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泡もはじけて

 先日、実写版『リトル・マーメイド』を観た。監督のロブ・マーシャルは、人魚伝説を追うカリブの海賊たちを描いた『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』を手掛けており、今作でも1989年の原作アニメーションに大胆な海洋アドベンチャーのエッセンスが加えられている。作中の音楽シーンも贅沢なオーケストラで翻案され、ラップミュージックを加えた「スカットル・スクープ!!」をはじめとして、意欲的な新曲も複数追加された。何年か前に、水の精にまつわる映画や文学に色々と触れていたのと並走して*1、幼少期にほとんど観ることのなかったディズニー作品を追っていた時期がある。その時、二つの関心どころの交差点として、アニメ『リトル・マーメイド』に非常に感動した経験があった。今回の実写化は、思い出はないが思い入れはある作品が原作ということもあり、いくつか興味深い点があったので、そのことについて書いてゆこうと思う。

■ “美しい声”と“美しい顔”

 最初にスクリーンで実写のアリエルを観た時、いわゆるハリウッド映画などにありがちな圧倒的な美人というよりは、相対的に普通の容姿という印象を受けた。そんなアリエルは、陸地に上がってエリックに近づくためアースラと契約して足を得るのだが、代償として声を失うことになる。当然原作に従った展開ではあるけれど、ここで私は、以前話題になったあることを思い出さずにはいられなかった。数年前にキャスティングが発表された際、アリエル役をバイレイシャルのハリー・ベイリーが務めるという点が大きな議論を呼んだ*2。これに対して監督はインタビューの中で彼女の「歌」をキャスティングの主な理由の一つとして挙げた*3。加えて言えば、日本版ポスターの野暮なキャッチコピーは「運命を変えるのは、私の音色」である。しかし、その「歌」「声」「音」は、物語の中盤で失われるのだ(モノローグ的な場面としては何度か登場する)。すなわち、外見によってキャンセルされかかった役者を擁護するために言及された「歌」のない状態で、ヴィジュアルな表現のみによって、エリックとの関係の中でアリエルが魅力的であることが、説得力を持って描かれなければならないのである。

 特に象徴的であったのは、後半、二人の関係を阻むために、アースラ扮するヴァネッサが登場する場面。ヴァネッサは、アリエルの「歌」によって海辺でエリックを誘い、その後、婚姻の場でその姿をスクリーンに見せるのだが、ジェシカ・アレクサンダー演じるヴァネッサは露悪的なまでに美しい白人女性の姿をしている。事実、レビューサイトの投稿でも、キャスティングに関して否定的な感想の中にはヴァネッサについて肯定的に言及しているものが散見される*4。また、作中で言及されることはないが、エリックが自分の命の恩人として探し求めていた「幻の女」は、歌声だけではなく、その容姿も彼の理想を体現していたのではないかと思う。

 しかしそれでも、エリック、ひいては観客であった私にとっては、普通の容姿で、かつ歌声すらも奪われたアリエルのほうが、ヴァネッサと比べるまでもなく魅力的に映った。物語としては、好奇心への共感による二人の交流の充実によって説明されるものであろうが、それ以上に、ふとした仕草や表情といったヴィジュアルな表現の積み重ねによってアリエルの魅力が十二分に表現されていると強く感じられた。また。素直さやあどけなさ、無知さ、好奇心、溌溂としたさまは、時に過度にエキゾチックでイノセントな理想としても描かれがちだが、本作では周到にそういった過剰さが回避されていたように思う*5。アリエルとヴァネッサの対照的な描かれ方は、ルッキズムへのアンチテーゼなどと言ってしまえば単純だけれど、目付け役のグリムスビーが「目の前のことが重要」と助言するとおり、作中でエリックが妄執した理想の結実もアリエルに象徴される現実の豊かさには及ばないのである。この点が、今作において大いに驚かされ、とりわけ素晴らしいと感じた点だった。

