpur se leve, une oeuvre noire et pure”, La lumiere,
6.16,pp5.
・Mezzanine,(1939),”La Semaine a l’ecran: Le Drnier tourunant”,Marianne, 5.31,pp21.
・Chartier, Jean-Pierre(1946),”Le Americains aussi font des films ‘noirs’”, Revue du cinema, no.2,pp67-70.

筆者:とび
学生映画企画『追想メランコリア』の脚本担当。今はジャック・ドゥミによる『ベルサイユのばら』の実写化について調べてるのでそろそろそれについて書きたいなと思ってます。


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