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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 16 変えられた数値の謎 解

-カリン-

 正面の門から堂々とヨシュアの工房へ歩いてくるツツジを目にした時、カリンは不思議な感慨に襲われた。少し前ならば、自分はきっとこの場面を警戒の目を持って見詰めていただろう。
 奥の部屋から眺めていると、ツツジに気がついたヨシュアが一瞬カリンに視線を送った後で立ち上がり、ツツジを迎え入れるために扉を開けた。
「お待ちしておりました。こちらからどうぞ」
「手間をおかけする」
 短く言って頭を下げ、工房側の扉から中に足を踏み入れたツツジはすぐに、開いたままの奥の部屋へ通じる扉と、その向こうに立っているカリンに目を遣った。万が一外から人が見ていた場合におかしくないように、ヨシュアはそのまま一度ツツジと共に住居側の部屋へと入り、扉を閉めた。
「お茶を淹れて参ります」
 カリンは一言断ってからキッチンへと足を向ける。後ろで、ヨシュアがツツジに椅子を勧める声と、レンがツツジと挨拶を交わす声が聞こえた。
 族長の計画は上手くいった。レンはひとりで城へ行き、ツツジへの書簡を門番に手渡した。係の者がツツジへそれを届け、ツツジはすぐに返事をくれた。そこには「二時限後に伺う」とだけ書いてあった。その返事を持ってレンはカリンの待つヨシュアの工房へ戻ってきたのだった。
 逸る気持ちを抑えてできるだけ丁寧にお茶を淹れて戻ると、既にヨシュアの姿はなく、レンがツツジと二人で和やかに話をしていた。それぞれの前にカップを置くと、レンが「僕が遭難した時に医師を派遣してくれたお礼を言っていたんだよ」と教えてくれた。そういえばそれ以来レンがツツジに会うのは初めてだ。カリンが頷いてレンの隣に座り、お茶を勧めようとした時、ツツジの方が先に口を開いた。
「城の中では話せぬ話ということだな」
「はい。わたくしがマカニへ戻った後にすぐ戻ってきてツツジ様とお話ししたのでは、余計な詮索を招くと考えました。マカ二へ戻る前に結論まで至らなかったことは反省しております」
「今回の狙いは私の失脚だと言ったであろう? 自分に降りかかったことくらい自分で対処する。しかしまあ、マカ二の族長殿が寄越したのだ。それなりのお考えがあってのことだろう」
「恐れ入ります。あの、実は数値の改ざんのお話と、それから、セダム様のこともお話ししたくてお呼びたてしてしまいました」
「……そうか」
 カリンはツツジのいつもの不機嫌な表情の中に、微妙な変化を感じた。ツツジはカリンの淹れたお茶に口をつけ、小さく息を吐いたがその後何も言わなかった。カリンもそっと呼吸を整える。
「わたくしも、治験の件に関しては積極的に犯人探しがしたいわけではないのです。ただ、今後もツツジ様の元で働かせていただく上で、ツツジ様のお考えを伺っておきたいと思いました」
「ふむ。それで?」
「わたくしは今回のことにランタナ様が関わっていらっしゃるのではないかと考えておりますが、ツツジ様のご認識と同じでしょうか」
 カリンは敢えてツツジと目を合わせようと、じっと顔を見詰めたが、どうしてもするりも躱されてしまう。しかし決して目を逸らしているというわけではなく、ツツジの威圧感は感じるから不思議だ。どのようにしたらこのような視線になるのだろう。
「お前はなぜそう考えた?」
「昨日、報告会の後でプリムラ様と少し話をしました。その中でプリムラ様が、ご自分は全てを明らかにしたいが、ツツジ様は結果が問題なければ原因は解らなくても良いというお考えのようだというお話をしてくださいました」
「それは興味深いな」
 ツツジは他人事のように言う。
「それでわたくしは、プリムラ様は何かご存じなのではないかと思うと同時に、報告会の際にプリムラ様が数値に関するご質問をされた時のことを思い出しました。勿論、プリムラ様がご質問されること自体はおかしなことではありません。ただ、その時に感じた小さな違和感を思い出したのです」
 あの時のプリムラの不敵な笑み、ツツジと交わした視線。あれは、ツツジに警告したのではないか。そして慌てて話を変えさせるかのように口を挟んだランタナ。
 その後、中庭までの道程で、ランタナの孫娘の縁談の相手が医務室の人間であることを知った。局長たちはカリンがその話を聞く前から皆知っていたはずだ。
 あの時プリムラがカリンに声を掛けたのは、ツツジに警告をしただけでは足りない場合を考えてのことだったのかも知れないとさえ思えた。
「ランタナ様のご令孫のお相手はアリウム様だそうですね」
「よく知っているな。それでお前は、ランタナ殿がアリウムに協力を依頼して数値を改ざんしたのだと言いたいわけだな。アリウムはヘムロックに忠実な部下だが、それが見せかけだけであることなど、世の中にはよくある話だ」
