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物語の欠片 韓紅の夕暮れ篇 8

-レン-

 結局夕方付近まで族長の家で過ごし、シヴァと二人で族長の家を出た時には雪は止んでいた。
 シヴァの家と族長の家は直接歩いた方が早い距離に在る。家を出たところで別れ、レンはひとりで第五飛行台へ向かった。
 ほとんど一日、シヴァの訓練を見て過ごした。それはそれで面白かったのだが、何となく物足りないものを感じて、訓練場へ寄って行こうと思いついた。もちろん、訓練場には誰も居ない。
 族長の家で暖まっていた身体は、訓練場まで飛ぶ間にすっかり冷えてしまった。手が完全にかじかんでしまう前に背中から弓を取り、適当な的に向かって矢を番える。
 静かな訓練場に、矢が風を切る音が鳴った。
 矢は、狙った的の中心を正確に射た。
 レンは、矢を放ったばかりの自分の右手を見つめる。
 少し前まで思うように動かなかった右腕。
 弓の訓練を再開してしばらくは、違和感との闘いだった。
 それでも矢は何とか的を外す事は無かった。他の人はレンの変化に気がつかなかっただろう。『全く衰えてないな』という者すら居た。
 シヴァやスグリは気がついていたのかもしれないが、そっとしておいてくれた。レンにとってはその方が有難かった。
 レン自身の中には、このまま思うように動かない右腕に合わせていたら、元々持っていたはずの感覚を失ってしまうのではないかという恐怖がずっと在った。それがようやく消えたのは、つい最近のことだ。
 まだ完全に元に戻ったわけではない。
 いっそ、新しいやり方を模索してみようか、そう思いついたからだ。
 もちろん、右腕が普通に動くようになったから、というのもあるだろう。日常生活に違和感はない。ただ、弓を引く時だけ、ほんの僅かな違和感が、今も残っている。その違和感が、退化なのか進化なのか、自分でもよく分からなかった。
 それならば、結局今の自分の最善を模索するしかないではないか。
 以前の感覚に固執している方が、自分の進歩を止めてしまう気がした。

 ふと気がつくと随分多くの矢を放っていて、頭上には明るい月が輝いていた。満月よりも、少しだけ欠けた月だ。
 ここのところ夜は雪が降ることが多かったから、久しぶりに月を見た気がする。
 月明かりに、吐く息が白い。
 レンは地上に降りて、飛行台の手すりにもたれて月を見上げた。
 何となくエルムに会える気がしたのだが、少し待ってみても鳥の影らしきものは見当たらなかった。
 イヌワシの岩まで行ってみようかと思い立つ。
 昼には族長の家でカエデの用意してくれた昼食をたっぷり食べたので、まだ空腹は感じなかった。
 辺りに散らばった矢を片付け、再び飛行台に立つ。月はますます高く、明るい。その明りの中に、向かいの峰の稜線がくっきりと見えた。
 力強く飛行台を蹴って飛び立つと、頬と翼を、切るように冷たい風が撫でる。不思議と寒さはあまり感じなかった。飛んでみたら、自分は動き足りなかったのだということが分かった。
 風を読む。
 暗くて視界が効かない分、昼間よりも風が良く見える気がした。
 風と一緒に飛んでいる。
 どんなに冷たくても、風は味方だ。
 そう。
 昨年のブリザードでさえ、レンにとっては敵ではなかった。
 大雪やブリザードはマカニの村に甚大な被害をもたらしたけれど、それは風そのもののせいではない。冷たい気温と雪雲のせいだ。
 どんな天候でも、風だけを感じていれば、飛ぶのに不自由はない。
 たまに意地悪な風が居るくらいだ。それも、じゃれていると思えばいい。
 イヌワシの岩に着く頃には残っていた雲も晴れ、星空が見えた。
 人があまり来ず、雪かきもされないイヌワシの岩には厚く雪が積もっていて、イヌワシの翼に見える部分はほぼ雪の下に埋まっていた。
 今日はひとりだからと思い、頭に当たる部分へ降り立つ。そこへも随分雪が積もっていたが、他の部分よりましだった。
 レンは身体が雪に埋もれるのも構わず、雪除けの外套ごと雪の中に寝転んだ。
 一面の星空。
 真ん中に少し欠けた月。
 辺りは静かだった。
 自由だな、と思った。
 鍾乳洞の暗闇に囚われていた間も、脱出してからベッドに括りつけられていた間も、右腕が完全に治るまでの間も、ずっと不自由だった。
「そうか。僕は自由を噛みしめたかったのかもしれない」
 声に出して呟くと、自分の声が周囲の雪に反響するように感じた。
 その後にはまた静寂。
 しばらくその静寂を感じてから上半身を起こすと、アルカン湖に映る月が見えた。遠くに見えるあれは、城の灯りだろうか。
 後ろを振り返れば自分の身体の形にくり抜かれた雪。その向こうはほぼ暗闇だった。双子の峰のこちら側には人工の灯りは無い。
 再び、星空を見上げた。
 カリンにも見せてやりたかったな、と思う。
 そういえば、エルビエントほどではないがフエゴでも星がよく見えた。
 もしかしたら今頃、同じ空を見ているのかもしれない。
『闇の謎を解き明かしたいの』
 アグィーラに発つ前に、カリンはそう語った。
 それを聞いた時レンは、そこまで含めて自分たちの宿命なのかもしれないと感じたのだった。
 レンたち四人の化身がもし本当に人柱になる運命で、カリンがそれを救ってくれたのならば、レンたちの運命というものはその時点で歪んでしまったといっても良い。その反動がどこかに来るのではないか、という思いがある。
 もしも、もっと大きな流れの中で、元から生き残る運命だったのならば、生かされたなりの使命があるに違いない。
 レンはこれまでに人柱の件を含めて三度、命の危険に晒されている。
 その都度、生き残ってきた。
 今となっては、なんとなく生かされたのだと感じる。
 先日の件も、最後は自分の力ではなく、エルムに救われた。
 何故、自分は生かされたのか……
 これまで三百年ごとに闇が現れてきたからと言って、今後も同じ頻度とは限らない。人間の暮らしだって変化しているのだ。
 もしかしたら自分たちは、生きている間にもう一度闇に遭遇するのではないか。あるいは、これまでとは違った厄災が、この世界に降りかかるのかもしれない。
 もしそうならば、それをじっと待つよりは、カリンの言うように闇の謎に迫ってみるのもいいかもしれない。そう思えたから、そのとおりをカリンに話した。
 カリンは真剣な面差しでレンの話を聞いていた。そして、『私はそこまで深く考えていなかったけれど、そうなのかもしれないね』と呟くように言った。
 カリンは、フエゴの件が落ち着いたら、先ず族長と話してみるつもりだと言っていた。
 族長は……
 もしかしたら族長は、似たようなことを考えていて、それで早めにシヴァと自分に族長の知識を継承しようと考えたのではないだろうか。いざという時のために。
 そんな思いも頭を掠めた。

