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鳥たちのさがしもの 21.5『孔雀のわすれもの』

-孔雀のわすれもの・失われた時間-

 一色がわすれものを取りに体育館へ戻ると、蘇芳孔雀すおうくじゃくがボールを触っていた。今日は朝から彼らの卒業式があったため、この体育館にも紅白の垂れ幕が下がり、パイプ椅子が並んでいた。先ほどようやく一色ら若手の教員がそれらを撤去し、通常の装いを取り戻したところだった。
 多くの卒業生は証書を受理し、午前中のうちに学校を後にしていた。未練がましく居座っている者もいるが、昼食時を迎えた今、そうした連中もじきにいなくなるだろう。そんな中、他でもない蘇芳孔雀がこうして校内に残り続けているとは、意外な光景だった。

 『孔雀』というその名に相応しく、在学中彼の存在は強く人目を引くものであった。甘いマスクに高身長、バスケット部に所属し、強豪であるH高からスポーツ推薦の話が出るほどの活躍ぶりだった。練習中には、その様子を遠巻きに女子生徒たちが眺め、彼が華麗なプレイを決めると嬌声が上がる。そんな漫画のような光景を幾度か目にしてきた。
 一色は孔雀のクラスの数学を受け持っていた。中学三年という大事な時期にも関わらず、教卓から見える孔雀はどこか上の空で、時に居眠りに興じることすらあった。H高推薦の話が来ていることは聞いていたので、勉学に身が入っていないのはそのせいだろう、と考えていた。
 ところが夏休み明け、孔雀がその推薦を蹴り、都内の私立校を受験すると耳にした。難関と呼ばれる学校で、勉学においては運動ほど光るものがない孔雀にとって、それは難しい選択に思われた。
 にも関わらず、孔雀の授業態度は変わらなかった。一色先生からも指導を、と担任に頼まれたこともあり、一度だけ彼を呼び出し話をした。
 今のままでは君の志望校は厳しい。特に数学については遅れが見られる。もっと本腰を入れて当たらないといけない。そのようなことを伝えた。孔雀は聞いているのかいないのか、はいそうですね、ご指導ありがとうございます、とそつのない返答を寄越すだけだった。
 どこか現実感のない様子に、志望校を変える気はないのか、と持ちかけた。するとそこはきっぱり「ない」と返してきた。どうしてだ、この学校に何かあるのか、と訊ねると、孔雀は一色から顔を逸らし、窓の外、遠くを見るような目をして言った。
「さぁ。何かあるんですかね」
 教師を馬鹿にした発言にも聞こえるところ、一色にはその言葉が、どこか切実な響きを持ったものに感じられた。何かを探し求めているのだけれど、一向に見つからず、途方に暮れているような。一瞬だけだが、蘇芳孔雀の本質に触れたような気がした。
 それ以降、事あるごとに孔雀の様子が気にかかるようになった。授業中はもちろん、休憩時間、放課後、果ては廊下ですれ違う瞬間に至るまで、彼と近づく機会がある度、自ずとその表情に目が行った。
 笑顔を振りまき、級友との語らいに花を咲かせながらも、孔雀はどこか現状に不満を抱えているように見えた。この中学時代は夢の中の出来事であり、早くこの夢から目醒めて現実に戻りたがっている。そんな印象だった。
 その蘇芳孔雀が、卒業式を終え、数時間が経過した今なお学校に居残っていることに、違和感を覚えた。