 ユウガオに確認したところ、本来ならば薬師室に治験の書類が来る前に医務室長であるヘムロックを経由するはずだが、実質そこはアリウムが握っていたようなものだそうだ。とはいえ、薬師室も室長は署名をするだけで、確認は全てユウガオに任されているので、室長たちはいちいち細かいことには関わっておられないということだろう。その代わりに優秀な部下を従えておくことが自らの地位の安定につながる。そして今回の場合はそれが仇になった。優秀すぎる部下に裏切られたことになるのだから。
 アリウムは普段はあまり目立たない医師だった。しかし、いつの間にか何かを成していて、ヘムロックに評価され続けているのだ。
「今私が失脚すれば次の医局長はヘムロックだろう。そうすればアリウムは医務室長になる可能性が高い。いや、下手をすれば医局で数値の改ざんがあったとなれば、医務室長であるヘムロックにまで責任が及ぶ可能性もある。そうすれば、今の医局の構造は大きく変わる」
「医局だけでなく、局長たちの力関係も変わります」
「そのとおりだ。医局の発言力は、一時的にせよ衰えるだろう」
 アリウムは衰えた医局の立て直しに奔走する。医局の威信の失墜により相対的に力が大きくなった文化局がそれを支援する。
 アグィーラの局が五つという奇数であるのは、勢力が真っ二つに割れて対立しないようにとの配慮である。しかし五つの局の力関係は対等ではなく、法務局と医局の力が強い。現在は法務局長であるシェフレラとツツジがつかず離れずうまくやっているから均衡が取れているが、常々シェフレラの機嫌を取っているランタナが一時的に勢いの衰えた医局を従えて法務局と結託したらこの均衡は崩れそうだ。
「ではやはりツツジ様は………」
「それを聞いてどうする? 物的証拠は何処にも無い。想像でものを言うだけならば、他の筋書きも思いつく。私が今回、その線が一番濃厚だろうと考えていることをお前が知ってどうするというのだ。芽はもう摘んだ。しばらく同じところに草は生えまい」
「ツツジ様が何処までお考えになった上で今回のことを無かったことになさろうとしているのかを、正確に知っておきたかったのです。ご存知のとおり、わたくしはすぐに余計なことに口を出したり手を出したりしてしまいます。ですから、今後のわたくしの身の置き方として、参考にさせていただこうと思いました。それから、」続きを言葉にするのには少し、勇気が要った。「わたくしもここまでは理解した上で、できることならば、あの……ツツジ様のお邪魔にならない範囲でお力になりたいと考えていることをお伝えしたくて……」
「私のためというよりは、医局の一員として、より良き医局になるよう尽力してくれればそれで良い」
「はい。それは勿論」
「念の為に言っておくが、お前は文化局の官吏でもある」
「……はい」
「組織というのは、誰が治めているかではない。そこに属している以上、組織として良くなることを目指すべきだ。それとは別に人と人との関係はあるがな」
「より良き、文化局になるためには……」
「今回のことごときでランタナ殿を失脚させるのが得策か?」
 確かにランタナは局長としては問題なく機能している。ツツジは、今ならばランタナの罪は未遂で済ませられると言っていた。ツツジならば、物的証拠は無理でも、相手の裏をかいて白状させることも可能なのではないだろうか。それを敢えてしないのには理由があるに違いない。
「正直に申せば、分かりません。今回のことを、小さなことと考えて良いのかどうか」
「まあお前にとってはそうかも知れんな」
「少なくともわたくしのランタナ様への信頼は薄れました」
「お前は元々城の人間など信頼してはいなかったのではないのか?」
 カリンは驚いてツツジの顔をまじまじと見る。そして、ある意味ツツジの言うとおりだと思った。十三歳で官吏になってから長い間アグィーラに居場所は無いと思っていたのに、アグィーラを出てマカニヘ行った後になって、実は居場所は在ったのだということに気がついた。それを自分が拒否していただけなのだと。しかし今は、どうなのだろう。アグィーラにも大切な人はたくさん居る。
「もしお前にランタナ殿に対する信頼があったのだとして、ランタナ殿はそれを今回失った。お前の疑いの芽は今は石壁に生える小さな雑草かも知れんが、ランタナ殿はそれを引き抜くどころか、気がついてさえいない。それが積み重なれば雑草の束が、勢いよく石壁を崩壊させることもあるだろう。そういうものだ。大袈裟に騒がずとも、来るべき時はいずれ来る。それまでに行動を改めなければの話だが」
「ああ……」
 カリンは自分の喉から声が漏れ出るのを抑えきれなかった。
 理解したと思っていたプリムラとの会話が、もう一度カリンの頭の中を通り抜けてゆく。

