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物語の欠片 韓紅の夕暮れ篇 16
-レン-
アキレアの館に着いたのは十九時を少し過ぎた頃だった。
夕食中かもしれないと考え、玄関口で使用人に伝言だけ頼むつもりで呼び鈴を鳴らしたのだが、出て来た使用人はアキレアから返信があるかもしれないから少し待つようにと言い、レンを玄関付近の簡易な応接間のようなところへ案内して奥へ消えた。
アキレアの館は、先のフエゴ火山の噴火で甚大な被害を受けており、所々に修復の痕があった。それでも、完全に壊れてしまった物見の塔以外は造り直さずに、修復して使っている所に、アキレアの人柄が出ているように感じる。
アキレアは元はアヒの戦士だったと聞いている。今の朗らかな雰囲気からは想像し難いが、随分と勇猛果敢な戦士だったようだ。魔物と闘っているアキレアを一度見て見たいと思うのは、レンが戦士であるからこその興味だろうか。
使用人はすぐに戻って来たので、アキレアはアグィーラの使節の来訪を難なく承諾したのだろうと思い、帰るために立ち上がると、使用人はアキレアが呼んでいると告げた。
「え? 何か不都合でもあったのでしょうか」
「さあ。わたくしはただの案内人ですから、詳しくは分かりません。とにかく中へ」
それを告げた時のアキレアの表情で、好意的なものかそうでないかは分かりそうなものであるが、そのことを使用人に問いただしても相手を困らせるだけだろうと考え、レンは素直についていくことにした。
アキレアとツバキは、まさに今、食事を始めたところらしく、ほとんどの料理には手がつけられていなかった。
レンが非常識な時間の訪問を詫びると、アキレアはそれをいつもの豪快な笑いで否定した。機嫌は良さそうだ。
「いやいや、構わぬ構わぬ。レン殿ならばいつでも歓迎だ。それより、このような時間に伝令をせねばならぬ事態に巻き込まれていることに同情する。どうだ。せっかくだから夕飯を食べてゆかぬか?」
「それはとても有り難いお言葉ですが、アグィーラへの戻りが遅くなりますから、今回は遠慮したいと思います」
「アグィーラへは、急いで返事を持って戻らねばならぬのか?」
「いえ、明日の朝で良いと言われています」
「それならば……」
「アグィーラで、夕食を作って待っている方が居るのではないですか? あまりご無理を強いても……」
珍しくツバキが口を挟んだ。
「おお。そうか。帰りが遅ければカリン殿が心配するかな。しかし、このまま何もせずに帰すというのも芸が無い。せめて飲み物と軽食だけでも。そのくらいなら良かろう?」
確かに、やや空腹を感じてもいたし、喉は乾いていた。待っているカリンも、伝令とはいえ、レンがアキレアの元を訪れたならば少しは話し込むであろうことも想定内だろう。レンは、申し出を有難く受けることにした。
ポハクの族長パキラの館と違い、夜でも多くの人が働いているようなので、率直にその印象を述べると、アキレアは、ここで働いている者は希望すれば家族も一緒にこの館の敷地内に住むことができるのだという。確かに敷地内には、レンが立ち入ったことのない離れのような建物が在った。
「食事もな、食べるのは別々だが、ここに住み込みで働いている者たちの分もまとめて作るのだ。まあでも大抵は、子供ができたら出て行って自分たちの家を持つ者が多いな。その場合は勤務時間も短く変える。しかし有難いことに、一定数はここに住みたいという者もおってな、それで何とか回っておるよ」
アキレアは相変わらずよく話したが、アグィーラの状況は尋ねないでいてくれたのでレンはほっとした。一見豪快なように見えるが、この辺りの気遣いは意外と細やかなのかもしれない。話題は主にマカニのことだった。
何度か訪れたマカニの思い出を語り、フエゴとの暮らしの違いを語る。所々にレンへの質問を挟んだ。最後には、一度ツバキを連れて行きたいと言い、一時限に満たない会食は終わった。
アキレアの館からアヒの村の入口へ歩く途中、レンは、そういえばアヒには街灯が在るのだということに気がついた。
空を見上げると、星空は見えたが、やはりマカニほどは鮮明ではない。
以前レンが見たフエゴの星空は、見張りに立った山の中からのものだった。アヒの村の中からだとあの星空が見えないのだと思うと、レンはやはり残念に感じてしまう。
しかし、アキレアの館から村の入口に続くこの通りは、アヒの村の目抜き通りだ。暗ければ不便であることも理解はできた。
この時間はまだ村の中に往来がある。レンは幾人ものアヒ族とすれ違った。翼を持つマカニ族の客人へ、珍しそうに、しかし遠慮がちに視線を送るアヒ族の人々。声をかけてくる者は居ない。
アキレアやネリネ。レンの知るアヒ族は明るく、気持ちの良いほどさっぱりした人柄の人物が多い。しかし、ネリネの夫のセリは、芯は強そうだが控えめな性格だ。アヒ族にも色々な人が居るのだろう。
レンはこれまで、自分なりに真っ直ぐ生きてきたつもりだが、人にはそれぞれの「真っ直ぐ」があるのだということを殊更に感じた一日だった。自分の信念も、いつかどこかで誰かを傷つけてきたのだろうか。誰かに、妬みという感情を植え付けてきたのだろうか。
クコが見せた哀しそうな表情を思い出して、レンは胸が痛むと同時に、背筋の寒くなるような感情を覚えた。
レンはクコが好きだ。クコの、仕事に対する姿勢を尊敬している。しかし、そうではない人も居るということを知った。そのような人々を、考えた方違うからと言って、一概に切り捨てることはできるだろうか?
