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物語の欠片 韓紅の夕暮れ篇 17

-カリン-

 翌朝カリンは、レンと共に少し早めに家を出て、城へ行く前にトレニアの姉の工房付近の様子を見に行った。
 工房地区の朝は早い。ここへ向かって来る途中、すでに工房を開けて作業をしている人々の姿も見えたが、トレニアの姉の工房は閉じられ、人の気配が感じられない。それが、これから何かを起こそうとしているがための静寂なのか、それとも失意によるものなのか、この工房はいつもこうなのか、それすらも分からなかった。
 カリンは軽く溜息を吐き、城へと向かった。
 途中、小さな集団を見かける度に、どれもが抗議のために城へ向かうのではないかと思えてくる。
 レンは、一応形式的にプリムラに直接アキレアの回答を伝えるためと、マカニへ戻った後、族長とシヴァにだけは事実をそのまま報告して良いという許可をもらうために一緒に来てもらった。
 カリンがクコと共にフエゴへ向かうのは明日だが、すでに今回の騒動の犯人は捕らえられている。何か起こるとしても、レンが出て行って何かをするというよりはアグィーラの戦士たちの仕事だろうということで、プリムラに面会したらその後すぐにマカニへ発つ予定だった。
 昨日の時点でカリンが許可を取っておけば良かったのだが、なんとなく、明らかにマカニ族であるレンが一緒の方がプリムラの許可が下りやすいように思えたのだった。
 医局長であるツツジは他の医師も居る医務室の中に自分の席を置いており、誰かと面会する時にだけ専用の小部屋を使っているが、プリムラはそもそもの自分の席を局長に与えられる小部屋の中に置いていた。
 小部屋は窓を除いて天井まで本棚で覆われ、様々な機器も置かれており、さながら研究室のようである。窓を背にするように机が置かれ、プリムラはそこに座って分厚い本を読んでいた。
「おはよう。随分と早いな」
「おはようございます。レンが本日マカニへ帰るので、その前にご挨拶をと思いまして。プリムラ様こそお早いですね」
「家におると色々と煩雑でな。ここが一番落ち着くのだ。それに、皆が出廷してくる時間になるとあれやこれやと指示を仰ぎに来る者が増える。この時間が一番落ち着いて自分の仕事ができるのだ」
「貴重なお時間をいただいて申し訳ありません。すぐに済ませます」
「いや、構わぬ」
 プリムラはそこでようやく読んでいた本から顔を上げ、申し訳程度にしつらえられている応接用の椅子を目で示した。カリンとレンは素直にそれに従って腰を下ろす。
「先に言っておこう。レン殿がマカニに戻ったら族長に報告が必要だろう? マカニ族を借りたのだ。ありのままを報告してもらって構わない。ただし、おかしな噂が広がらないように注意してもらいたい」
 自らは応接用の椅子へは移らず、机に両肘をついて手を組んだ姿勢で僅かに身を乗り出してプリムラは言った。それで本日の面会の目的は果たされてしまったことになり、カリンは一瞬言葉に詰まった。
「……ありがとうございます。それをお伺いしようと思っていました」
「まあ当然だな。で? お前の様子から推測するとアヒの族長の返答も特に問題なさそうだが……」
「はい。明日、アグィーラからの使節を受け入れて下さるそうです」
「それは良かった。レン殿、お手数をおかけした」
「いえ。お役に立てて光栄です」
「あの、ひとつだけお耳に入れておきたいことがあります」
「なんだ?」
 カリンは昨日レンが目撃した工房地区の様子を話して聞かせた。プリムラは想定内であるというように頷く。
「トレニアの沙汰はまだ分からぬが、取り返しがつかなくなる前に問題が解決したこともあり、実害は少なかった。罪は小さくて済むだろう。お前のおかげだ」
「いえ、わたくしは……」
「昨日のうちにシェフレラと話をしてある。司法室も交易室も法務局の傘下だ。抜け目ないシェフレラのことだから、市井しせいへの影響も含めてすでに何か策を考えているだろう。心配することは無い」
「はい」
「話はそれだけか?」
「はい」
 カリンが返事をして退出するために立ち上がろうとすると、朝のひとりの時間を邪魔されて不機嫌かと思われたプリムラは、不敵な笑みを浮かべた。
「お前とはこのような問題ではなくもう少し建設的な議論を交わしてみたいものだ」
「議論……でございますか?」
「そう。例えば、無とは何か」
「無……」
 カリンが思わず考え始めそうになると、プリムラは声を出して笑った。
「いや、今ではない。いずれ、な。私の研究を理解する者は少ない……いや、ほぼ居ないと言っていいだろう。クコが一番近いところに居る。お前も、話くらいなら理解できそうだと昨日の話を聞いて思った。しかし今ではない。ひとまず今日、私はシェフレラと共に王に会わねばならぬ。その後、明日の段取りを説明するために声をかけるから、連絡のつく場所に居てくれ」
「かしこまりました」
「レン殿は、気をつけて戻られよ。……ああ、その翼の秘密も、魅力的な謎のひとつだ」