 制服の上着を脱ぎ、靴だけバスケットシューズに履き替え、孔雀はひとり、一心不乱にボールと格闘していた。ドリブルは低く、柔らかく膝を使い、高い打点でシュートを放つ。受験勉強でブランクがあるはずだが、現役時代と変わらず、一目で筋の良さがわかる身のこなしだった。
 何本目かのジャンプシュートが外れ、リングに弾かれたボールが、入り口付近にいる一色の足元まで転がってきた。そこで初めて人がいたことに気がついたのだろう、一色がボールを拾うと、孔雀は少しきまりの悪そうな顔で会釈をしてきた。
「……ども」
「どうも」
 あれだけ激しく動いていたのに、息が乱れていない。部活を引退してからも欠かさず体力作りに励んでいることが伺われた。
「すみません。体育館、使いますか」
 じっと見つめていたからか、孔雀は怪訝な顔で訊ねてきた。
「いいや、大丈夫。君こそどうしたんだ」
「あぁ、俺は……」
 孔雀はコートの脇にある黒いナイロン製のバッグに目をやった。
「わすれもの取りに来たついでに、ちょっと」
「わすれもの?」
「ユニフォーム。ロッカーに入れっぱなしだ、って監督が」
 ……いらねぇんすけど。
 小さくひとりごちるのが聞こえる。孔雀らしいな、と一色は感じた。
 三年間打ち込んだ部活動のユニフォーム。思い出の品として申し分ないそのアイテムを、惜しげもなく「いらない」と言ってのける。形の無いものに向けられた孔雀の眼差しと、この中学時代への執着のなさが表れていた。
「高校、受かったんだってね。おめでとう」
 祝いの言葉がまだだったことを思い出し、一色は言った。
「冬からの追い上げが凄まじかった。最後の方、数学に関して言えば学内トップクラスだったよ」
「勉強しましたから」
 当たり前のように、孔雀は返してくる。
 そう、この子はこう言うのだ。
 華のある外見から、才覚に溢れ、余裕綽々で物事を進めているように見えるが、実は違う。着実に赤丸が増えていく彼の答案用紙から、その裏に弛まぬ努力があることは容易に察せられた。
 必要な努力を、必要なだけ重ねる。多くの者が挫け、投げ出したくなるそれを、当然のようにやってのける。それが蘇芳孔雀だ。何かを得るためには代償が必要であることを、この歳にして十分に心得、実践している。
 ふと、あの日、遠い目をした孔雀の顔が思い浮かんだ。
 何かを得るため。しかし、どうだろう。この子がさがしもとめているその「何か」は、この先の未来に果たしてあるのだろうか。
 卒業し、希望した高校に進学してもなお、ああやって途方に暮れた表情をすることになりはしないか。
 よしんば、その「何か」があったとして……
「あの、いっこ気になってたんすけど」
 汗に濡れた前髪を面倒そうに小指で掻き分けながら、孔雀が問うてきた。
「秋ぐらいだっけ。一回、先生と進路面談みたいなのやったじゃないですか。覚えてますか」
「……あぁ、やったね」
「あれ、なんでだったんですか?」
「なんで、とは?」
「いや、あぁいうの普通、担任以外はやらないじゃないすか。どうしてわざわざ一色先生が面談やることになったのかな、って」
 あぁ、そうか。てっきりその辺りの事情について、孔雀は聞かされていると思っていた。知らなかったとなると、不思議に思うのも無理はない。 
 静かに息を吸って吐き、ボールを持つ指先に、一色は力を込める。もしかしたら自分が孔雀に何か残せるとしたら、これなのではないか。そんな予感がした。
 視線を足元へ。作業時用にと職員室で貸し出されていた、薄い体育館シューズが左右並んでいる。
「靴が、ちょっと厳しいな」
「え?」
 孔雀の疑問符を置き去りに、一色はボールをコート中央へ、大きく投げた。放物線を描くそれを追いかけるように、すぐさま駆け出す。孔雀の横を通り抜け、センターサークルに到着。ボールが着地、バウンド、すぐさまキャッチ。ドリブルで運び、スリーポイントラインでターン。見えないディフェンスを躱し、フリースローラインを突破。中へ。ボールを掴む。跳ぶ。また見えないブロックの壁。一度持ち上げたボールを空中で下げ、身体を捻る。躱した。リングが見えない体勢のまま指先のスナップを利かせ、シュート。
 着地と同時に振り返ると、リングを通過したボールが、ネットを揺らし、コートへ舞い戻ってくるところだった。
 静寂の中、ボールが跳ね、やがて転がる音が響く。
 ゆっくり息を吐き、呼吸を整えながら、一色はボールに近づき、静止したそれを掴んだ。孔雀を見ると、案の定、呆然とした様子でこちらを眺めていた。
「H高にいたんだ。バスケをやっていた」
 一色は言った。
「H高……」
 口の中で呟いた後、孔雀ははっとした表情になった。自分が推薦を蹴った高校であることを、そこでようやく思い出したようだった。
「え、ウソ。マジすか」
「うん」
「ポジションは?」
