物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 4 ルクリアの話
-ルクリア-
五歳になると、女児は雨乞いの才があるかどうかを試される。
つい数年前まではそうだった。
「水の化身」としてエリカと共にアグィーラに戻る使節団を見送った後で、雨乞いの宮の冷たい回廊を歩きながらルクリアは想いを馳せる。
太陽光発電。
また、新しい技術がひとつ、生み落とされるらしい。電気というものが発明された今、雨乞いの女は必要が無くなった。雨乞いの女とはすなわち、体質的に体内に帯電する量の多い人間というだけのものだったからだ。
元雨乞いの女だった者のほとんどは、ワイの町の新たな産業である医療の現場へと雇われていった。もう、新しい雨乞いの女は生まれることはない。それを、ルクリアは特に寂しいとも虚しいとも思わなかったが、こんなにもあっけなく覆ってしまう常識に、自分は随分と翻弄されてきたものだと少し可笑しく思った。そういえば「水の化身」ですら、特別な力がある訳ではなく、ワイ族ならば誰だって良かったのだ。
初めてワイを離れてアグィーラへ向かうことに、ひどく期待と緊張をしていた、あの時の自分に教えてやりたい。
*****
アグィーラから派遣されている傭兵たちが連れていってくれるから安心しなさいと言われて、安心できる筈がなかった。
アグィーラから派遣されている傭兵とはつまり、男たちだ。幼い頃から男女隔離の環境で暮らしてきたルクリアにとって、男たちと旅をすること自体が恐怖でしかない。エリカの使用人の女が数名ついてくれることになってはいたが、断れるものならば断りたかった。しかしルクリアには、エリカの言うことに逆らうという選択肢は無かった。
ルクリアの気持ちとは裏腹に、両親たちは自分の娘が水の化身に選ばれたことに浮かれていた。支度金を十二分に渡され、どんなドレスを準備しようかと話し合っている両親にルクリアは控えめに告げた。
「お父様、お母様。今回のお勤めは、アルカンの森の試験なの。晩餐会はありますものの、式典に出席するわけではありませんのよ。動きやすい服装が良いと思いますの」
「ああ、そうか。私たちはてっきり……」
そう。まだ、アルカンの森に選んでもらえるかどうかも分からない。集まった面々の中で、自分だけが選ばれなかったらどうしようという不安の方が大きかった。
「まだ、本当に選ばれるか分からないのに、変に目立ちたくはありません」
「大丈夫だよルクリア。あのエリカ様のご指名なんだ。森に選ばれない筈がない。私たちは信じているよ」
許嫁を決めてきた時と同じような根拠の無い自信を滲ませて断言する父親に、ルクリアは笑顔で同意することも、かといってあからさまに反論することもできずに、気持ちの整理をしたいからとだけ告げて自室へ戻った。
ルクリアには歳の離れた兄が居たが、ワイでは異性の兄弟姉妹が二人きりになることも許されてはいなかったので、両親の居ないところで不安な気持ちを吐露するわけにもいかない。親しい雨乞いの女たちは、ワイを出てアグィーラへ行くことのできるルクリアを羨む言葉しか発していなかった。行きたくないと言えば贅沢な悩みだと思われるだけだろう。
これは、ワイ族として名誉なことだと思わなければならないのだろうか。
思えない自分は、普通ではないのだろうか。
腰掛けたベッドが軋んでたてた音がやけに大きく響いてどきりとする。
「きっと、誰も分かってはくれないのだわ」
気持ちを落ち着けるように声に出して言ってみた。まるでもうひとりの自分が、自分に話しかけているかのように。
そうね、と、自分の中の自分が答える。
「いつからだったかしら」
ーー雨乞いの女に選ばれた時は嬉しかった
「そう、あの時は嬉しかった。でも……」
ーーそう。雨乞いの女は想像していたよりも沢山居て、わたくしがひとりいなくたってきっとワイは困らないと思った
「それで良かったの。それに安心している自分が居たの」
水の化身はワイ族でたったひとり。