個人の付き合いの中ではできるのだろう。それが、仕事や、集団として成さなければならない何かの中では難しい。村や町、国を治めるとなれば尚更だ。
自分に、何ができるだろう。
人に妬みという感情を植え付けることを恐れて、自らの腕を磨くことや目標に向かう努力を止めることは違うように思う。
「難しい問題だな」
アヒの村を出て、街灯の無くなった場所で空を見上げながらレンは呟いた。アヒの戦士が立っているであろう見張り台の灯りが少し遠くに見える。
レンの姿は、あそこからは大きな鳥の影に見えるだろうか。
レンはなんとなくはっきりしない問題をアヒの村に残して行くような、もどかしい気持ちのままアグィーラを目指して大きく羽ばたいた。
アグィーラの南門からヨシュアの家へ向かう途中、工房地区でちょっとした騒ぎに出くわした。余所者は関わらない方が良いかと思ったが、気になったので少し近くに寄ってみると、小さなガラス工房の前に人だかりができている。
近くに居たアグィーラ人に何事かと尋ねると、あの工房の身内が何らかの罪で囚われの身になったのだと教えてくれた。それでは、あの工房がトレニアの姉の工房ということか。
ヨシュアの工房とは離れているので、おそらくカリンやヨシュアは騒ぎに気がついていないだろう。
雰囲気を観察すると、罪を犯した者の身内を責め立てているというよりは、同情する様子が感じられたので、レンはひとまず安心した。
翼を持つマカニ族はただでさえ目立つ。長居しない方が良いだろう。教えてくれたアグィーラ人の男に礼を言うと、特に興味は無いという風を装ってその場を離れた。
「遅くなってごめん。アキレア様に食事に誘われて、完全には断れなくて」
迎えてくれたカリンに謝ると、カリンは笑って首を横に振った。
「なんとなくそんな気がしていたわ。時間が時間だったから、そうかもしれないって。それじゃあ、夕食は済んでいるの?」
「長居しない程度に頂いて来たよ。それほどお腹は空いていない。とりあえず湯を浴びてくる」
「それじゃあ、飲み物と、少しつまむものくらいでいいかな」
「うん、十分だよ。ありがとう」
席を外す前に先ほどの騒動のことを話した方がいいだろうと思い、簡単に様子を伝えると、カリンとヨシュアは顔を見合わせた。
「もしかしてヨシュアさんの知り合いだった?」
「いや。工房の存在は知っていたが、個人的な付き合いはない。馬具にガラスは不要だからな。日用品も、別の工房から買っている」
「そう。良かった……と言っていいのかな」
「まあ、何とも言えないな。ただまあ、職人てのは、思い込んだら良くも悪くも一途なところがあるから、悪い方に転ばなければいいと思う」
自分自身職人であるヨシュアが言うと説得力があったが、冷静に分析するのが可笑しくもあった。確かにヨシュアも、一見付き合いにくそうに見えるが、その実、真っ直ぐで情に厚い。
「様子……見て来ようかな」
すっかり夜着に着替えていたカリンが言う。
今度はレンとヨシュアが顔を見合わせた。
「同情をした人々が暴動を起こすようなことがなければ良いけれど」
カリンは呟くように続けた。
「今回のトレニア殿の罪はどれくらいのものなのかな?」
「えっと、たぶん、器物損壊と……公務執行妨害に当たるのかしら。どちらも最大数年の懲役か、軽ければ月収分くらいの罰金だと思う」
「重い方と軽い方ではずいぶんな差があるね」
「そう。だから、嘆願程度なら良いと思うの。でも、身内がお城の裁きにたてついたとなったら、重い方の罪に問われる可能性があるし、下手をすると暴動を起こした人々も捕らわれてしまうわ」
「でも、カリンが行ってどうするのさ。自分は官吏だ、って名乗り出て助言するわけ?」
「うん……そうよね。何もできないかもしれない……」
カリンは、トレニアの罪を暴いたのは自分だと考えているに違いない。元々、なるべく罪が軽くなるように動こうとしていたのかもしれない。しかしそれを見知らぬ人々に約束するわけにもいかないし、信じてほしいとも言えないだろう。
結局、カリンは外へ出ていくことを諦めたようだった。
レンは、カリンをヨシュアに任せて浴室へ向かう。
フエゴを発つ時に自分が感じていたもどかしさと、カリンの感じているであろうもどかしさを、湯で洗い流してしまいたかった。
クコは今頃どうしているだろう。
流しても流しても、消えるどころか、もやもやする気持ちは積もっていくばかりだ。
レンは、いつもより随分と長い間湯を浴びたままでいたのだった。
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