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物語の欠片 金色の馬篇 10

-カリン-

 薬草湿布のおかげで、二、三日すると傷の具合は随分良くなった。もうアグィーラまで行っても大丈夫だろうとカリンは思った。
 イベリスはカリンたちの家に滞在していた。マカニに来て以来、イベリスは安定しているように見える。レンのおかげだ。
 あの日レンとイヌワシの岩に行って、イベリスは明らかに変わった。以前は明るさの中にどこか投げやりな雰囲気があったが、今は自分自身と向き合っているように思える。カリンのことも「カリン」と名前で呼ぶようになった。
 カリンはさすがに訓練には参加できないので、朝、レンとイベリスは二人で訓練場に出かけていく。剣術しかやったことのないイベリスに、試しにやってみれば? と、カリンの弓を貸してやった。イベリスはひとりで剣術の稽古をしたり、レンに教えてもらいながら弓に触れてみたりして過ごしているようだ。そして時々カリンの居る診療所にやってくる。
 カリンは朝、二人と別れて診療所へ行き、まずカエデに傷の具合を見てもらう。初めて傷を診せた翌朝、ラウレルはカエデを診療所に連れてきた。「こんな傷は滅多に触れないから」と言うのがその理由だ。カエデは手際よく薬草湿布を交換してくれるが、毎回つらそうな顔をする。カエデは医術者に向いているとカリンは思っているが、優しいカエデは患者のことを考えすぎてしまい、苦しいかもしれないとも思う。ラウレルもそれを解っていて、こうしてカエデがそれに慣れるような機会を作っているのだろう。
 今のところ薬に不足はなく、身体の丈夫なマカニ族は滅多に診療所にはやってこないので、その後は大抵レンがアグィーラから借りてきてくれた本を読んで過ごした。
 以前、夢の謎を解くために図書室にある現代語の本はすべて読んでしまっていた。古代アーヴェ語の本もほとんど読んでいるが、ポハクに関する部分についてはうろ覚えだった。改めてポハク、もしくはラプラヤ地方に言及されている部分を集中的にさらう。そうしていくうちに、カリンの中にある仮説が育っていた。
 仮説を検証するためにはもう少し文献が必要だ。考古学室の資料も見てみたい。
「まだやっているの?」
 夜、夕食の片づけを終えたテーブルで本を広げて考え込んでいたカリンにレンが声を掛けてきた。後ろにイベリスが立っている。それまで二人で話をしていたようだ。
「私、アグィーラに行こうかな」
 カリンは呟くように言った。
「行くなら僕も一緒に行くよ」
「もうひとりで大丈夫。二泊で戻るわ。私はきっと図書室や考古学室に閉じ籠もってしまうし、一緒に行っても退屈だと思う」
「あのねぇ、退屈とかそういう問題じゃないんだ。……邪魔はしないよ」
「邪魔だなんて思ってない。ただ……」
 レンが心配してくれているのは解る。しかし、この後何度アグィーラやポハクに足を向けるか分からない。カリンはあまりレンを訓練場から引き離したくなかった。シヴァとレンが居てくれると戦士たちは放っておいても大丈夫だと族長が話していた。それはやはり、レンが居てこその均衡なのだろうとカリンは考えていた。
「俺が、一緒に行くよ」
 イベリスがレンの後ろから言った。レンがイベリスを振り返る。
「俺は元々アグィーラに派遣されてきてるんだぜ。ポハクに来たっていう特使はカリンだろう? カリンの供をするのが俺の役目だ」
 そう言ってにやりと笑う。
 レンは再びカリンの方を向いた。カリンは迷っていた。カリンの仮説が正しいのだとしたら……
「俺はポハクのことはカリンより知っている」
 イベリスが重ねて言う。確かに、それはその通りだ。
「分かった。お願いするわ。レンも、それでいい?」
「無茶はしないでよね。それから、何かをする時には僕も行くよ。今回はまだ調査の段階。合ってる?」
 カリンは頷く。
「自分の仮説を確かめたいの。戻ったら何を考えているかきちんと話すわ」
「分かった。それじゃあ僕はマカニで待っている。気をつけて行っておいで」
 そう言ってレンは笑った。
「ありがとう」
 カリンは立ち上がってレンを抱きしめた。