しかし、きっとこれは名誉なことなのだ。自分は、慣れない旅を不安に思っているだけ。行けばきっと楽しめる筈だ。
無理矢理自分を納得させて向かったアグィーラへの旅路自体はなんということはなかった。アグィーラから来ている傭兵たちは皆礼儀正しくて優しかったし、乗馬も、上手くはないが嫌いではなかった。傭兵たちがルクリアの技量に合わせてゆっくりと進んでくれたおかげで、普段見慣れない景色を眺めている間にアグィーラへと到着した。
初めて見るアグィーラの城下町は最初何もかもが大きく見えて圧倒されたが、よく見ると綺麗に整備された町並みは、規模こそ違えどそれほどワイと差がない。城の前へ到着するまでには気持ちは随分落ち着いていた。
城の正門には、それなりの位の人間だと分かる人々が整列しており、ルクリアは再び怯みそうになったが、国事に関わる化身たちの選出なのだから、そういうものだろうと心の中で繰り返した。
案内に立ってくれたのは先日ワイに公使としてやってきた官吏で、顔に見覚えがあったが、挨拶をした後はごく儀礼的な言葉しか聞くことはできなかった。
「こちらが、今日から三日間お使いいただく部屋です。こちらが鍵になります。基本的に朝とお昼は時間になったら係の者が部屋まで食事を運んで参ります。夜は、本日は晩餐会が予定されておりますので、お時間になりましたら係の者がお迎えにあがります」
案内の官吏は男性だった。父親以外の男性と話し慣れていないルクリアは承諾の返事程度しか出来ない。途中すれ違った官吏たちも多くは男性で、改めてワイの特殊さが身に沁みた。ひとりで部屋に入ると、自分で思っていた以上に疲労を感じて、目に入った長椅子に腰かけたまま暫く動けなかった。他人に見られたら行儀が悪いと思われると思いながら、長椅子にもたれた姿勢のまま天井を眺める。天井が高い。さすが城だ。自分の部屋とは違う。ああでも、雨乞いの宮も天井は高かったかしら。
姫は想像していたとおりの容姿だったが、想像していたよりも気さくな人柄で、自ら先に挨拶をし、アグィーラ人だという他の二人を紹介してくれた。その次に自己紹介したのは快活なポハク族の男で、ルクリアは反射的に、仲良くなれそうにない、と感じた。アヒ族の女は少し年上らしく、落ち着いている。最後にマカニ族の男がそっけなく挨拶をするのを聞いて、ルクリアははっとした。
この人も、化身に選ばれたことをそれほど喜んでいないのかも知れない。
マカニ族は北方に住んでいるせいか色が白い。翼を除けば見た目がワイ族に近く、親近感が湧いた。初めて目にする翼も、うっとりするほど美しかった。
晩餐会では主賓の席へ座らされた。ひっきりになしに誰かが挨拶しに来るものの、同じテーブルについているのは化身の面々だけで、比較的気楽だった。ポハク族の男がずっと話をしていて、自分で話題を考えなくてもよいことも幸いだった。
ルクリアは、ポハク族の男の話の合間に、意を決してマカニ族の男に話しかけてみた。男はレンという名前らしい。
「ここに来るのに緊張しませんでした?」
「うーん。そうだね。緊張というか、僕はこういう堅苦しい場は得意ではない」
「俺もだ」
ポハク族の男が割って入る。
「得意な人なんているの?」
アヒ族の女も同調する。
ルクリアの意図とは少し違ったが、レンが感じよく答えてくれたことには満足できた。ポハク族の男とアヒ族の女も悪い人ではないらしい。うまく、やって行けるかも知れない。ああ、でも……
「明日、自分だけ、森に選ばれなかったらと思うと……」
思わず不安を口にしていた。
「ふふ。そうね。まあ、それはそれで仕方がないじゃない」
「まず俺たちを選んだのは族長たちだしな。俺たちのせいじゃないさ。それとも何か? ワイ族は色々掟が厳しいって聞くけど、何か咎めでも受けるのか?」
「さすがにそれはないとは思いますけれど……」
「僕はやっぱり選ばれなかったら少し気まずいかな。一応みんなの期待を背負ってきたわけだし」
「おお優等生」
「茶化さないでよ」
そう。その期待が苦しいのだ。
レンは、きっと自分の気持ちを分かってくれる。
