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物語の欠片 七色の蛇篇 14

-レン-

「カリン!」
 シヴァのただならぬ声がして下を見たレンの目に、大量に流れ出した水に呑まれたカリンの頭がかろうじて見えた。
 レンたちはもう力をかけていないのにも関わらず、水門は閉じない。
 カリンの身体はものすごい勢いで押し流されて行く。追いかけようとして自分がロープに繋がれていることを思い出した。
 その時、自ら運河に飛び込む白い影が目に入った。ローゼルだ。その姿を見たレンは動けなくなり、ローゼルの行方を見守る。ローゼルは濁流の中確実にカリンに近づき、その身体を抱き止めた。
 しかし、河岸に戻ろうとしてなかなか戻れない。レンははっとして、自分のロープが繋がっている突起に向かった。
 ロープを解き、ロープを持ったままローゼルに向かって飛ぶ。ローゼルは岸に向かうどころか少しずつ流されていた。ローゼルが力尽きたらおしまいだ。
 レンは手に持ったロープの端を矢に結び、弓を引いた。ローゼルの肩あたりを狙う。的が動いて狙いがなかなか定まらない。
「ローゼル!」
 レンが叫ぶとローゼルが一瞬レンの方を見た。
 今だ。
 レンの放った矢は、ローゼルの鎧の肩当てと肩の僅かな隙間を通り、背中で止まった。
 ローゼルが驚いた顔をする。
「掴まれ!」
 ローゼルの手が水を掻くのをやめてロープを掴む。レンの身体に強い力がかかった。弓をしまい、岸を目指して翼を動かす。
 レンの目の前を赤い翼が通り過ぎた。シヴァだ。
 シヴァはロープの中程を掴み、自分も岸に向かって羽ばたいた。
 そのままなんとか二人を岸に引き上げた。シヴァと一緒に二人に駆け寄る。
 ローゼルはカリンの身体を岸に横たえ、肩で息をしていた。
「ローゼル大丈夫?」
「……ああ……助かった。ありがとう」
 ほっとしたのも束の間、シヴァが低い声で言った。
「レン、カリンが息をしていない」
 レンが動くよりも早く、ローゼルが弾かれたようにカリンの身体に近づいた。自分でも呼吸を確かめると、カリンの胸に両手を当てて何度か力をかける。それから大きく息を吸い、カリンの首を軽く持ち上げて口移しで空気を吹き込んだ。
 それを数回繰り返したが、カリンは息を吹き返さない。
「……頼む……カリン……戻ってきてくれ……」
 ローゼルの絞り出すような声が聞こえた。
 レンは、ローゼルの隣でその様子を息を詰めて見つめていた。嘘だ。こんなの嘘だ。
 やがてローゼルは手を止め、肩を落とした。地面の上で握りしめた拳に、涙なのか頭から滴った水なのか分からない水滴がぽたぽたと落ちた。
「嘘……だろう?」
 レンの後ろでシヴァの声がした。
 レンは、声すら出なかった。自分も意識を失ってしまいたい。目が覚めたら全部夢であってほしい。
「私が代わろう」
 見ると、カエデがローゼルとは反対側でカリンの傍に膝をついていた。ローゼルがゆっくりと顔を上げる。
 カエデはカリンの首筋に指を当てると微かに頷いた。それからカリンの身体を肩に担ぎ、背中を強く叩いた。何度か叩いた時、カリンは大量の水を吐き出した。
 水を吐き出したカリンを、カエデはそっと地面に戻す。そして、ローゼルがやったように何度か口移しでカリンの肺に空気を送った。
 すると、カリンが激しく咳き込んだ。
 カエデはほっとしたような顔でカリンの身体を横向きにし、背中を優しくさすった。カリンの口からまだ少し水が吐き出される。
 それに続いて、ぜいぜいと荒い呼吸の音が聞こえた。
 カエデはカリンの身体を呼吸がしやすい体勢に変えてやり、少しの間様子を見守っていた。
 カリンがうっすらと目を開ける。まだ呼吸が荒い。
「大丈夫だよ」
 カエデはカリンに顔を近づけて頭を優しく撫でた。
「……ぞくちょうさま」
 カリンが微かに声を出す。
「大丈夫だ」
 カエデが繰り返すと、カリンは微笑んで再び目を閉じた。
 カエデが身体を起こし、レンたちの方を向く。
「もう、大丈夫だ」
 その穏やかな笑顔を見て、レンの目から涙が零れた。
「カエデさん……」
 カエデは笑顔のまま頷いた。ローゼルを見ると、ローゼルの目からも涙が溢れていた。
 シヴァはカエデに歩み寄ると、その肩に手を置いた。カエデはシヴァにも頷いて見せる。
「お前を連れてきて良かった」
 そうだ。カエデが居なかったらと考えるとぞっとする。レンはシヴァの采配に、改めて感謝と尊敬の念を覚えた。
「連れてきてもらって良かった。さすがシヴァだ」
「いや。たいしたものだ。ありがとう」
「カリンをどこかで休ませてやりたい。このままマカニに連れ帰るか、ワイでどこか場所を借りるか……」
 カエデが言うと、シヴァは笑顔を返した。