 前回アグィーラに行ってからまだひと月も経っていない。ヨシュアは驚きながらも喜んで迎えてくれた。
「今回は随分早いな。何かあったか?」
「今日はちょっと調べ物があって来たの」
「また何かやってるんだな?」
 ヨシュアはカリンが話さない限り無理に何かを聞き出そうとしたりはしない。笑ってそう言って、そのままカリンの後ろに立っていたイベリスを見る。
「珍しいな。今日はイベリス殿が一緒か」
「どうも。カリンのお供で来ました」
 イベリスがお戯けたように言う。
「ポハクのことを調べているの」
 カリンはそれだけ説明した。ヨシュアは納得したように頷く。
「ゆっくりしていくといい」
 城へ行くと中庭でローゼルと会った。ローゼルもカリンの早い訪問とイベリスが一緒に居ることに驚いた顔をした。それから眉間にしわを寄せる。
「左腕、どうした?」
 カリンの動きに違和感を感じたのかそう尋ねた。
「ちょっと、怪我しちゃって」
 ローゼルはカリンに訊いても埒が明かないと思ったのか、イベリスの顔を見る。
「ちょっとじゃない。こう、左肩から此処までばっさり」
 イベリスが答えるとローゼルの眉間のしわが深くなった。
「誰に……やられた?」
「魔物」
「お前がその辺の魔物にそんな風にやられるはずはない。いったい何をしている?」
 カリンは溜息を吐いて笑って見せたがローゼルは笑わない。
「ポハクにね、大きな馬の魔物が出るという噂、聞いてない?」
「あれか……なるほど。だからイベリスと居るわけか」
「強かった。でも、ローゼルだったら怪我せずにすんだよ、きっと。私はまだまだ鍛錬が足りないみたい」
 カリンは笑顔でそう言ったが相変わらずローゼルは笑わない。それどころか怒ったような表情になった。
「あれほどひとりで危ないことはするなと……」
「ひとりじゃないよ」
 カリンはローゼルの言葉に被せるように言う。
「ひとりじゃない。大丈夫。レンとイベリスが一緒に居てくれるから心配しないで」
 今度はローゼルが溜息を吐いてイベリスを見た。
「……まあ、俺たちが一緒に居てもこうなったんだが、カリンがひとりでないことは確かだ」
 イベリスは後ろからカリンの肩を抱いた。
「ローゼルは元気? 困っていることはない?」
 カリンが尋ねると、ローゼルはふっと笑いを漏らした。
「お前はマカニへ行っても相変わらずだな」
「そんなに簡単に変わるわけがないでしょう?」
「そうだな。……大丈夫、俺は元気だよ。変わらずやってる」
「イベリスに言えないこと? だったら少し外してもらうよ?」
 何もないのにローゼルがこの時間にこんなところをうろうろしている筈はなかった。
 ローゼルがじっとカリンの顔を見た。それからちらりとイベリスを見る。
「いや……実は、姫の花婿候補として推されることになった」
 カリンは、遅かれ早かれそうなるのではないかと思っていた。だから驚きもせずに頷いた。後ろに立っているイベリスの表情は分からない。
「ローゼルは、それをどう思っているの?」
「正直、よく分からないんだ。光栄なことだとは思う。しかしこれは……任務とは違う」
「よく解っているじゃない」
 カリンは微笑む。
「解らないよ。今朝、局長から聞いたばかりだ。情けないことに訓練に身が入らないからこうして少し抜けてきた。そうしたらタイミングよくお前たちが歩いてきた」
「これは任務ではない。だから、ローゼルが受けたければ受ければいいし、嫌なら断ればいいのよ。陛下も姫様も残念がりはするだろうけれど、だからって貴方のことを不当に裁いたり無理強いしたりはしないと思う」
「……自分の気持ちが分からない」
「私もそうだったよ。しかも、ローゼルの場合はただ誰かと一緒になるというだけではないものね。姫様の婿になるということには、いずれこの国を継ぐことになる。その覚悟も必要。分からなくなるのは当然だと思う。しかも、まださっき聞いたばかりじゃない。すぐに答えを出す必要はないわ」
 ローゼルは珍しくカリンから目を逸らした。
「姫が……望んでくださったようなんだ。候補は勿論他にも居る。俺は別に姫を嫌いではない。お助けしたいとは思う。……でも、婿となるとまだよく分からない」
「姫様と、よくお話しするべきなのだと思う。自分の気持ちは自分で向き合うしかないのだけれど、私、ひとりで考えていたらどんどん間違った方向に行ってしまって、結局レンに連れ戻してもらった。レンと話をしていると、自分の気持ちが少し解った気がしたの。それから、レンの気持ちもね」
 ローゼルはカリンの方を向いて頷いた。
「そうなのだろうな……」
「なあ、ローゼル」
 それまで黙って聞いていたイベリスが口を挟んだ。ローゼルがイベリスの方を向いたのでカリンも振り返る。イベリスの顔には優しい笑みが浮かんでいた。
「俺さ、実はポハクの族長の息子なんだ。しかも私生児。上に正妻の娘が三人もいる」
 ローゼルがイベリスを睨むように見た。これはローゼルの驚いている顔だとカリンは知っている。
「男と女って分からないよな。お互い望んで婚姻関係を結んだ筈なのに、外に私生児なんか作ってしまって。何でこんなことになっちゃうんだろうな。しかも、権力が関わると余計にややこしい」
 イベリスはにやりと笑った。
「俺が族長の息子だと分かると、沢山の女が寄ってきた。誘惑が沢山だ。誘惑に負けないくらい相手のことを大切にできないと、たぶん成立しない」
 ローゼルが頷く。
「それは……解る気がする」
「ローゼルはカリンには優しい」
 ローゼルは再び睨むようにイベリスを見た。
「少なくとも、カリンより大切にできる人を選ぶべきだ」
 ローゼルは考え込むような表情になる。
「不幸な人を増やすなよ」
 イベリスは真面目な顔でローゼルを見た。ローゼルもイベリスの顔を暫く見詰め、それから頷いた。
「少し……考えてみる」
 イベリスがローゼルの肩をポンと叩いてにやりと笑った。
「ローゼルも人並みに悩むんだって分って安心した」
 カリンはくすくす笑う。
「ローゼルがイベリスの前でこういう話をできることが分かって私も安心した」
 そう、自分ひとりで背負う必要はない。自分のことも、他の誰のことも。
 ローゼルはふっと笑いを漏らした。
「……そうだな。俺も、安心した」
 そして、くれぐれも無茶をしないように。何かあったら声を掛けてくれ、と言って去っていった。