選ばれたことは名誉なことだと思わなければならないことが、そう決めつけられることが苦しいのだ。選ばれた人間であることが嬉しくない人間だって居るのだということを、誰かに分かって欲しかった。
でも、もし、自分がアグィーラに来ることが、レンに出会うためだったとしたら? ああ、そうだったならば良いのに。
*****
雨乞いの宮を出たところで、シレネに会った。
族長補佐であるシレネは、アグィーラから来ていた使節団をワイの正門まで送っていった筈だった。その割には随分と早い。いや、もしかしたら自分の方が長居してしまったのかも知れない。確かに使節団を送り出した後、少しの間エリカと話をしていたし、久しぶりの雨乞いの宮の回廊を必要以上にゆっくりと歩いていた気もする。
雨乞いの宮の回廊が以前より冷たく感じたのは、久しぶりだったせいだけではなく、きっとギリアが育てていた植物が無くなったせいだ。前族長補佐であったギリアが死んでから、エリカは雨乞いの宮の中の植物を半分以上処分してしまった。本業が医師である新しい族長補佐のシレネも、植物には興味がないようだった。薬師であるカリンは、あんなに植物に詳しいのに。
「お見送りお疲れ様でした」
「いや。ルクリア殿もお勤めご苦労様です」
「あの……アグィーラを離れて寂しいと感じることはありませんか?」
自分が初めてワイを出てアグィーラへ行っていた時のことを思い出していたからか、普段はあまり話をすることのないシレネに余計な質問をしてしまった。シレネは一瞬怪訝そうな表情をしてから、ふっと息を吐いた。
「ルクリア殿はまだお若い」
「え?」
「私くらいの年齢になると、何事も無いものねだりであることが分かってきます」
「仕方のないことだと諦めがつくということでしょうか」
「まあそれに近い。アグィーラは確かに私の生まれた土地ですが、あそこには私の求めるものがもう無かったのです。ですから、今回のようにアグィーラ人が……しかも官吏が訪ねてくれば懐かしいとは思いますが、戻りたいとは思わない」
「ワイには、シレネ様の求めるものが、まだあるのですね」
「ええ。エリカ様が与えて下さいました」
ああそうか。シレネは「選ばれたかった人」なのだ。
求めるものの為ならば、多少の不便や寂しさなど、気にならないというわけだろうか。それでも、寂しさという感情は別物ではないだろうか、とルクリアは思う。理屈ではなくて感情なのだから。
しかし、深追いすることはやめた。シレネはルクリアのことを若いと言ったが、ルクリアにだって、人生は無いものねだりの連続だということは理解できた。どこかで折り合いをつけなければ、本当に大切なものを見失ってしまう。
「どうかご無理なさいませんよう」
「ルクリア殿は……」
意外なことに、会釈して立ち去ろうとしたルクリアにシレネは言葉を続けた。
「はい?」
「いえ……ルクリア殿は何故医療の場へ移ることを拒まれたのですか?」
「積極的に拒んだわけではありませんわ。もちろん人の命をお助けするお仕事は素晴らしいと思いますが、わたくしにはそれ以上に、農家に嫁ぐということが魅力的だったのです」
農家の持つ魔法の手。天候を読み、土を耕し、種を蒔き、命を育み、その恵みをいただく。地に足のついたその一連の魔法を、自分も手に入れたかったのだ。
「医療機関の方が待遇が良く、今やワイの花形の産業であっても、ですか?」
「ええ」
野心家のエリカと野心家のシレネは、気が合うのかも知れないな、と思いながらルクリアは穏やかに微笑んで見せた。
以前ならば、自分がおかしいのだろうかと考えたことだろう。しかし今のルクリアは、人の価値観は様々だということを知っていた。
今度こそ本当に別れの挨拶を交わしてシレネと別れたルクリアは、雨乞いの宮を背にしながら、ワイの正門まで一直線に続く大通りを少し急足で歩き始めた。
今ならばまだ午後の仕事に間に合うかも知れない。
空気は冷たいが、美しい青い空の下、ほのかに香る土の香りを想像しながら、ルクリアは真っ直ぐに、今も夫が仕事をしているであろう畑を目指した。
鳥たちのために使わせていただきます。