見出し画像

物語の欠片 韓紅の夕暮れ篇 6

‐レン-

 カリンが建築局のフエゴ行きに同行するためにアグィーラへ発った翌日、マカニでは大雪になった。
 前日でなくて良かったと思ったものの、訓練も、集会所での朝礼も中止になるほどの大雪に、レンはひとりで時間を持て余していた。ちょうど族長に借りていた本も読み終えてしまったところで、新しい本でも借りに行こうかと考えていると、扉が叩かれた。
 自分が族長の家へ出かけようと思っていたことを棚に上げて、こんな日に誰だろうと思いながら扉を開けると、そこにはシヴァが立っていた。雪除けの外套は着ているが、傘は持っていない。その代わりにという訳でも無いだろうが、見慣れないものがシヴァの左肩に在った……いや、居た。
「シヴァさん、どうしたの?」
 シヴァの表情は珍しく不明瞭だった。言葉にも迷いがあるようで、こんな時に訪問したことを詫びた後は、なかなか次の言葉が出てこない。とりあえず中に入るかと問うと、はっとした表情になって首を横に振った。
「いや、すまない。俺はこれから族長の所へ行く。お前も一緒に来ないか? そこで全部話す」
 そう言われたら断れず、何よりも好奇心が勝り、レンは承諾の返事を即答して、外套を取りに一度部屋の中へ戻った。
 シヴァは族長の家までの道のりを、歩いて階段を下るつもりのようだった。レンはシヴァの右隣りに並んで歩いたが、その間、言葉は無い。
 何故かそうした方が良い気がして、なるべくシヴァの方を見ないようにした。ひたすら前を向いて歩くが、大雪は吹雪の体を取り始めていて、あまり視界が効かない。
 こんな日に外へ出ている村人は居らず、辺りは静かだ。見張りの当番の戦士たちも、何も無い限りはそれぞれの所定の見張り台の中にじっとしているだろう。
 午前中だというのに辺りは薄暗く、生き物の気配がしない。
 レンは少しだけ、秋に迷い込んだ鍾乳洞の雰囲気を思い出していた。
 隣を歩いているはずのシヴァは、自分が創り出した幻想なのではないかと思った。

 族長の家の灯りが見えるとほっとした。
 呼び鈴を鳴らすとカエデが出迎えてくれる。大雪のため、今日はホオズキは出勤していないようだ。カエデも診療所へは行かず、こちらで待機をしているらしい。カエデのいつもの穏やかな笑顔が、じわりと胸に沁みる。身体が随分と冷えていた。
「こんな時に、大変だな」
 カエデが声をかけると、シヴァは少しだけ笑顔を見せた。シヴァは雪の積もった外套を慎重に脱いでいた。
「お前こそ。こんな日に来客があるとは思っていなかっただろう? すまないな」
「ここは、いつでもどんな可能性もある場所だ。それに、いずれにせよ夕方にはお前たちを迎えるつもりだった」
 今日の大雪は昨晩から予想されていたので、今朝の族長の家での打ち合わせは事前に中止とされていたが、レンとシヴァは必ず日に一度は族長の家へ行くことになっているので、夕方の打ち合わせは行われるはずだった。
 明らかに想定外の時間に訪れた二人にカエデは理由を訊かず、奥へ通してくれる。族長も来客を予想していたとは思えないが、特に驚きもせずに二人を迎えた。
 僅かにシヴァの肩に視線が動き、口元が緩む。
「話を聞こうか」
 族長に促されて応接用の椅子に腰かけると、カエデが温かいお茶を運んできて、すぐに部屋を出て行った。
「今朝、外出するつもりはなかったのですが、外の様子を見ようとひとりで家を出ました」
 シヴァが口を開く。
 ここに来るまでとは違い、いつもどおりのシヴァの口調と表情だ。
「あまり視界の効かない中、とりあえず家の周りを一周して玄関へ戻ろうとした時、ふと気配を感じたのです」
 それは、殺気のようなものだったという。
 気がついたシヴァは動きを止めず、玄関の方へ向かう足取りを少しだけ緩めると、神経をその気配に集中させた。
 最初は、矢が飛んで来たのかと思った。
 シヴァが頭の位置を少しずらしたその肩の上すれすれを、何かがもの凄い速さで通り過ぎて行った。
 それと同時に気配の位置が変わった。
 飛んできた何かそのものが気配を宿しているとしか思えなかった。
 新手の魔物かと思い、何かが通り過ぎて行った方向に目を凝らすと、そこに、一羽の鳥が居た。見覚えのある鳥だった、とシヴァは語った。
「以前見かけたと言っていた灰鷹ハイタカだな」
「はい」
 族長は席を立ってシヴァの前まで行き、今は左肩に止まって大人しくしている灰鷹をじっと見つめた。
「シヴァを……試したか」
 灰鷹も族長を見つめ返す。
 その時間はほんの僅かだった。
 族長がシヴァの右肩に手を置き「そう固くならずとも良い」と囁くと、灰鷹はシヴァの左肩を離れて族長の部屋の書架の上へと逃れた。
 シヴァは、金縛りが解けたかのように大きくひとつ息を吐いた。レンはまだ身体の芯に冷えが残っているというのに、シヴァの額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「族長、これは……」
「ヤナギは、私が来るのを待っていたようだった」
 族長はシヴァの方ではなく、書架の上の灰鷹の方を見ながら話した。当の灰鷹は、寛いでいるかのように暢気に羽根を繕っている。
「モミジは、ここに来るのが当たり前だというようにそこに居た。……あれは、お前を試したのだろうよ。鳥の方も色々だということだ。しかし、いずれにせよ、我々が鳥を選ぶのだというよりも、鳥の方が選ぶらしい。不思議なものだな」
「やっぱりシヴァさんは凄い。あっという間だったね。僕なんてずっとつかず離れずだよ」
 レンはシヴァが自宅を訪れた時からずっと言いたくて言えなかった言葉を漸く口にしたが、それを聞いたシヴァは苦笑した。
「ちっとも凄くないさ。家の前でしばらくあいつと睨み合って、試しに手を差し出したら腕に止まったんだが、その後どうしていいか分からなくてこのざまだ。さっき族長に触れられるまで、自分の身体が思うように動かなかった。変に刺激して、族長の家に着くまでにどこかへ飛んで行ってしまったらと気が気じゃなかった」
「それなのに、わざわざ僕の家に寄ってくれたの?」
 シヴァの家と族長の家は近いのだ。直接向かえばその心配も薄かったのではないだろうか。一方レンの家は通り道ではないのはもちろんのこと、訓練場の近くだから、随分遠回りだと言っていい。
「なんとなく、お前は一緒の方がいい気がしてな。それで逃げてしまったら、まあ、またやり直すしかない」
 レンは、シヴァのことなど考えず、自分がエルムと仲良くなる方法ばかり考えていたことをそっと反省した。弓にせよ何にせよ、己の技術を磨くことだけに集中してしまう自分は、人としてシヴァの足元にも及ばない。
 族長が左手をすっと肩の高さに上げ、右手の人差し指を唇に押し当てた。
 書架の上に居た灰鷹の身体が一瞬緊張し、やがて降りてきて族長の左腕に止まった。その様子を見て、鴉と灰鷹の大きさがあまり変わらないことに気がつく。おそらく隼も似たような大きさではないだろうか。
「賢いな。名は、どうする?」
「え、名前……ですか? あの、その灰鷹は……」
「そう考えても良いと思うがな。お前を試した後、ここまでついてきたのだ。それに、こうしてきちんと言うことを聞く」
 族長は目を細めて灰鷹の頭を指で撫でたが、レンはそれは族長だからではないかという思いを拭い去ることができなかった。シヴァも同じだったのではないだろうか。
 灰鷹は族長の左の腕に居るが、気を許しているようには見えず、どちらかと言えば族長に従わされているように感じられた。
 族長がその左腕をシヴァの方へ差し出す。
 シヴァは、戸惑った表情をしながらも自らの左手をそこへ伸ばした。
 灰鷹はシヴァの腕へ移り、シヴァを見つめた。
「……ソレル……」
 シヴァが呟く。
「名は、ソレルにします」
「ソレル。良い名だ。伝えてやると良い」
 シヴァは小さく息を整え、真剣な表情になったが、思い直したように表情を緩めて、灰鷹の頭を先ほど族長がやったのと同じように撫でた。
「お前の名はソレルだ。よろしくな」
 解っているのかいないのか、ソレルはシヴァの左腕で首を傾げた。しかし確かに、先ほど族長の腕に居た時よりも、気を許しているようにレンには感じられた。