「カエデ、お前の意見を聞きたい。カリンはこのままマカニへ運んでも大丈夫な状態か?」
 シヴァとカエデが話をしている間にレンはローゼルに話しかけた。
「ローゼルは本当に全部自分でやってしまうんだね」
 ローゼルがレンの顔を見る。顔にはまだ涙の筋が残っていた。レンも同じだろう。
「ひとりで運河に飛び込んでカリンを助けて、蘇生術まで。剣術も馬も全部できてしまうんだもんな。全く敵わない。僕なんて仲間に助けてもらってばかりだ」
「いや……。結局ひとりでは何も出来なかった。今回カリンを助けたのはマカニ族だ」
「マカニ族と、ローゼルだよ。最初にカリンを掴まえてくれなければ、僕は間に合わなかった。ありがとう」
「レン、凄かった。俺を傷つけず、ここに矢を打ち込むなんてな」
 ローゼルは自分の左肩に触れた。
「あはは。傷つかなくて良かった。的が揺れてて難しかったよ」
 レンはローゼルに手を差し出した。ローゼルはその手をしっかりと握りしめた。
 マカニ族の仲間たちが次々に周りに集まってきた。水門の方を見ると、水の勢いが収まっても落ちないよう、ロープが木に巻きつけてあった。
 アジュガがエリカとルクリアを伴ってこちらへ歩いてくるのも見えた。アジュガは自分の息子が河に飛び込んでも、自分の任務を忘れなかったのだ。アジュガの覚悟を感じた。やはりローゼルとアジュガは似ているのではないか。
 近くへ来たエリカの前でシヴァが再び片膝をつく。
「お騒がせしましたが、無事、運河に水が流れました。我々はこれで一度引き揚げます。何か不都合があればご連絡ください」
 結局、マカニへ戻ることになったのだ。
「カリン殿は?」
「連れて戻ります。さいわい、命に別状はありません。回復したら改めて挨拶に来させます」
「良かった……。分かりました。わたくしどももお礼は改めていたします。エンジュに、くれぐれもよろしく伝えてください」
 エリカは心からほっとしたようにそう言った。
「お心遣い感謝いたします」
 エリカに一礼し、シヴァが立ち上がる。
「レン、カリンを連れて飛べるな?」
「もちろん。あ……ガイアが」
「俺が連れて行く」
 ローゼルが言った。レンとシヴァはローゼルの顔を見る。
「陛下にご報告しなければならないが、その前に一度マカニへ行くよ。カリンを連れて厩舎まで一緒に行ってくれ。ガイアは、分かってくれる」
 レンは頷いた。
「ローゼル、お前もカリンが目覚めるまでマカニに居ろよ。陛下には俺が報告してやる」
 クコがにやりと笑ってそう言った。
「クコ殿……」
 ローゼルが驚いた顔でクコを見る。レンはローゼルの肩を叩いた。
「そうしなよ」
 ローゼルは頷いてクコに頭を下げた。
「本当は俺は陛下と直接話なんかできない身分だけどな。まあ、カリンのことだと言えば通るだろう。貴重な体験だ」
 クコはなんだか楽しそうですらあった。レンは今回、クコのことも好きになった。
「シヴァさん、僕は厩舎に寄ってから戻る。皆は先に戻っておいて。族長に早く報告した方がいいでしょう? あ、カエデさんは僕と一緒に来てくれると嬉しいな。万が一カリンに変化があったら困る」
「分かった。そうしよう。カエデも、頼む」
 シヴァが笑顔で頷いた。カエデも頷く。
 遠くから歓声のようなものが聞こえた。ワイの町の人々が運河に水が流れていることに気がついて集まり始めていた。
 エリカたちはこれからその対応に追われるのだろう。
「それでは失礼します」
 マカニ族が揃って礼をする。レンとカエデを残し、シヴァを先頭に皆は飛び立った。
「さて、僕たちも行こうか」
 レンはカリンの身体を抱き上げた。当たり前だが全身ずぶ濡れでぐったりとしている。自分ひとりだったらきっと不安になっているだろう。カエデが居てくれることが心強かった。
 レンはカリンを抱えたまま飛び、カエデがローゼルを乗せて飛んだので、厩舎まではあっという間だった。
 ローゼルの言うとおり、ガイアはカリンの姿を見せてローゼルが自分についてくるように言うと、おとなしくついてきた。ローゼルはやはりすごいなとレンは思った。
「気をつけて」
 レンが言うと、ローゼルは頷き、カリンを頼むと言った。レンも笑顔で頷いてカエデと共にマカニへ向けて飛び立った。

 カエデはカリンを診療所へ連れて行くと言う。レンは族長に報告をするためカエデと別れて族長の家に向かった。
 カエデが居ないことが分かっているので呼び鈴を鳴らさずにそのまま家に入る。族長の居る奥の部屋に向かった。
 シヴァはすでに報告を終えて部屋を出たらしく、族長はそこにひとりで座っていた。部屋に入りかけてレンは思わず足を止める。
 族長は、これまでレンが見たことが無いような表情をしていた。とても静かで穏やかなのに、すべてを拒絶するような暗い色。心がざわざわした。
「族長」
