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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 17 闇の夢の謎 解

-レン-

 昨日もカリンと族長の話を聞いていたにもかかわらず、レンは時折話についていけなくなった。しかしカリンの様子を見ていると、昨日よりも迷いが無くなっているのが分かる。ヨシュアの家には暖かな陽射しが射し込んでおり、レンは場違いに春を感じた。
「ツツジ様は、アオイ様から闇の話を聞かれた際に、アオイ様が見たという夢の内容をお聞きになっていますか?」
 セダムの話が始まるかと思っていたらアオイの名前が出たからか、ツツジは僅かに眉を顰めてカリンを見詰めた。
「闇を夢に見た、という話は聞いた。その闇に唆されて過ちを犯したと。しかしそれは実際は自分の心の闇だったとも言っていた」
「セダム様も最近、闇が出てくる夢を見るのだそうです」
「……なるほど」
 ツツジは空になったカップに視線を移し、それに気がついたカリンがポットからお茶のおかわりを注ぐ。
「しかも、アオイ様が見たと言われた夢とほとんど同じものだと思われます。城の奥の神殿で、石をすり替える夢なのです。セダム様がアオイ様の夢をご存知だとは思われません。そしてセダム様は神殿の様子はご存知ないはず」
「お前の現在の見解は?」
「小さな頃に経験した大きな心の傷は、なかなか完全に消えるものではありません。セダム様は、以前事件を起こしてしまった際も、闇の夢を見ておられました。闇は自分の味方なのだと、それを支えに生きてこられたのです。ですから、今でも何かのきっかけで闇の夢を見ること自体は不思議ではないかも知れません。ただ現在は、セダム様ご自身に、闇の夢を見なければならない程の不満があるというご認識が無いことと、何故神殿の夢なのかが考えなければならない点です」
 カリンはそこで少し言いにくそうに言葉を切り、ツツジの様子を伺ったが、ツツジは反応せずそのまま続きを待っていた。
「これまでセダム様のお話を伺った限りでは、あの……ご家族のご期待に応えなければならないというのが、一番のご負担に思われました」
 ツツジはカリンをじろりと一瞥し、まあそうだろうな、と言ってお茶を飲んだ。今度はカリンがツツジが口を開くのを待つかのようにツツジの顔を静かに見詰めている。束の間の沈黙に、それぞれがカップを扱う音がやけに大きく聞こえた。春の陽射しは相変わらず穏やかな明るさでそこに在った。
「リリィが上級官吏の娘であった話はしたな?」
 ツツジの言葉に、カリンは少し緊張した面持ちで頷いた。
「あれは昔から局長の妻になることだけを教え込まれ、そのとおりに暮らしてきた。現局長は皆年齢が近いが、当時の様々な事情からたまたま私に白羽の矢が立った。勿論、現局長が皆まだそれぞれ室長になるかならないかの時代の話だ」
 当時、将来局長になるだろうと言われていた筆頭はシェフレラだった。本人も優秀であったが、何より当時の法務局長に気に入られており、娘婿にと所望されていたからだ。そういう理由から、リリィとの縁談など考えられなかった。一方のツツジはまだ医務室長ですらなかったものの、当時の医局長の甥という立場に在ったのだった。
 ツツジは局長になることは勿論のこと、政略結婚など考えてもいなかったが、知らぬ間に周囲に根は随分と張り巡らされており、それらを全て、自らを傷つけずに取り除くのは至難の業だった。
 そもそも妻を得ることに興味も無ければ、親しい友人を身近に置くことにすら必要性を感じていなかったツツジにとっては限りなく面倒な話だったが、決断を引き延ばすために仕方なくリリィと会うことにした。
 実際に会ったリリィは想像を絶する人物で、とても狭い世界に住んでいるようだった。しかしツツジにとって利点だったのは、そんな人物だからこそ、ツツジの愛情を欲しなかった点だ。局長の妻になれればそれで良い、とリリィは臆することなく宣言した。