 また、ヴァネッサが「美しい声」と「美しい顔」によって誘惑するというのは、ウンディーネや人魚姫といった「水の女」の系譜に連なる伝統的な設定である*6。かつてドラァグクイーンから着想されたアースラというキャラクターは*7、今作においてそのような歴史的な記号を用いて社会的に規定された理想の姿の典型を示すわけだが、ひるがえってそれはアースラの持ち出す理想自体が旧弊的な夢のかたちに留まるものであることをも暗に示していると思えた。

■ 最果てからの航海

 本作では様々な、いわゆる「ポリコレ」的要素が散見される。主人公のハリー・ベイリーのキャスティングはもちろんのこと、ヴァネッサ役のジェシカ・アレクサンダーはバイセクシュアルを公言しており*8、セバスチャンの声優は黒人、スカットルの声優はアジア人が務める。『アンダー・ザ・シー』の場面で振付とダンサーを担当したアルヴィン・エイリー舞踏団は、黒人の人々にとって伝説的な存在である*9。楽曲は原作版の歌詞に細かな修正が加えられている。作中においても、人魚たちは複数の人種によって構成されており、エリックの母である王妃は黒人、アリエルはコルセットやヒールを脱ぎ、馬車の手綱や船の主舵を握り、アースラに奪われた声が収められたペンダントを床に叩きつける。そもそも公開日はプライド月間である6月を目前にした5/27である(日本では6/9)。このような多様性への配慮は、特定のどれかが秀でるかたちではなく、各所に散りばめられており、ある種スタンダード化していることがうかがえた。

 思えば、ベルリンの壁崩壊前夜、冷戦末期に公開された原作の『リトル・マーメイド』は、人間の王子と人ならざる存在(実写版では人魚を指してクリーチャーと呼ぶ場面もある)の結びつきを描いた異類婚姻譚であり、当作によって幕を開けたディズニー黄金期と呼ばれる90年代には『アラジン』『ムーラン』『ポカホンタス』といった非ヨーロッパ圏の主人公やプリンセス、『ノートルダムの鐘』の「醜い」カジモドといった、メインキャラクターのマイノリティ化が進められた。ゆえにこそ、時代の写し鏡のように対立した二つの世界の宥和を描き、白人中心のプリンセスものからの脱却を準備した『リトル・マーメイド』を現代でリメイクするにあたって、非ヨーロッパ圏のルーツを抱えた人物がキャスティングされることは原作の意図を尊重した結果であるとも言えるだろう。実写版『リトル・マーメイド』の終盤では、エリックの母である王妃が、「(アリエルは)幻の女ではない本物よ、ただ別の世界の存在よ」といった旨の台詞を口にする。原作の持つ射程や現代性がよく表れた一場面だと思う。

 一方で、NYタイムズのレビューは今作の多様性への目配せに対してかなり厳しい評価を下している*10。日本でも植民地主義が反映されたキャスティングについて話題になったが*11、実際の作中でのそれらのイメージの運用と直接的な言及の乏しさ、白人であるヴァネッサが黒人であるアリエルの声を奪うという配置に文化的盗用の歴史が重なりうること、さらに、アリエルとエリックが二人で航海へと発つラストの場面は、レインボーカラーで構成された家族コミュニティから自分の色を一つ消し、白人の王子に連れられて未知の航海へ乗り出すものとして批判的に言及されている。別の箇所では、本作の表現の数々は過度にユートピア的であり議論の余地がない、アニメ版のカオティックな表現のポテンシャルがなりを潜めているといったことも述べられている。さて、私自身はこれらの批判に対して一定の妥当性は感じつつも、総合的には好意的評価であるがゆえに完全には同意しかねるという印象だった。しかし、ラストの場面については、件のNYタイムズのレビューとは別の意味で引っかかる思いがあった。