 暗闇の中に引きずり込まれそうになり、レンは慌てて声をかける。族長は驚いた様子も見せず、ゆっくりとレンの方を向いた。こちらを向いた時には、既にいつもの族長の表情だった。レンの心臓はまだどくどくと波打っている。
 今のは、いったい何だったのだろう。
「ただいま、戻りました」
 動揺を悟られないように無理やり笑顔を作った。
「よく無事で戻った。カリンは?」
「カエデさんが診療所に連れて行きました。……カエデさんのおかげです。カエデさんが居なかったらと思うとぞっとする」
「シヴァから聞いた」
 族長は頷いた。
「族長。カリンは一瞬意識が戻った時、族長の名を呼んでいました。後で会いに来てやってください」
「そうか……。もちろん、会いに行こう」
 目が覚めたら呼んでくれと族長は言った。ローゼルが到着しても挨拶は不要。カリンの目が覚めてから改めて話をしよう、そういう族長の言葉を聞き、レンは族長もひとりになりたいのだと思った。
 族長をひとり残して部屋を出る。そこからレンは厩舎へ行き、ネトルとダリアにローゼルがガイアを連れてくることを告げた。ネトルは、ローゼルが来たら診療所まで案内してくれるという。レンは礼を言って診療所に向かった。
 診療所では、カリンが少し苦しそうな顔で眠っていた。カエデは泥水で汚れたカリンの身体をきれいにしてくれていた。しかしそれが蒼白い顔色を先程より際立たせている。
 頬に触れると、熱くも冷たくもなかった。レンは少し安心する。
「カエデさん、本当にありがとう」
 レンは改めてカエデに礼を言った。カエデは穏やかな笑顔で首を横に振る。
「私の方こそ礼を言いたいくらいだ。カリンを助けられて良かった」
「カエデさん?」
 カエデの声に、喜び以外の感情を感じてレンは訊き返す。カエデは診療所をぐるりと見渡した。
「母の身体が弱かったので、私も子供の頃よくここに来た」
 そうだったのだ。レンはそんな当たり前のことすら思い当たらなかった自分を恥じた。医術者を目指すことは、カエデにとっては特別な思い入れがあったはずだ。きっと族長はそれを感じていたに違いない。
「カエデさんが医術の勉強をしていてくれて良かったよ」
 気の利いた言葉が浮かばず、レンは素直にそう伝えた。
「カリンのおかげだ。だから、カリンを助けられて本当に良かった」
 カエデはもう一度そう言った。そして、母はここで亡くなったんだ、と言った。
「え?」
「母は最期、父に会いたがらなかった。ここで、ひとりで……実際は先生に看取られて、そうして去っていった。父も私も、何もできなかったんだ」
 カエデが族長のことを父と呼ぶのをレンは初めて聞いた。
「私はその時、十五だった。カリンなど、もう立派に官吏として城で薬師をしていた年齢だ。当時もそう思ったが、今考えても不甲斐なかった。自分は母に何もできなかった。だから、せめて父を助けたい。そう思って族長の補佐になった。しかし、本当に助けになっているのか、よく分からなかったんだ」
 カエデは会うといつも穏やかだった。いつも笑顔だった。そんなことを考えているなんて思いもしなかった。シヴァの言うとおりだ。
「カリンに医術者を目指さないかと言われた時、目が醒めた気分だった。そんなこと思いつきもしなかった。それからでも遅くなかった。今回、きちんと役に立った」
 そう言ってカエデは翳りのない顔で微笑んだ。
「僕、カリンは族長の心を救えるんじゃないかと思ってるんだ」
「……そうだな」
「だから、そのカリンの命を救ってくれたカエデさんは、族長を救ったことになる」
 カエデは驚いた顔をして、それから再び微笑んだ。
「そうだといい」
「そうだよ」
「レン」
「何?」
「私はお前を尊敬している」
「僕はカエデさんに尊敬してもらうようなこと、何もしてないよ」
「いや。先程、私は自分の子供の頃が不甲斐ないと言った。お前は私と違って子供の頃からずっときちんと考えているんだ。今の自分が何をすべきか。そして、何をしたいのか」
「それは……そうしないと自分がやっていけないから」
「なかなかできないことだ。たいていの人はただ流されているだけだ。お前はもっと自信を持っていいと思う」
 カエデはそう言って笑った。考えてみるとカエデとこんな風に話をするのは初めてだった。カエデはいつも穏やかに存在していた。自分がひとりの人間として人格を持っているのだと、他の人に悟らせないようなさりげなさで。
 その時、ローゼルがネトルに案内されて診療所に入ってきた。さすがに疲れている様子だ。カエデはローゼルに湯を使うように言った。ローゼルもあの濁流に身を投じたのだ。あれがまだ今日の出来事だとは信じられなかった。長い一日だ。そしてそれはまだ終わってはいない。
 レンはカリンの苦しそうな寝顔に目をやった。

鳥たちのために使わせていただきます。