 慎重なツツジは、しばらく様子を見ることにした。しかしその後何度かリリィと顔を合わせても、噂に聞くような面倒な恋愛の駆け引きもなく、愛情表現を求めることも、反対にリリィからそのような態度を示されることもなかった。まるで、ツツジを局長にするための一大計画を実行しているような話ぶりで、ツツジにとっては仕事の延長のようなものに感じられたのだった。
 仕事に熱意のある相方だと考えれば良いのかも知れない、と当時のツツジは考えたそうだ。直系ではないとはいえ医局長の甥だ。多くの軋轢を生みつつこの縁談を断ったところで、この先も同様の話がたくさんあるに違いない。それならば、ツツジにとって最も面倒であった恋愛というものを持ち込まないリリィとの話を受けておいた方が良いのではないかと結論したのだという。
「実際、リリィは私が医局長への道筋を外さない限り私の生活には口出ししてこなかったし、他のものを求められることも無かった。あれはあれで好きに暮らしていた」
 ツツジは一度言葉を切り、初めて陽射しに気がついたかのように目を細めた。カリンは息を詰めてツツジの話を聞いている。
「誤算だったのは、リリィの子供への執着だった。私に対しては向けられることも求められることも無かった愛情が、歪んだ形で息子たちへ向かってしまった。局長の妻になるという最大の幸福を手にしたリリィは、息子たちにとっても局長になることが最大の幸福なのだと信じて疑わない。それを今更変えるのは難しいだろう。息子たちの気持ちを変えてやる方が余程楽で実りが大きい」
「ツツジ様にご相談して正解でした」
 カリンはふっと微笑んだが、ツツジは表情を緩めずカリンを見返す。
「セダムはお前に憧れているのだろう」
「え?」
「リリィはことあるごとにセダムにお前の話を反面教師のように聞かせていた。リリィに逆らえないセダムは、反対に、リリィに楯突くお前のことを英雄視していたのではないだろうか」
「あの……わたくしはそれほど楯突いているつもりは……」
「リリィがそれだけ話を大きくしているということだ」
「理解しました。それに、セダム様が現在ご家庭の中で局長を目指さなければならないという圧力に押されていたとしても、ツツジ様がそのようなお考えであられることが分かりましたので、この先悪い方向には向かないのではないかと思いました」
 ツツジは少しの間、カリンを睨むように見た。カリンは静かにその瞳を受けている。
「セダムは、解離性同一症なのではないかと私は疑っている」
 レンには聞き慣れない言葉だったが、カリンは眉根を寄せた。それから慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「そういえば、セダム様は、リリィ様と居る時にはご自分がご自分のように感じられない、というようなことを仰っていました」
「元々素地はあったのだと思う。罪を犯す以前から、内にそのような激しい感情を持っているとは感じられないくらい普段は穏やかだった。幾ら隠していたとしてもまだ幼い。少しは見え隠れしても良さそうなものだが、あれは人格が入れ替わっていたのかも知れん。そして今は、その激しい人格の代わりに、リリィの前でだけ出てくる人格があるように思う。リリィに従順な、リリィの理想の息子としての人格が。それは今はうまく機能しているように見えるが、いずれお互いにとって危険なものになるだろう。リリィは理想の息子に有頂天になり、その行動は加速する。その分セダムの心には何処かで必ず歪みが現れる」
「今回の夢は、その始まりだと?」
「お前の話を聞いて最初に考えたのはそのことだ。私も、悠長に構えておられん」
「神殿のことはどう考えれば良いのでしょう」
「お前は知らぬことだろうが、局長の家にはそれぞれ城のしきたりに関する分厚い書物がある。局長になる前に引き継ぐものだが、そこに、例の神殿での作法も書かれてある。私の書斎に入れば誰でも読めるだろう」
「セダム様はそれをご覧になった……」
「おそらく、もうひとつの人格の時にな。私が家に居らず、リリィと二人きりの時だろう。リリィならば、局長の心得だなどと言って見せかねん」