 今作は、海と陸の様々な人々に見送られながら、アリエルとエリックが航海へと乗り出すというかたちで締めくくられる。二人を見送る人間と人魚には様々な人種が含まれており、スクリーンに映されるそれらの人々はなんとも言えぬ表情でこちらを見つめてくる。喜びでも、悲しみでも、怒りでもなく、もっとニュートラルで、その感情を一元的には理解できないような、スクリーンの向こう側の観客にまなざしを送るためだけに差し向けられた、そんな表情である。今作における最初の海中の場面は、コーラル・ムーンと呼ばれる特別な時期に、七つの海に暮らすトリトンの娘たちが一堂に会するというものだった。先述のとおり、アリエルの姉たちは原作とは異なる名前で、かつ、全員が異なる肌の色をしている。コーラル・ムーンは今作で加えられた新しい設定であり、ラストの場面と共に本編を挟むかたちで、多様性の源としての「海」というイメージを印象づけている。

 私が引っかかりを覚えたのは、このような地球規模での連帯の思想の果てに「始まり」を担うのがパートナーシップであるという点だった。『アナと雪の女王』シリーズの二作では、アナの恋愛に対して、エルサの超俗的なあり方が強調されていたが、エルサは解放的であっても人間社会の中にその居場所はなかった(留まりきらないと言えば聞こえは良いが)*12。ディズニーには、このような意味でのパートナーシップ至上主義が通底していると改めて感じたし、多様性が完遂された先に描かれるのが典型的な愛のかたちであることは正当なのかと観た直後は思った。たとえば『ノートルダムの鐘』で、せむし男として煙たがられていたカジモドは、ヒロインとして配置されたエスメラルダと恋愛関係に至ることはできない。しかし、その先の、ノートルダムという街へと承認される*13。このような特定の誰かに寄りかかることのないかたちでの生を示す射程があったにも関わらず、なぜ……と。

 だが、二人の関係は単なるロマンチックラブとして描かれていたのか?そもそもパートナーシップの現れに対してなんとも言えぬ居心地の悪さを感じるのは、典型的な性愛として短絡してしまっているからではないか?そのように自問する自分もいた。

 近年、日本でも関連書籍が数多く刊行され、世界的に人気が高まっている哲学者マルクス・ガブリエルは、ある個人が特定のものや人と出会った際、その認識対象とされるものへの見方や解釈を「見ている人」の心のうちに形作られたイメージではなく、「見られている対象」そのものの新しい現実的・実際的なあり方として捉える「新実在論」を提唱している。ある二人の関係というのは、互いの主観的な想像力によるやり取りに収まるものではない。一方の見方は、他方の現実的なあり様に根本的な意味で介入している/されている。何かを見ることとは、自分の内面にイメージが喚起されるという事態ではなく、むしろ対象である存在の中に巻き込まれるという事態である*14。少なくとも作中において、アリエルとエリックは一方が他方に包摂されているのではなく、二人の不可分な関係そのものの充実として現れていることは確かである。

 また別の観点として、『関係性の美学』で知られるキュレーターのニコラ・ブリオーは著書『ラディカント:グローバリゼーションの美学に向けて』(武田宙也訳、フィルムアート社、2022年)の中で、多文化主義は個人のアイデンティティが生得的なものや土地といったローカルな次元に決定的に割り当てられたものとして扱うと指摘している。その上で、アイデンティティのポータブルな次元、動的なさまに着目し、「旅」や「彷徨」によってグローバリゼーション化した世界の中で都度的な結びつきを打ち立てるコンテンポラリー・アートの実践を評価している。船出の場面を通して示されるのは、性愛としての関係以上に根本的な意味での結びつきでありながら、「男女関係ではなく一人の人間同士の~」といった社会構築的な性の割り振り以前の二者関係へと遡ることを促すような還元的な態度でもないだろう。「人間」なる地平において私たちが平等であるといったメッセージでは全くなかった。社会的な権利の多様ではなく、現実の現われの多様そのものを言祝ぐことで、ただそこにしかない関係が新たな存在として創出されている。

 今年、ウォルト・ディズニー・カンパニーは創立100周年を迎える。この特別なタイミングで公開された実写版『リトル・マーメイド』は非常に野心的なプロジェクトだった。それはまさしく、子供だましではない子供向けの映画として、生を営む場における疎外感や不安を取り払ったその先の「未来」を描こうとしているのだと思う*15。現代社会に苦言を呈するのではなく、はるか先が見据えられている。当然、簡単に賛同できたり共感できたりするものではないだろう。けれどこれまで以上に、いっそう、「来るべき愛」について語り始めているように感じられた。

