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物語の欠片 韓紅の夕暮れ篇 23 最終話

-カリン-

「闇とは何か、か……」
 暖炉の火を見つめながら、族長が呟く。
 カリンの問いに対しての言葉だ。その日カリンは、診療所を少しだけ早く閉めて、レンとシヴァが訓練場から降りてくる前に族長の家を訪ねたのだった。
「答えはお持ちでなくとも構いません。考えてみたことはありますか?」
「あると言えばある。しかし私の場合、魔物とは何かが先だった」
「魔物……」
「戦士の一番の仕事は魔物を討つことだ。しかし、それは何故なのか」
「魔物を討つ意味、ですか?」
「マカニの戦士になって、戦士として魔物を討つからには、その意味を知らねばならぬと思った」
「人に害をなすから……ではないでしょうか」
 反射的に答えながら、カリンは自分の答えに違和感を感じていた。族長はそのカリンの違和感すらも理解しているという風に、ふっと口元を緩めた。
「昔からそう言われてきた。だが、それは真実か? 実際に魔物に襲われた者は居る。しかし、それは魔物の視点に立ってみれば、魔物にとっての人間も同じだからではないか。人間が魔物に害をなすから魔物は人を襲うのかも知れぬ」
「それは、確かに……ああ、族長様。族長様はやはり凄い」
 闇が世界を覆うのは……それもやはり人のせいなのか。闇の浄化の際、闇にも意思があるということをカリンは知った。いやしかし……
「闇の場合は、少し違うだろう」
「闇にも意思が在ります」
「そう。そなたはそう言うておったな……先に言っておくが、魔物とは何かという謎も、私の中ではまだ解けておらぬ」
「はい」
「だが、私は昔、試したことがある。魔物に触れてみたことがあるのだ」
 カリンは息を呑んだ。
 族長は、まだ戦士になりたての頃、魔物に触れ、わざと傷つけられてみたことがあるのだという。それ以前に、子供の頃にもそれを試みて止められたのだということも話してくれた。カリンの想像した子供の頃の族長は、今と全く同じ、深い深い瞳の色をしていた。
「実際に触れてみた魔物には、感情も意思も在るようには思えなかった。しかしそれならば何故魔物は人を狙うのか。魔物は動物も襲うが、人と動物が同じ場所に居れば必ず人を優先的に狙う。魔物は人を食べるわけではないから本能的な捕食活動とも思えぬが……」
「闇には意思が在るのに魔物には無い……意思を持った魔物が闇? いえ、でもアイリス様には意思が在った……あれは特別なのでしょうか」
「基本形が分からぬし、線引きも難しい。それに、我々人間の思い込みである部分も大きかろう」
「はい……」
 ああ、そうだ。闇や魔物の謎に迫るならば、まずは全ての常識を捨てなければなるまい。これまでカリンが見聞きしてきたものは、全て過去の人間たちが人間たちの感性で創りあげた話だからだ。
「そなたの宿命は、まだ終わっていないのかも知れぬな」
「私……なのでしょうか」
 それまで暖炉の火を見つめながら話していた族長が、カリンの方へ顔を向けて身を乗り出した。表情はいつもの穏やかな族長だった。
 深い深い漆黒の瞳。その奥は見えないけれど、カリンの心を落ち着かせる光。
「そなたひとりで解決せよと言っているわけではない。そなたが、大きな鍵なのだと私は思う」
「鍵……」
「私はこれまで、疑問に思うた上でひとり自問自答するだけだった。しかしそなたは違う。こうして、人や物事を動かす力がある」
「あの、私は動かしているというより、周りを巻き込んでしまっているだけで……」
「それで良い」
 大きな掌をカリンの頭に乗せて言う族長の声を聞いていたら、それ以上の反論は不要な気がした。
「また、少し時が経ったら話をしよう。私も考え続けることにする」
「はい。ありがとうございます。大きな手掛かりをいただいたような気がします」