「スモールフォワード。補欠だったけれどね」
「ベンチに入れるだけすごいっすよ。あそっか、だから先生が面談を」
「そう」
「すっげぇ……新事実」
 孔雀の目は好奇に輝き、口元に笑みが浮かんでいた。決して体格がいいとは言えない、ひ弱にも見える教師が、インターハイ常連の強豪にいた。思わぬ事実に、いつもの涼やかな仮面が剥がれ、素の表情を覗かせていた。
「面白かったかい?」
 一色は訊ねた。
「え? あぁ、そりゃあそうっすよ。全然知らなかった」
「面白いこと、楽しいことは、そこら中に散らばっているよ。君が見過ごした三年間の中にもね」
 一色が言うと、孔雀の顔から笑みが消え、神妙な面持ちに変わった。一色はその目を見つめて、続けた。
「次の三年間では、見逃さないようにしなさい」
 少しの間が空き、孔雀が何か言おうと口を開きかけたところで、どこからか電子音が鳴った。すみません、と孔雀は黒いバッグに駆け寄り、中からスマートフォンを取り出す。電話のようだ。画面をタップし、孔雀はそれを耳に当てた。
「もしもし……うん、今学校。……わかったって、すぐ行くよ」
 孔雀は電話を切り、スマートフォンを持ったまま、上着と黒いバッグを引っ掴む。そして器用にも足だけでシューズを脱ぎ、踵の部分に指を入れ持ち上げた。
「すみません。バスケ部の打ち上げ、始まるみたいで」
「そう」
 一色は笑顔で頷いた。孔雀は何か言いたげで、しかし言葉が見つからないような、もどかしい表情をみせた。
「あの、ありがとうございました」
「うん。元気で」
 複数の荷物を抱えながら、深々と頭を下げ、蘇芳孔雀は体育館から去っていった。一色はそれを見送った後も、しばらくその場から動かなかった。
 どうやらもう、わすれものはないようだ。
 孔雀が戻ってこないことを確認してから、一色は長めの息を吐いた。堪えていた咳が込み上げ、身体を揺らし、それを吐き出す。ようやく呼吸が治まると、一色はボールを持ったまま体育館の端、舞台へと近づいた。確かこの辺に置き忘れていたはず。壇上を見渡し、目的のタブレットケースを見つけた。
 ケースから錠剤を取り出し口へ入れ、そのまま嚥下する。まだ肺が燃えるように、痛い。それほど激しい動きではなかったはずだが、少し張り切り過ぎたか。
 高校二年の冬に肺を患い、一色の選手生命は絶たれた。上背はないがパワフルで素早い動きが持ち味であったところ、筋力は見る見るうちに衰え、全速力で走ると呼吸器が悲鳴を上げるようになった。以来、日頃より薬を服用し、常に体調を気にかけながらの生活を続けている。
 いまだ腕に抱えたままのバスケットボールを、一色は両手で持ち直し、額に付けた。
 去っていったばかりの孔雀を思う。
 自分の欠落を埋める、運命的な「何か」。この中学では見つからなかったそれを、彼は探しにいくのだろう。そして蘇芳孔雀ならきっと、そいつを手にするに違いない。
 だがそれも、もののはずみで容易く失われる。
 さがしものが見つからなくても、見つかったものをなくしても。どこかに、見逃したわすれものがあるかもしれない。
 そう、伝えたかった。
 伝わっただろうか。
 いや、伝わってなくてもいいか。いつか必要になったその時、彼の中で、今日の言葉が孵化してくれればそれでいい。
 一色は額からボールを下ろし、顔を上げた。体育館の高い天井が、視界に入る。今さっき飛び立っていった少年の先には、こんな蓋などない、青々とした空が広がっているのだろう。

 チャイムの音がスピーカーから鳴り響く。一色はボールを仕舞って、職員室へと歩いて戻った。


***
これは、2021年秋に連載していた『鳥たちのさがしもの』の第21話と第22話の狭間のお話である。

そして、お気づきになった方はいらしただろうか。これは私が書いたものではない(扉絵は私)。

上記の記事にあるように、白鉛筆さんと対談する機会をいただいた。その中で、お互いがお互いになりきって物語を紡いでみようという話になったのである。初めての経験で、とても楽しく学びのある機会だった。
そう。つまり、このお話は白鉛筆さんが書いてくださったもの。
五人の少年を外側の視点から描くという発想を持たなかった私だから、私自身とても新鮮で、しかもここに出てくる一色先生が、私の実際の人生で出会ったとある先生を思い起こさせて、何だか色々と思い入れの深い作品になった。
私の物語を、そして孔雀という人物を好きだと言ってくださり、このような素晴らしい物語を書いてくださった白鉛筆さんには感謝しかない。
勿論、機会をくださったすまスパにも。
本当に有難うございました。
この孔雀の絵を、白鉛筆さんに捧げます。

『多くは語らず』孔雀 Peacock

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