■ 手向けられた瞳

 本作は、「まなざし」「目線」が印象深く用いられる場面が何度も登場する。特に陸に上がる前のアリエルがエリックを見つめる様子は、分かりやすい「憧れ」のようなものではない。相手に気取られないように注意深く差し向けられた瞳に透けて見えるのは、好奇心、警戒心、不安、ポジティブな感情、緊張感……先述のラストの人魚たちと同じく、その色合いを一元的に理解することはできない。対照的に、原作においてアリエルは「ハンサム」という理由からエリックに惹かれてゆく。一目惚れ、いわば、「目を奪われる」のである。だが、本作ではどうだろう。アリエルは、甲板から身を乗り出して未知の冒険への憧れを語り、燃え盛る炎の中に愛犬のために飛び込むエリックの姿をじっと見つめている。その後、エリックを陸まで運んだ直後に岩陰からその様子をうかがい、身を乗り出して「パート・オブ・ユア・ワールド」を歌うまでの一連のシークエンスでは、身を隠す岩肌をなぞるようにして目線と指先が移動する。「アンダー・ザ・シー」で小さな貝たちのダンスを楽しげに見つめる様子とはまったく異なっている。このようなアリエルの目線は何を意味しているのだろうか?

 本作は、船乗りたちが人魚と勘違いした魚影に向かって囃し立てながら銛を投げる場面からはじまる。作中では沈没船によって被害に遭った珊瑚が元に戻るまで長い年月がかかると語られ、海の世界において、「人間」がいかに暴力的で不信感を向けるべき種族であるかが節々で示されている。ゆえにこそアリエルは、あのような面持ちで一人の「人間」を見つめていたのである。それは「観察」していたとも言えるだろう。「観察」とは、双方向的な目線のやり取りではない*16。不均衡で、一方的にまなざしを向ける、支配的な関係を前提とした行為でもある。だが、この「観察」とは長らく「優位な人間」が他種族や文化的な他者に向けてきたまなざしに他ならない。いうまでもなく人魚とは「見世物」であり、冒頭の船乗りたちがそうしたように捕まえるべき対象である。また、世界史において「見世物」とは他生物に限定されるものではなかった。19世紀半ばから開催されはじめる国際博覧会において、各国は自らの植民地の原住民をパビリオンで展示する「人間の展示」を行うようになる*17。アリエルの「観察」は、かような意味において、歴史的にまなざしを向けられてきたのは誰であったのかということを静かに問い、かつ、そのまなざしの向きを反転させているのだ。

「人間」こそがまなざしを向けられる対象である。先のラストの場面に覚えた戸惑いは、あるいはここにも一端があるのかもしれない。

 単に多様性を徹底するのであれば、アリエルは人魚として、人間とは異なる存在としてエリックと結ばれても良いはずである。かつてウォルト・ディズニーがアンデルセンの『人魚姫』の終わりを書き換えたように。あるいは、『シェイプ・オブ・ウォーター』のような文字どおりの「異類」婚姻譚として描くことも可能であったはずだ。それでも今作は、あくまで「人間」の問題として描くことを選択したのである。歴代ディズニー映画において、自然とは長らくプリンセスという「人間」によって媒介され、共生や宥和の断片が示される対象であった(さらに言えば、大元のアンデルセン『人魚姫』自体が、魂のない海の精が不死の魂を持ち、神の国へと招かれうる人間に憧れを抱く人間中心的な含意の強い作品である)。しかし、今作においてその関係はまなざしの向きとともに逆転されており、まさしく自然の化身でもある人魚が、豊穣な海の側に立つ存在として人間との宥和を図るのである*18。