 族長と話をした日の夜、カリンとレンは二人でイヌワシの岩に座って星空を眺めていた。カリンがフエゴへ行って以来の良く晴れた夜空で、冷たい空気を忘れそうなくらい美しい星空だった。しかし、吐く息は白い。
「この前は月もあったから、今日の方が星は良く見える。この冬のうちに一緒に見られて良かった」
「私も嬉しい」
「でも、族長はさすがだなあ。戦士になる前に、戦士が討つべき魔物の存在について考えるなんて。僕なんか、最初から魔物は討つべきものだと思って弓の訓練を始めたっていうのに」
 ここまで飛んでくる間に、レンには族長との会話について話してあった。
「族長様は私の眼を曇りのない眼と言って下さるけれど、族長様の眼こそ曇りのない眼だと私は思うの。でもね、上皇陛下は族長様の眼は恐ろしくて、私の眼は恐ろしくないのですって。その違いは何なのかしら」
「あまりにも……曇りが無さすぎるのかもしれないよ」
「ああ……」
 そうか。程度の問題か。カリンの瞳が空を映す青い水面、あるいは浅い水の底が見える程度の水だとすると、族長の瞳は澄みすぎていて、光の届かない水底までが見えてしまうのだ。
「この間ね、シヴァさんが『族長の拠り所は何なんだろう』っていう話をしてたんだ」
「族長様の拠り所?」
「うん。例えば僕やシヴァさんは族長を信頼していて、族長が良しと言ってくれれば安心する。でも、族長にはそういう存在が居るようには思えない」
「そう……だね」
「その時僕は考えたんだ。例えばパキラ様はご自分の『我』は無視して、合理的な判断をなさる。ご自分が嫌でも、ご自分の立場が苦しくなるとしても」
「それも解るわ」
「でも族長の場合は、そうでもない気がする。むしろ、何というか……『我』というものが無いようにも感じる……いやそれもちょっと違うな」
 族長に「我」が無い……
 カリンには思い当たる節があった。
「族長様の『我』は、水の底にあるのではないかしら」
「水の……底?」
「そう。以前、族長様が昏い昏い水の底に立っていらっしゃる夢を見たと話したでしょう?」
「ああ、ワイの旱魃の時」
「うん。本当の族長様は……いえ、族長様の一部は今もあの場所に立っておられる。そして、私たちの前にいらっしゃる族長様は、そのご自分の姿すら俯瞰しておられるのだわ。まるで、他人事のように」
「……例え話としては、とてもよく分かる」
「ええ、そう。これは例え話。でも……」
 自分で話しておきながら、カリンは自分の身体がどんどん冷たくなっていくように感じた。
「今は、止めよう」
 カリンの肩を抱いたレンも、微かに震えていた。
「そうだね、ごめん。今日は星空を楽しもう」
「寒いね」
「うん、でも綺麗」
 夜のイヌワシの岩から見えるアルカン湖は、族長の瞳を思わせる。その深淵に直に触れるには、カリンもレンもまだまだ心の準備が十分ではない。
 それからはしばらく二人で黙ったまま星空を見つめていた。
 カリンの心の中には、初めて族長に出逢った日から、マカニで暮らし始めるまでの族長との時間が鮮やかに浮かんでいた。
 カリンと出逢うよりずっと前から、魔物の存在について考えていたという族長。自分はこれまで自分の時間軸だけで族長との関係を考えていたけれど、もっと大きな時間軸の中で、自分と族長は出逢ったのかもしれない。
 そしてカリンは唐突に理解した。あの水底に居る族長は、スズナとの一件があって出来上がったものだと思っていたけれど、それはおそらく違うのだ。族長は昔から今の族長だったし、だからこそスズナとの一件が起こったのだと。だからといって族長やカエデの身に起こったことは変わらないし、何の救いにもならないのだが、それはとても大切なことのような気がした。
 今は族長に救われてばかりの自分だが、もしもこの先に、族長と共に成すことのできる何かがあるならば、カリンは自分の持つ力の限りを尽くしてそれを成すだろう。
 その為に、強くなりたい。
 カリンは初めてレンの気持ちが分かったような気がした。カリンはこれまで、自分が強くなりたいと思った事は無かった。自分は自分でしかあり得ないし、それ以上でも以下でもないと思っていた。誰かがそのカリンを疎ましく思ったとしても、自分自身は変えられないと思っていた。そんな自分でも良いと言ってくれる人たちの好意のもと、自分はここまで来たのだ。
 でも、例えばこの月の無い夜のイヌワシの岩で、暗いアルカン湖を眺めながら族長のことを考えられるくらいには強く在りたい。族長の深淵に、捕らわれてしまわない強さが欲しい。
「強くなりたいな」
 呟いたカリンに、それまで空を眺めていた視線を向けて、レンは微笑んだ。
「珍しいね」
「族長様のことを考えていたら、そう思ったの」
「強さも、色々だよ。僕はカリンは十分強いと思う。もちろん弱いところもあるけどね。でも、自分の弱いところを認めることも強さのひとつだと思うんだ」
「レンの言うとおりだね。ひたすら強くなればいいというわけでも無い」
 それでは強いのではなく、固い心になってしまいかねない。
「それに、ひとりで族長と肩を並べる必要は無いんだよ」
「あ……」
 言葉を詰まらせたカリンに、レンは今度は声を出して笑った。
「カリンの悪い癖だ。何でもひとりでやろうとする。僕たちは、みんなで族長を助ければいいんだ。弱いところを、それぞれ補い合って」
 カリンも可笑しくなって笑った。
「そう……本当にそうだわ。さっきも族長様に『闇の謎はひとりで解決しなくても良い』と言われたばかりなのに」
 どうして自分はこんなにも……
「急がない」
「うん。大丈夫。約束、憶えているわ」
「それならいい」
 急がない。そう、森の主もよくカリンに「時が満ちたら」と言う。
 自分にできることは、時が満ちた時にその時を逃さないこと。その時のためにできるだけの心の準備をしておくことだろうか。
  レンは、自分は何かのために生かされたのかもしれないと言っていた。族長は、カリンの宿命はまだ終わっていないのかもしれないと言っていた。いずれも、可能性の話だ。しかしもし、それが本当ならば、カリンとレンは、大きな流れの中で、これまで出逢った仲間たちと共に、それに立ち向かってゆくのだろう。
 子供の頃、何にでもひとりで立ち向かっていた勇敢なカリンはもう居ない。その代わり、ひとりで立ち向かわなくていいと言ってくれる仲間ができたのだ。クコの言っていた組織の有難さは、すなわち仲間の有難さでもあるのだろう。
 色々な意味で、自分はこれまでの常識を捨てるべきだとカリンは思った。その、新しい眼で見た星空は、これまで見たどんな星空よりも、澄んだ色を湛えているように見えた。


-物語の欠片 韓紅の夕暮れ篇- 了

カリンとレンの物語は「濡羽色の小夜篇」に続く 


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