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物語の欠片 紅の蜥蜴篇 2

-レン-

「レン、起きて」
 耳元で女の声がした。
 カリン? ごめん。起きたいけれど頭が痛いんだ。今日は訓練に行くのは無理かもしれない。このまま寝かせてくれないかな。
「レン、早く。夫が帰ってきちゃうわ」
 夫? 何を言っているの? 君の夫は僕……
 違う。これはカリンの声じゃない。レンははっとして目を開ける。
 目の前にカンナの顔があった。
「良かった、目が覚めたのね」
 どうして……と言いかけて記憶が甦る。
「……良かったではありません。私に薬を飲ませたのは貴女だ」
 レンが掠れた声で言うとカンナはくすくす笑った。
「ごめんなさい。でも貴方を悪いようにはしないわ。私、貴方のことは好きなの」
「カリン……は……?」
 尋ねようとしたレンの口をカンナの唇が塞いだ。そのまま離れようとしない。抵抗しようとしたが身体に力が入らなかった。酷い頭痛がする。
「貴方の奥様は私の夫が相手をしているわ」
 ようやくレンの唇から離れたカンナが、それでもレンの顔の間近でそう囁く。レンは無理やり身体を起こした。頭痛に加えて眩暈がした。
「無理しない方がいいわよ。大人しく寝ていなさい」
 カンナがレンの身体に自分の身を寄せる。再び唇を合わせようとするのを顔を背けて避けた。
「カリンは……何処ですか?」
「知らないわ」
「嘘です」
「嘘じゃないわよ。夫が何処に連れて行ったかなんて知らない。この家には居ないわ」
 最悪だった。
 ベッドから降りるが足元が覚束ない。それでもレンは気力で身体を支えた。イベリスの所に行かなければ……。とりあえず部屋の出口へ向かう。
「いやだ、どうして動けるの?」
 カンナは怖いものを見るような目でレンを見た。
「カリンが居ないならここに居る理由はありません。失礼します」
 カンナは意地悪そうな表情になってレンに近づいてきた。
「無駄よ。きっと貴女の奥様は今頃金色の馬にでも乗っていらっしゃるわ」
 レンの全身から血の気が引いた。
 金色の馬に乗る。それは砂漠で自害することの比喩だった。以前カリンが解き明かした金色の馬の魔物の正体だ。
 カリンはレンと同じように薬を飲まされたまま、カンナの夫によって砂漠に連れて行かれたのだとレンは考えた。
 レンの背中に両手を回し、胸に顔を埋めていたカンナを振り払うようにして部屋の外に出た。日が暮れている。この時期の砂漠の夜は凍えるほどだとイベリスが言っていた。
「待ちなさい!」カンナが叫ぶ。「逃がさないわ」
 レンは返事もせず中庭に出る大きな硝子の引き戸を開けた。どうしてそんなに素早く動けたのだか自分でも分からなかった。何か叫び続けているカンナを無視して羽ばたき、空に舞い上がる。
 空に上がると頭痛と眩暈が酷くなり、危うく墜落しそうになる。地面に足がついていない分、余計に平衡感覚が分からなかった。
 パキラの館まではそう遠くない。
 レンは自分を奮い立たせてもう一度大きく羽ばたく。高い位置まで飛ぶと、パキラの館の屋根が見えた。レンはそこに向かって滑り落ちるように飛んだ。
 イベリスの言うように大分冷え込んできていた。カリンは夏服に着替えていた。砂漠はもっと冷えるだろう。
 半ば墜落するようにして、なんとかパキラの館に着陸し、呼び鈴を鳴らした。扉を開けたのはパキラだった。
「レン殿。どうされた? 酷い顔色だ」
「イベリスを……」
 扉にすがっていても立っていられなくなり、レンはその場に膝をつく。
「レン!」
 背後からイベリスの声が聞こえた。
 レンは頭を動かすことができない。駆け寄ってくる音がしてイベリスの手がレンの肩に触れた。
「なかなか戻ってこないから診療所まで行ったんだ。でもすぐに帰ったと言われて……どうした? また熱射病か?」
 そう尋ねられ、レンは思わず笑いそうになった。確かに自分はポハクに来る度にこうして酷い頭痛と眩暈を味わっている。
「違う。……薬を盛られた」
「何だって? 誰がそんなことを」
 レンは一瞬答えに詰まった。
「……カンナだな」
 代わりにパキラがそう呟く。
「族長?」
 レンの隣に膝をついたままのイベリスがパキラを見上げる。
「カンナの夫は薬師だ。それに……カンナはカリン殿を逆恨みしている」
 イベリスが、はっとしたようにレンに向き直った。
「レン、カリンはどうした?」
 レンは漸く顔を上げた。その顔を見たイベリスが、とりあえず中に入ろうと言う。
 イベリスがレンを抱え上げた。ベッドへ連れて行こうとするのを、レンは此処でいいと言い、玄関を入ったところの部屋の長椅子を示す。パキラの館を訪ねた時いつも待たされる部屋だ。
 イベリスはレンを長椅子に横たえ、自分は近くに椅子を引き寄せて座った。パキラが水を持ってきてくれた。レンは礼を言って水を一気に飲み干した。水を飲んで横になると頭痛と眩暈が少しましになった。パキラはイベリスの隣に腰を下ろす。
 レンはイベリスとパキラに今日の午後に起きたことを話した。