ーーアグィーラは……光?
ーー正確には光になりたかった国、という訳だ。言っただろう、相対的なのだ

ーー法的な定義は無論存在する。それは複数の人間が共生する上で秩序が必要だからだ。しかしそれと個人の心の動きは無関係だ

ーー露見せずとも、それをやった人の心には罪悪感が残る。いくら仕方のないことだと自分を正当化してもだ。それが大きくなれば、いつかそれは宿主を喰い破るだろう。そうなる前に法的に浄化してやるのもひとつの手さ。

 全ては、相対的なのだ。光があれば闇もある。しかし光が善で闇が悪だと何故言える? 皆、光を求め、光になりたがる。しかしそもそも闇は悪ではないのだ。それはただの存在。見え方の問題だ。
 暑い夏、そう、ポハクの炎天下など、影は憩いの場だ。夜の闇は深い眠りという安らぎをくれる。
 善悪ではない。ただそれは大きな流れの中、均衡を保ちながら、アルカン湖の波のように寄せては返しを繰り返しているだけだ。先程まで悪だったものは、何かのきっかけで善に変わる。多くの命が互いに干渉し合って、危うくもこの世界の均衡を形作っているのだ。
 族長も言っていたではないか。自然の摂理と異なり、真実は人によって様々。相対の上に成り立つのだと。ツツジとランタナの対立が表に出れば、それはどちらが光であれ闇であれ、その対比は濃くなる。周囲にも影響を与えるだろう。
 そう。だから闇は人の心の中から生まれるのだ。
 光と闇が頭の中で繰り返し明滅して、くらくらした。
「わたくしは、少なくとも今はツツジ様を信頼しております」
 それだけを漸く言葉にする。
 ツツジはその言葉に可も不可も表明せず、ただいつもの不機嫌な表情と交わらない視線のまま、ひとつ頷いて見せた。それから短く一言、「セダムの話を聞こう」と言った。


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濡羽色の小夜篇1

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