見出し画像

物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 20 イベリスの話

-イベリス-

 自室のベッドに身体を投げ出して天井を睨みながら、イベリスはカメリアの言葉を反芻する。

ーーお父様と仲良くなれて良かったわね
ーー貴方、あの頃不満の塊だったもの。いいじゃない。結果的にその分今は幸せなのだから

「人々の不満は商売になる、か」
 カメリアのその考えには共感できないが、理解はできてしまう自分が居た。
 屋敷に引き取られる前、イベリスはポハクの中でもそれほど裕福でない人々の暮らす地区で暮らしていた。
 その辺りには今でも古い長屋が立ち並び、その隙間を埋めるように小さな家がひしめいている。中には、天幕の中で暮らしている者も居た。イベリスの育った家は小さな一戸建てだったが、それは母親の生家でもあり、母親が唯一両親から受け継いだものでもあった。しかし母親はそこが思い出の場所だから住んでいたというわけではなく、盲目の女ひとりで長屋の一室を借りることができなかったからというのが主な理由だった。つまりそれは、その近所で好ましくない人間関係ができてしまっても、場所を移るわけにはいかないということだ。
 母親のように個人で石を売る人々は沢山居り、その中には真っ当な商売でない人々も沢山居た。例えば、何かに縋りたい人に向けて「この石には不思議な力がある」と説いて売りつけるような輩は後を絶たなかった。しかし、それに文句をつけようものならば嫌がらせを受ける。見て見ぬふりをして淡々と自分の商売を続けるしかなかった。「うまくやったもの勝ち」とは決して思えなかったが、ある程度仕方のないことだという考えは、幼い頃から根付いていたように思う。
 それなのに、いざ自分が標的になった時にそれを見破れず、まんまと相手の策略に嵌ってしまったことがなんとも悔しい。
「ああもう、こんな日は早く寝るに限る!」
 イベリスは灯りを消すのも面倒くさくなって、そのまま横を向いて目を閉じた。

*****

「また泳いでいたの? そんな所で寝ていると焦げるわよ?」
 目を開けると、先程まで木陰だった筈の場所は日向になっており、代わりに二番目の姉であるカメリアの影がイベリスを覆っていた。
 広大な敷地の中にある誰も使わないお飾りのプールは、イベリスにとって避難所のひとつだった。プールで泳いだ後、近くの木陰で身体を乾かしがてら昼寝をする。昼寝の後、もうひと泳ぎして母屋に戻れば、運が良ければそれで一日が過ぎるし夜も程よい疲労感でよく眠れる。
 「母上」と呼ばなければならない新しい母親は親切だったが、新しい母親に懐くことはすなわち、イベリスの本当の母親を裏切るかのようで、そして、この環境を認めてしまったら、もう本当の母親は戻って来ないのではないかと感じていて、なるべくなら新しい母親とは顔を合わせたくなかった。
 カメリアは血縁的には二番目の姉ではあるが、年も離れていれば腹違いでもあり、育った環境の違うその人を本当に姉だとは思っていない。だからぶっきらぼうに「悪いか?」と返した。
「まあ現実逃避も悪くはないけれど」
 ゲンジツトウヒってなんだろう、と思ったが、聞き返すのも癪なので、話す気は無いという風にイベリスは再び目を閉じた。
 すると、カメリアが場所を移動したのか、顔にかかっていた影が無くなり、まぶた越しにも眩しい太陽がイベリスの目を射る。とてもではないがこのままの場所では再び眠りの世界に入れそうにもない。仕方がなく目を開けて立ち上がったが、それでもカメリアと目を合わせずに木陰へと移動する。目の端に映ったカメリアの顔は、笑いを堪えているように見えた。
「この家は嫌い?」
 この質問も無視したが気を悪くした風はない。それがまた、裕福な家で育った者の余裕に思えて腹立たしかった。
 イベリスはつい半年前まで、母親と二人で慎ましい生活をしていたのだ。それが突然自分だけこのような贅を尽くした屋敷に連れて来られても、どう受け止めれば良いか分からなかった。カメリアは確か成人したばかりで、イベリスとはとお以上も歳が離れている。大きな商家に学びのために入り浸っているらしいが、こうして気ままに屋敷に出没しては、イベリスの気持ちを逆撫でするように声を掛けてくる。その距離感がなんとも気持ち悪く、それならばまだ三番目の姉のように敵意を剥き出しにしてくれた方が距離を置きやすかった。
「暮らしは楽になったでしょう? でも確かにお父様も勝手よね。貴方をお母様に預けてご自分は家に戻って来なくなってしまうなんて。でもね、貴方は知らないでしょうけれど、お父様は賢い方なのよ。何かお考えがあるのだわ」
 カメリアはイベリスの態度などお構いなしに話を続けた。
「お母様は正妻にして唯一の妻だったけれど、三人子供が生まれても、全員女だった。やっぱり男の子が欲しかったのかしらねぇ。でも何も、妾にもならないような女に産ませなくても……」
「母さんのことを悪くいうことは許さない!」
「ふふ。漸く話した」
「……」
「それだけ、貴方のお母様が魅力的だったということなのかしらね」
 ふっとその声に寂しさのような感情を感じて、イベリスは思わずカメリアの顔を盗み見た。カメリアはこちらを見ていなかった。イベリスの側からは逆光になって表情がよく見えない。
 確かに、別にこの人に罪はないのかも知れない、とイベリスは初めてそのことに思い当たった。
 このような裕福な家に生まれて、奇跡的に自分の母親が唯一の妻で、その次女であるという立場で育ってきて、いきなりどこの子かも分からないような男児の兄弟がいると知らされたのだ。被害者と言っても良いのかも知れない。
 そうだ。悪いのは、全部あの父親だという人だ。
 族長という立場を利用して好き勝手に振る舞っている、あの人のせいだ。
 「母上」も、その娘たちも、みんな被害者なのだ。
「この家は嫌いだ。でも、あんたのことは文句言うつもりもないよ。でも、俺に関わっても楽しいことは何もないと思う」
 カメリアは愉しそうにくすくすと笑った。
「どうかな。私は、自分の好きなことは自分で決めるの。やるべきこととは別よ? 好きか嫌いは、権力にかかわらず誰だって自分で決められるでしょう? 貴方にはまだ難しいかしら」
「馬鹿にするな。俺だってそのくらい分かる」
「あら、それは頼もしい。貴方、どんな族長になるのかしらね」
「知らねえよそんなの。大体、このまま継ぐかどうかさえ分からないじゃないか」
「そこは甘く見ない方がいいと思うわよ。お父様がこの家に連れてきたということは後を継がせる気だし、ポハク中の人がそう言う目で貴方を見る。それだけは覚えておきなさい」カメリアは、妙に凄みのある声でそう言い、すっと目を細めた。「これは脅しではなく、忠告よ。何か困ったことがあったらいつでも相談してね。お母様よりは頼りになるかも知れない」
 馴れ馴れしく話しかけてくる割に、引き際はいつもあっさりとしていて、カメリアはイベリスが質問をする間もなく踵を返すと、何者も寄せ付けないようなぴんと伸びた背筋で、女にしては大きな歩幅で歩いて去っていった。
「……なんだったんだよ、一体」
 イベリスは気を取り直してもう一眠りしようと思ったが、気がつくと身体が随分と冷えていて、慌てて布で身体を覆って日の当たる場所に移動した。
 今夜はあまりよく眠れないのではないかという気がした。