 最後に一点だけ、まなざしに関して特に印象深かった場面を挙げたい。物語の序盤、アリエルが船縁に取り付けられた脱出用の小舟に乗り込み、歌い騒ぐ甲板の様子を覗き見る場面では、スクリーンにはわずかな隙間から足踏みを繰り返す人間の足が映される。これとよく似た場面が物語の中盤にも現れる。それは、足を得たアリエルが、エリックと共に市場を訪れた際、広場のような場所で人々のダンスを目にする場面だ。カメラは、足踏みを繰り返す人々の足元から駆け上がってゆく。「足」に憧れたアリエルの瞳に映るダンス・ステップの心地よいリフレインだった。


■ 注

*1. 濡れた継ぎ目|https://note.com/tsuimi3/n/n19014ce0e383

*2. 当時、「原作のイメージ」を理由にしたハリー・ベイリーへの批判的な声は、「#NotMyAriel」といったハッシュタグが作られるまでに発展した。ホワイト・ウォッシュならぬブラック・ウォッシュであるとする意見もあるが、そこではしばしば非対称性の問題が見過ごされている。また、劇団四季による公演も検討する必要が出てきそうだ。ともあれ公開前、本作に関して最も話題性のあるトピックであったことは確かである。対照的に、「世界で最も美しい顔」で一位に選出されたこともあるエマ・ワトソンが主演を務めた実写版『美女と野獣』はオープニング興行収入が当時世界歴代6位を記録しており、いまだに世界と日本それぞれの歴代興行収入において上位に位置している程度には広く受け入れられている。※もちろんこの比較は恣意的なものである。今回の実写化は、かつて同様の時期に公開された『アラジン』のそれを上回る興行収入を記録している。以下も参照→ディズニーの実写版「リトル・マーメイド」 黒人のアリエルが巻き起こした議論と感動|https://globe.asahi.com/article/14927041

*3. ‘The Little Mermaid’ Director Rob Marshall On Turning Animated Classic Into Live-Action Summer Disney Musical: Q&A|https://deadline.com/2023/05/the-little-mermaid-director-rob-marshall-halle-bailey-animated-classic-to-live-action-film-1235370539/

*4. 例えば、以下の投稿などを参照。「一方でトリトン・アースラ・ヴァネッサはまるでアニメから飛び出して来たかのようなクオリティーの高さでした。それが返って主人公の違和感を際立たせてしまっているわけですが…」(https://web.archive.org/web/20230615092811/https://eiga.com/movie/97884/review/03048331/)、「文句言わないって言った後にも散々追い文句言っちゃったけど、ヴァネッサの再現率が100%だったこと、グリムズビーが5倍くらいイケオジで粋なキャラになってたところは好きでした」(https://filmarks.com/movies/66996/reviews/155944275)。ヴァネッサのキャスティングへの肯定的な反響については下記も参照→「リトル・マーメイド」実写版、人間に変身した悪女アースラ役のオフショットに反響「完璧なはまり役」|https://www.huffingtonpost.jp/amp/entry/story_jp_647ff0fae4b025003ed9ebf8/

*5. イギリス文学者の北村紗衣は、ボーン・セクシー・イエスタデイ(=成熟した肉体と無垢な内面のギャップによる女性の可愛らしさの演出)と指摘している。以下を参照→サメ、海産物躍り食い触手巨大化タコ女、ボーン・セクシー・イエスタデイ~『リトル・マーメイド』|https://saebou.hatenablog.com/entry/2023/06/14/165333

*6. ドイツ文学者の小黒康正は、ウンディーネや人魚姫といった水の精=「水の女」を系譜的に分析し、自然的脅威の寓意であった時代には「美しい声」によって「陸の男」を誘惑していたが、キリスト教化した中世においては「美しい顔」によって誘惑するようになったと指摘する(『水の女――トポスへの航路』(九州大学出版会、2012年)。今回の実写版でも、ヴァネッサはまず霧がかった海辺で声によってのみその存在を示し、次いで陸地でその容姿が明らかになる。

*7. LGBTQ+史における89年版『リトル・マーメイド』のレガシー、ハワード・アッシュマンの功績を探究|https://front-row.jp/_ct/17623966