 アベリアの診療所でカンナとすれ違った。そして、カリンとレンが用事を済ませて診療所から出ると、そこにカンナが待っていたのだ。
「薬師である夫のことで相談があるの」
 カンナは神妙な顔でカリンにそう言った。
「これからイベリスの所に戻らなければならないの」
 カリンは優しくそう答えた。
「すぐに終わるわ。うちはすぐそこなの、知っているでしょう? お願い」
 カンナが真剣な表情で言うのに負けて、カリンは承諾した。当然レンもついて行った。
 カンナの家に入ると、カンナは暑かったでしょうと言いながら冷たいお茶を出してくれた。
 それにひと口だけ口をつけたカリンが動きを止める。
「レン、飲んじゃ駄目!」
 そう言われた時、レンは既にそれを半分くらい飲んでしまっていた。
「カノコソウね? どうしてこんなことをするの?」
「何……?」
 尋ねようとして視界が歪んだ。
 「貴女も飲みなさい。そうすればレンを悪いようにしない」
 カンナが先程までとは人が変わったように冷たい声で言った。
 カリンがレンの方を見る。
 駄目だよ、とレンは言ったつもりだったが、声が出ていたかは分からない。そこから先のことをレンは憶えていなかった。
 目が醒めるとレンはベッドに寝かされていて、目の前にカンナが居たのだ。

 「それじゃあカリンは、薬を飲まされて砂漠に置いてこられたっていうのか?」
 話を聞いたイベリスの顔も蒼白になる。パキラはずっと黙ったままだ。
 レンは身体を起こした。少しは良くなったかと思った頭痛と眩暈は、ちっとも良くなっていなかった。
「おい、無理するなよ」
「……今、無理しなくていつするんだよ。カリンの命がかかってるんだよ?」
 レンは椅子に手をついてなんとか立ち上がる。イベリスも立ち上がってレンの身体を支えた。
「気持ちは分かるが……俺が探す。だからお前はここに居ろ」
「嫌だよ」
「……それでは飛べまい?」
 黙って居たパキラが口を開いた。レンはパキラの顔を見る。パキラはレンとイベリスの顔を交互に見た。
「お前もだ、イベリス。広い砂漠をこの暗闇の中、闇雲に探しても見つかる可能性はほとんどない。飛べるならばまだしも、馬で探し回るなんてそれこそ自殺行為だ。お前たちもどうなるか分からん。だからこそ死の砂漠と言うのだ」
「しかし族長、このままでは……」
 イベリスの言葉にパキラは頷く。
「そうだな。カリン殿は確かに危険だ」
「何で……こんな時に飛べないんだよ……」
 レンは声に出して呟く。涙はかろうじて堪えた。
「レン……」
「何で僕はいつも肝心な時に……」
 金色の馬の魔物の時もそうだった。弓を手に取ろうとして眩暈がした。その時は熱射病だった。そのせいでカリンは大きな傷を負ったのだ。
 今回だって、レンが居なければカリンは薬を飲まなかっただろう。
 カリンはレンのせいで危ない目に合っているのに、自分は飛ぶことすらできない。ひとりでは馬にすら乗れない。
 馬……
 レンは玄関に向かって一歩踏み出した。視界がぐるりと回る。
「レン! 無理だって……」
「イベリス、僕を厩舎まで連れて行ってくれ」
「おい」
「頼む。ガイアに会いたい。ガイアなら……きっとカリンを見つけられる」
 イベリスがレンの顔を見詰める。レンも真っ直ぐに見詰め返した。
「ガイアか……」
 イベリスが呟いた。
「ポハクに着いた時、ガイアが珍しく暴れたんだ。ガイアは、何か感じていたのかもしれない」
「……分かった。行こう」
 イベリスはレンに言い、パキラの方を向いた。
「族長。俺たちは、行きます」
「凍えぬように、準備してゆけ」
 パキラはひと言そう言った。

 身支度をしてカリンの上着を持ち、イベリスの肩を借りて厩舎に向かった。途中、背負ったほうが早いとイベリスは言い、結局レンはイベリスに背負われる。
「情けないとは思うなよ。俺だってお前の背中に乗って飛んだだろう?」
 イベリスは先回りしてそう言った。
 厩舎に着くと、入口に居た男がほっとしたような顔をした。聞くとガイアが馬房で暴れているのだと言う。
 さすがにイベリスの背中から降り、再び肩を借りて馬房まで行くと、ガイアは扉に身体をぶつけ、外に出ようとしていた。レンたちの姿を見るとぴたりと止まる。
 レンは馬房の扉に掴まって立ち、ガイアの顔を見た。そのまま扉の錠を外す。ガイアは静かに馬房から出てきた。馬房から出るとレンに背を向けたまま止まっている。
「乗ってもいい?」
 レンはガイアに声をかけ、イベリスに助けてもらいながらガイアに跨った。
「カリンは多分、砂漠に居るんだ。ガイアなら探せるかな」
 イベリスが自分の愛馬であるアカネを連れに行っている間に、レンはガイアに向かって語りかけた。レンはカリンやヨシュアのようにガイアと意思の疎通はできない。一方的に語りかけるだけだ。
 ガイアがレンに向ける瞳はいつもただ静かで、レンにはガイアが何を考えているのか分からない。
 それでも背中に跨っていると、拒否されていないことは分かった。
 イベリスがアカネを連れてくると、ガイアは何も言わなくても歩き出した。レンはイベリスと顔を見合わせて頷いた。
 町の入口を出ると外はほぼ闇一色だった。月は出ているが細い三日月で、広い砂漠を照らすには心許なかった。
 少し砂漠を進んだところでガイアが立ち止まる。背中からはガイアの顔は見えない。耳がひくひくと動くのだけが見えた。
 そして再び歩き始めたガイアはすぐに駆け足になり、ぐんぐんと速度を上げた。レンはガイアの身体が上下するたびに感じる頭痛と眩暈に耐えながら、振り落とされないよう、しかし手綱を引っ張りすぎないように、必死でバランスをとっていた。

鳥たちのために使わせていただきます。