*****

 目を開けると部屋の灯りがついていて、時計は半端な夜中の時刻を指していた。
 ああ、そういえば灯りを消すのが面倒でそのまま寝てしまったのだった。
 昔の夢を見た気がする。内容は覚えていなかったが、あまり良くない夢だった。
 昔の夢は、大抵良くない夢だ。母親と居た頃の、子供ながらに幸せな時間を夢に見ることはほとんどないと言ってよい。考えてみれば不思議なことだ。その時間こそ、夢でもいいから再び体験したいというのに。

ーー貴方、あの頃不満の塊だったもの。いいじゃない。結果的にその分今は幸せなのだから

 そうだ。自分は今、幸せなのだ、と思う。
 そう思える自分が、今更ながらに信じられなかった。
 これこそ夢、だろうか。
 古典的だと思いながら腕をつねってみると痛みを感じる。いや、夢は痛みを感じないと言うのは本当か?
「いや、俺は何を考えているんだ。今考えるべきはそんなことじゃないだろう」
 声を出して自分に向かって言ってみると、更に馬鹿馬鹿しくなってきて、溜息をひとつ吐く。
「どこまでいっても道化だなあ、俺は」
 いいんじゃないかな、と言うレンの声が聞こえる。
 これは夢ではない。自分の頭の中に響く声だ。かといって完全に妄想でもない、いつか聞いたレンの声。不思議と、これでいいんじゃないかと思えてくる。
 飲むなら付き合うよ、と言ってくれたレンの言葉を振り切って部屋に籠ったというのに、最後にはこうしてレンの言葉に救われている。結局、こういうのが幸せというのではないか、と思う。
 そうか、自分は今、幸せなのだ。
 「母さん」は、今の自分を見たらどう思うだろうか。きっと、喜んでくれるに違いない。自分の知らないところでイベリスが幸せでいることを、妬むような母親ではなかった。「母さん」については後から知ったことも多かったが、一緒に暮らしていた頃に感じたその感覚は、間違っているようには思えなかった。
 父親は、今、幸せなのだろうか。

ーー貴方、自分とお父様を同列に語っているけれど、お父様の本当のお気持ちを理解しているの?

 またしてもカメリアの台詞だ。こんなに癪に触るのは、イベリスも、カメリアはどこか父親に似ていると感じているからだろうか。
「理解してるわきゃないだろ」
 そう。どう頑張ったとしても、自分に父親の本当の気持ちは理解できない。しかし、少なくとも自分の気持ちは自分で伝えないと伝わらないのだとレンが教えてくれた。
 まずは、イベリス自身の気持ちを伝えるところから始めよう。そう考えたら、少しすっきりした気がした。もしかしたら、それはカメリアにはできないことなのではないか、と多少意地の悪い思いが胸を掠める。
 きっとこれでいいのだ。自分は自分にできることをやろう。
 イベリスは、今度はきちんと部屋の灯りを消して、再びベッドに潜り込んだのだった。


***
天鵞絨色の種子篇21』へ
天鵞絨色の種子篇1へ 


いいなと思ったら応援しよう!

橘鶫TachibanaTsugumi
鳥たちのために使わせていただきます。