 捉えどころのない人物だね。と、レンは苦笑してマカニへ戻って行った。
 アグィーラの北門までレンを送ったカリンは、城へ戻って図書室へ向かった。今回は医局の仕事で来ているわけではないので、カリンは基本的に自由だ。
「無とは何か」という先程のプリムラの言葉が頭に残っていた。
 無は闇とは違う。闇は、そこに在る。無は、闇すらない状態なのだろう。
 では、虚無とは何か。虚無とは価値在るものが存在しない状態だ。
 カリンが闇に取り込まれそうになった時に感じていたのは虚無感ではなかったか。自分の存在には何も価値がないのではないかと感じた。このまま存在していても、害を生むだけ……
 無価値、無意味、無力……いずれも、その後に続く言葉がない状態を表す。
 では、ただの「無」とは……?
 すっと背筋が冷たくなるのを感じた。
 地面の感覚が遠のき、足元が覚束なくなる。
 と、図書室の扉が内側から開き、カリンは思わず尻もちをつく形になった。
「失礼……あ……カリンか。すまない。怪我はないか?」
 カリンを助け起こそうと手を差し出したのはアオイだった。
「いえ。申し訳ございません。わたくしも考え事をしながら歩いていて……あの、おはようございます」
「おはよう。また、何か厄介ごとを抱えているのだな」
「はい、あの……」
 まさか、同じく闇に取り込まれそうになったアオイの、あの時の心持ちをこの場で尋ねるわけにはいかないとカリンは考えたのだが、アオイはカリンの戸惑いに別の解釈を加えたらしい。
「何に関わっているとは訊かないから安心してくれ。ただ、あまり無茶をしないように」
「ありがとうございます。アオイ様も。いつも、お忙しそうですから」
「ありがとう。ついせわしなくしてしまうのは私の悪い癖だ。もう少し余裕を持たねばな」
 では、と言ってアオイは急ぎ足で去って行った。
 カリンの鼓動はまだ少し早かった。
 頭の中から「無」を追い出して大きく深呼吸をする。
 図書室の扉を開くと、見慣れたナウパカの顔が在った。
「おはようございます」
「おおカリンか。おはよう。……なんじゃ、朝早いのに一仕事終えてきたような顔をしておるな」
「はい、あの、朝からプリムラ様の所へ伺っていて」
 カリンが答えると、ナウパカは何故か納得したような顔で何度も頷いた。
「なんと、朝からプリムラ様とな。それで、何の議論を持ちかけられたのじゃ?」
「いえ、あの、今、少し建築局のお手伝いをしているので、そのご報告に」
「ほう。今度は建築局か。お前もようやるのう」
「ナウパカ様はプリムラ様とお話しされることがあるのですか?」
「それはもう。知識欲の塊のような方じゃからの。この図書室にある本は、古いアーヴェ語の本を除いて全部読んでいるのではないだろうか」
「その割にはわたくしはここでお会いしたことがありません」
 ナウパカは大きな声で笑う。まだ二人の他に誰も居ない図書室に、その笑い声が響いた。
「とっくの昔に読み終えておるからな。お前がここへ来る前の話じゃ。今は自分であれやこれやと取り寄せておられる。書籍というより、論文というのかの。学者が書いたようなものを欲しがるのじゃが、アグィーラ以外の所と話をつけるのは私の仕事なのじゃよ。まあその話のついでに、次から次へと問答のようなものをしてゆかれる」
 局長ともなると図書室の官吏ではなくナウパカ自らが対応するのかと思ったが、どうやらそれだけでもないらしい。ナウパカは「同期なのじゃよ」とさらりと告げた。
「同期? 官吏の、ですか?」
「そう。局は違うし、プリムラ様の方が幾らか若かったがの。同じ年に城へ入った。昔は官吏としての基礎教育のようなものは局を跨いで合同で行っておったから、今より局を跨いだ知り合いが多かったものじゃよ。まあ、私くらいの年齢になったらもうほとんど同期は残っておらぬがな」
 残っていない分、関係は濃いのかもしれない。
 ナウパカはカリンが子供の頃から、文化局の中で最も次期局長に近いと言われ続けて今に至る。本人は全く興味が無いようであったし、現局長たちよりも年齢が上に見えたので、現文化局長のランタナが突然失脚しない限りはその可能性は無いだろうとカリンは思っていた。
「ナウパカ様は、プリムラ様からどのような議論を持ちかけられるのですか?」
「そうじゃなあ。例えば、現代文字が生まれた理由について」
 ナウパカは悪戯っぽい表情でカリンを見る。お前ならどう答える? と問われているようだった。
「古代アーヴェ文字が存在したのに、現代文字が生まれた理由……という意味ですよね?」
「そのとおり」
「古代アーヴェ文字と現代文字の一番の違いは、アーヴェ文字が表意文字であるのに対して、現代文字は表音文字だという点です」
「ふむふむ。それで?」
「元々は、補助的な役割で生まれたのではないでしょうか。例えばアーヴェ文字の読み方を伝えるために」
「なるほど、面白い。それが、時間が経つにつれて表意文字は廃れ、話し言葉に近い表音文字が残ったと」
「はい」
「そうであれば、過渡期の書物として、アーヴェ文字に読み仮名として現代語が振られた書物などが存在してもおかしくないのではないかね?」
「確かに……」
 現存する書物は、全てアーヴェ語、または現代語で書かれている。それに、アーヴェ文字と現代文字が異なるだけではなく、アーヴェ語と現代語そのものも文法や単語が異なるのだ。カリンの仮説だけでは弱い。
「ほっほっほ。実は私もお前と同じ回答をして、プリムラ様に今のような返しをされたのじゃ。……まあ、一事が万事、そのような感じでな」
 プリムラは、もしかしたら現在、最もこの世界の謎の解に迫っている人物なのかもしれない。「闇とは何か」と尋ねたら、プリムラからはどのような答えが返ってくるのだろう。
 同時にカリンは、自らが闇に向き合い始めたこの時期にプリムラとの関りが深くなったことに、少しだけ運命めいたものを感じるのだった。


 
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