 レンが聞いていても、なんとも後味の悪い話だった。病名は聞いたことはなかったが、今の話で大体のことは理解した。つまりセダムの心は、自らを守るために複数の人格を創り出したのだろう。それがひとりの身体の中でどのように共存するものなのかは想像がつかなかったが、想像するだけで気持ちの良いものではないし、そうせざるを得なかったセダムを思うと胸が痛んだ。
「診断はされるのですか?」
 カリンの問いかけにツツジは頷いた。
「もう迷っている時間は無いだろうな」
「診断を下すためにはセダム様を専門の医師に診せなければなりません。そうすればリリィ様にもセダム様にも、これまで無意識に築いてきた歪んだ関係性を見せつけることになります。そのことは、崩壊を早めるだけでは無いでしょうか」
「そう思って私もこれまで様子を見てきた。しかし、セダムの方に崩壊が始まっているのだとすると、手を打つなら早い方が良い。勿論、診断が下ったところで完治はしない病だということも理解しているが……」
 ツツジは珍しく最後まで言い切らずに言葉を止めた。そして今度は意識的と分かる仕草で窓の外の光へと顔を向けた。
 レンはカリンの出番ではないかと思ったのだが、カリンが口を開く様子がないので、隣に座るその膝にそっと手を置いた。カリンは一瞬驚いた表情をしてレンを見詰め、しかし勇気づけられたようにツツジに声を掛けた。
「今の時点まででツツジ様のご期待に添えなかったことは申し訳ないのですが、もう少しだけ、わたくしに時間をいただけませんでしょうか」
「どういうことだ」
「ツツジ様は、セダム様が勘違いにせよわたくしを特別視していらっしゃることをご存知だったので、セダム様が何かわたくしに相談している様子を見て期待してくださっていた。しかし当のわたくしは、そんなことには少しも気がついておらず、ただただセダム様の夢に一緒に引き込まれてしまっておりました。今ならば少し事情が違います。わたくし自身が闇に引きずられてしまわず、セダム様のご相談に向き合えるように思います。ですから、もう少しだけ、診断は待っていただけませんでしょうか」
「策はあるのだろうな」
「必ずうまくいくという保証はいたしかねるのですが……」
「信じよう。いずれにせよ私は無策だ」
「……」
「何だ?」
「あ、いえ、信じていただけたことが俄かには信じられなくて……」
 カリンが本当に驚いた顔をして言うのでレンは思わず吹き出してしまい、ツツジに非礼を詫びなければならなかった。そのままカリンを軽く睨んだが、カリンはレンの視線をものともせず、相変わらず驚いたような表情だった。
「これは賭けだが、全く根拠の無いものには賭けない主義だ。さて、これ以上長居するわけにもいかん。私はそろそろ失礼する」
 ツツジは立ち上がると同時に迷わず工房へ通じる扉へと歩き始めた。レンとカリンは慌てて立ち上がって後を追う。一緒に居るところを他の人に見られる訳にはいかないが、全く見送りをしないということも考えられなかった。しかしあっという間にツツジは自ら扉を開けてしまい、その肩越しに穏やかな表情のヨシュアが見えた。
 カリンがかろうじて、ありがとうございました、と口にし、ツツジが見ているか分からないことを覚悟で二人してその場で頭を下げた。そして、頭を上げる前に扉は閉じられた。

「グローブをひとつお買い上げいただいたよ。万が一誰かに見られていた場合に、ここへ来た口実が必要だと仰って」
 しばらくして部屋に入ってきたヨシュアがそう話してくれた。
「さすがに周到だね」
 レンが返すとヨシュアも頷く。
「採寸をして品物を包んでお渡しするまでに少し時間があったが、無駄な話は一切されなかった。でも最後には丁寧に長居したことを詫びて行かれたよ。さすがに局長ともなると品性を感じるな」
 アグィーラに住んでいても、そうそう局長と接する機会はないのだろう。
 カリンは場所を使わせて欲しいとは話したが、詳しいことは何も話していなかった。ヨシュアも何も訊かなかった。その後三人で遅めの昼食を摂ったが、その時もそれ以上ツツジの話は出なかった。それはきっと、カリンの中で事件がまだ終わってないからなのだろうとレンは思った。

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