 不意に生き物の気配を感じた。
 同時に背後に何かが舞い降りる。
 レンは慌てずに後ろを振り返った。
「君はいつも期待した時には現れなくて、すっかり忘れている時に現れるんだね。僕たちの波長、合っていないのかな」
 月明りに照らされたエルムが、レンの方を向いて首を傾げていた。よく見ると、レンの右腕を見ているようだ。
 レンは右腕を上げてエルムの方に差し出した。
「もう大丈夫だよ。完全に治った。弓を引く時だけ少し違和感を感じるけどね。……君のおかげだ、エルム。改めてありがとう」
 しばらく間があってからエルムが小さく羽ばたき、差し出したままのレンの右腕に止まった。
 レンはこれには驚いて、思わず手を引っ込めそうになったが何とか耐えた。
 エルムが自らレンに触れたのはそれが始めてだった。これまでは、触れさせてくれたことすら無かった。
 呼吸を落ち着けて、ゆっくりと右腕を自分の方へ引き寄せる。今朝シヴァが見せた硬い表情が思い出された。確かに、物凄い緊張感だ。
 右腕を顔の近くに持ってくると、これまでにないほどエルムの顔が近くに在った。黒く大きな瞳に吸い込まれそうになる。
 夜の闇の中で見るそれは、族長の瞳みたいだった。
 左手を上げて頭を撫でようとすると、エルムはおもむろにそれを避け、一度飛び上がってレンの右肩に止まった。
 レンは思わず苦笑を漏らす。
「なんだ。ようやく気を許してくれたのかと思ったのに」
 しかし、右肩に蹲ったエルムの体温が首と頬に温かかった。
「シヴァさんの相棒の灰鷹はいたかはソレルという名になったんだよ」
 レンの方からエルムに触れることは諦め、僅かにエルムの方に頬を寄せてからそう話しかけた。
 いつもながら聞いているかどうかは分からないが、エルムの身体が呼吸に合わせて微かに膨らんだり萎んだりを繰り返しているのが伝わって来る。
 レンは一方的にエルムへの親しみが深まっていくのを感じた。
 もう、このままでもいいんじゃないか、と思う。
 エルムとは、今くらいの関係でも十分だ。
 もちろん、族長からの技術の継承は受けるつもりだ。しかし、それをエルムとの間で実践するのは、今でなくてもいいように思えた。
 いざという時のために、今から学んでおくことが大切なのではないだろうか。
 いざという時?
 いざという時を迎える前に技術の継承が完全に終わっていなかったら、どうなるというのだろう。
 レンは小さく身震いする。
「この先、何が起こるんだろうね」
 不安を払拭するようにエルムに語りかける。
「寒くなって来たから、そろそろ帰ろうかな」
 実際、雪に触れている部分から、外套越しにじわじわと寒さが染みこんできていた。
「君も一緒に来る? 今日、僕はひとりなんだ」
 尋ねてみたが、エルムはレンが立ち上がると肩からから地上へと降りた。そこで、先ほどレンの身体が震えたよりも大きく身体を震えさせる。これは特に感情から来る身震いではなく、羽根を整える動作だろう。
 エルムはちらりとレンに視線を送った後、マカニの村の方角とは反対に向かって飛び去って行った。ついて来いと言っているわけではなさそうだった。
 レンは小さく息を吐いて、その場で翼を何度か震わせた。身体は冷えていたが、先ほどまでエルムに触れていた部分にほんのりと熱を感じる。
 帰ろう。
 ようやく気持ちが帰宅することを許容し、レンはイヌワシの岩の頭の部分から飛び立った。
 闇は少し濃くなったが、月は変わらず明るく辺りを照らしていた。


 
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