 せっかく良い機会だから、このまま少しソレルに訓練に付き合ってもらおうと族長が言い、そのまま族長の家でシヴァとソレルの訓練をすることになった。
 カエデが雪の中、シヴァの家まで使いに出る。シヴァの帰りが予定よりも遅くなる見込みで、昼食もここで摂ることになったからだ。
 マオは気にしないだろうが、シュロは文句を言うだろうなと思い、シュロがカエデを気に入っていることを思い出す。案外、カエデの突然の訪問に機嫌が良くなるかもしれない。
 カリンはもうアグィーラを出発してアヒを目指しているだろう。冬でも温暖なフエゴ地方には雪は降らないだろうが天候はどうだろう。道中穏やかであることを祈るしかなかった。
 つい余計なことを考えがちになっていることに気がつき、レンはシヴァの様子に意識を集中させる。いずれは自分もエルムと共に同じことをやるかもしれないのだ。
 やること自体はこれまで習った指笛や動作の復習であるはずだったが、実際に目の前に相手の鳥が居て、鳥の意図もあるとなると勝手は全く違うと言って良さそうだった。これまでもモミジが訓練に付き合ってくれることはあったのだが、モミジは既に族長に慣れていた。人間の意図を汲むことにも慣れていたのだ。
 ただ不思議なことに、ソレルは族長の言うことは最初からよく聞いた。やはり人間の側にも技量というものが在るのだろう。シヴァは、時折族長の手を借りながら、根気よくソレルとのやり取りを深めていった。
「そろそろ昼食にしよう」
 族長が言った時には、室内での訓練にもかかわらず、シヴァは息を切らして汗をかいていた。ソレルの疲労のほどは見た目からは分からない。
「少しだけ、頭を冷やしてきます」
 シヴァが部屋を出ようとすると、ソレルがその肩に止まる。シヴァは躊躇するように立ち止まったが、族長が大丈夫だと声をかける。
「ここまで来れば一度逃げてもまた戻ってくる」
「はい……」
 明らかに左肩を気にしながら出て行ったシヴァを見送ったまま出口の方を眺めていると、族長が口を開いた。
「お前もシヴァも、良い仲間を見つけたな」
「はい……僕はまだまだですが」
「すぐに追いつく」
「はい」
 自分がシヴァに追いついたら……二人が族長と同じ技術を身につけたら、族長はどうするつもりなのだろうか。それは、とてもではないが尋ねることのできない質問だった。
 正午になってもまだ薄暗い窓の外には、相変わらず次から次へと雪が舞い降りていた。

 

***
韓紅の夕暮れ篇1』へ
韓紅の夕暮れ篇7


鳥たちのために使わせていただきます。