 中庭を抜けて図書室に入ると、ナウパカはカリンの来訪に驚かなかった。
「また何かに首を突っ込んでおるのだろう? 先日、風の化身殿が使いに来た。まったくお前も人使いが荒いのう。いくら空を飛べるからと言って、あまり便利に使うものではない」
 カリンは、はい、と笑顔で頷く。イベリスはその様子を笑いを堪えながら真面目な顔で見ていた。
 借りた本を返し、新たに必要な本を本棚から取り出す。
「ポハクのことなど調べてどうする。もしかして例の魔物の話か」
 カリンが机に広げた本を見てナウパカが尋ねる。
「さすが司書長様。ご明察です」
「年寄りを揶揄うな」
「揶揄っておりません。本心です」
「まあ……発掘が進まんと歴史書の編纂も進まないからな。まったく関係ないとは言えぬが、何もお前が……」
 そう言って改めてイベリスに気がついたように、おおそうか、きんの化身殿の御依頼か、と言った。
「いいえ。わたくしのおせっかいです」
 ナウパカは、お前の頭の中はいつまでたっても理解できん、と首を振りながら自らの席に戻って行った。
「さて、始めましょうか」
 カリンは笑ってイベリスの顔を見る。イベリスも笑って頷いた。

鳥たちのために使わせていただきます。