*8. 【特集】『リトル・マーメイド』アースラの化身ヴァネッサ役のジェシカ・アレクサンダーって誰?|https://front-row.jp/_ct/17634074

*9. 振付の様子は下記から視聴できる。https://youtu.be/kxTW8b1hkWs

*10. 'The Little Mermaid' Review: Disney's Renovations Are Only Skin Deep.|https://www.nytimes.com/2023/05/24/movies/little-mermaid-review-halle-bailey.html。なお、当該のレビューは「kink(倒錯的な性癖を指して用いられる表現)が欠けている」といった記述が批判されている。以下などを参照→https://www.dailymail.co.uk/news/article-12136677/amp/New-York-Times-slammed-Little-Mermaid-review-bemoaned-lack-KINK.html

*11. 投稿者の意図を超えて拡散され、さまざまな反響があったらしく、現在は記事の最初のリンクが移され、タイトルも消されている。https://note.com/cockatrice/n/na78d1a1979e9

*12. 余談だが、『アナと雪の女王2』はエコロジーの問題が全面化した上で、エルサが街と対立的に描かれた自然へと自らの生の場を求めてゆく。かつては、森の動物たちや彼らと心を通わせるプリンセスといった、擬人化やイノセントさによって媒介的に担われていた自然との関係は、より徹底した他性として描かれる。当作に見られる解放性や力強さは、例えばジブリ映画における共生のイメージや、新海誠『天気の子』において議論を呼んだ巫女の供犠というあり方とは決定的に異なる。

*13. ここからも明らかなとおり、『ノートルダムの鐘』における承認は、内的な問題ではなくそのまま「権利」の問題である。『リトル・マーメイド』においては「足の獲得」がそれを意味する。アースラは最初にアリエルに足を与える存在であるが、それは規範や秩序からのラディカルな逸脱としてなされ、代償として陸と海における言語(=発言という権利)の喪失を伴う。対して、最後にトリトンが足を与えるのは為政者として、すなわちアリエルの逸脱に権利を認めるかたちでなされる。内的な成長や二者関係に重きを置く日本のアニメに馴染み深い身からすると、夢やありのままの自分らしさの実現が権利の問題と不可分であるのはディズニーに特有のものとして感じられる。

*14. マルクス・ガブリエル『アートの力──美的実在論』大池惣太郎訳、堀之内出版、2023年。以下も参照→半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考|https://gendai.media/articles/-/54371?page=1&imp=0

*15. 以下も参照。リトルマーメイドの配役が嫌いだった|https://note.com/yuzuka_tecpizza/n/n3f54976b4247

*16. 哲学者の鷲田清一は、他者と目が合う際の緊張などを引き合いに出しながら、「相手の顔を見る」経験とは、同時に「私の顔が相手によって見られている」という経験が生起し、〈見る/見られる〉の二つの地点が絶え間なく揺れ動く、双方向な関係が成り立っている状態であると指摘する。(『<ひと>の現象学』筑摩書房、2013年)

*17. 西欧列強の帝国主義を手本とした日本でも同様の展示が行われている。以下なども参照→眩暈 ――「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」について|https://relations-tokyo.com/2021/04/30/ichiro-tomiyama/。また、植民地支配者と被支配者の非対称的関係が存在する中での共在を、相互作用的な、即興的な次元から捉える視点として、「コンタクト・ゾーン」の概念が挙げられる。文化人類学者の田中雅一はコンタクト・ゾーンが植民地主義の分析にとどまらない、多所的な射程を持つことを指摘している(コンタクト・ゾーンの文化人類学へ──『帝国のまなざし』を読む|https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~contactzone/repository/001/tanaka.pdf)。

*18. 美術評論家のジョン・バージャーは、動物の目は「慇懃で油断なく見える」が、「動物は人間だけを特別扱いしているわけではない」と指摘した上で、動物園での経験の問題を扱いながら「視線を相手(動物)から返されることのない人間は孤独である」と述べた。(「なぜ動物を観るのか?」『見るということ』飯沢耕太郎監修、筑摩書房、2005年)

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