見出し画像

なぜロシアはウクライナに「侵攻」したのか?歴史から読み解く

noteに初めて投稿する理由

ウクライナ現代史を専門に大学の卒業論文を執筆し終えた1月中旬より1か月が経過したとき、ロシア・ウクライナ国境地帯に数十万を超えるロシア軍が配備されたニュースが報道された。間もなくロシアがウクライナへ「侵攻」を開始、連日のメディアによるウクライナ関連の報道は日を増すごとに過熱している。

しかしながら、テレビに出演してウクライナの出来事の経緯を解説・分析する専門家の肩書をよく見てみれば「ウクライナ専門家」はほぼ見つからない。たいがい「欧州政治が専門」か「ロシア内政に詳しい」学者および研究員だ。つまり日本人のウクライナ研究者はきわめて希少なのである。ウクライナ政治やウクライナ史について日本語の学術文献が数えるほどしかないことは、卒論執筆の際に痛いほどよく理解している。

「ロシアはなんで急にウクライナに攻撃を仕掛けたの?」
「そもそもウクライナとロシアってどんな関係性?」
「ウクライナの首都キエフが『ロシア人の聖地』って本当?」

曲がりなりにもたった1年間だが、ウクライナ現代政治や中世から現代へ及ぶ建国史、ポーランドやロシアをはじめとする諸外国との歴史認識の相違について様々な書籍・論文を、外国語文献も含めて読んだ。多かれ少なかれウクライナに愛着を持つ、そんな自分に何かできることはないかと考えていたとき友人から背中を押され決心した。このnoteを発信源として「ロシアによるウクライナ侵攻を理解するために必要な背景知識や情報を伝達・整理すること」に至ったのは、そういった理由である。


ロシアとウクライナ 1000年の歴史

現在の東ヨーロッパの地図(2022年3月13日 Google Mapsより)

両国共通の起源、キエフ・ルーシ

元を辿ればロシアとウクライナは一つの同じ国だった。それが9世紀終わり頃に成立した「キエフ・ルーシ(キエフ公国)」である。 
「ルーシ」とは、現在のウクライナのちょうど中央部を南北に流れる河川、ドニエプル川流域で活動した商人団であり、「ロシア(Russia)」という国名はこの「ルーシ(Rus)」からきている。
およそ300年ほど続いたこのキエフ公国は、13世紀にモンゴル勢力の征服に遭い消滅した。しかし公国の北東部に位置したモスクワ公国は、断絶することなくその文化や制度を継承し、のちのロシア帝国へ発展した。988年にキエフ大公ウラディミル1世がギリシア正教を国教と定め、またキリル文字がこの時代から普及し始めるなど、これらの文字や宗教は後世のロシア文化の基盤となった
「キエフ(ウクライナの首都)はロシア人の聖地だ」
とする最近の言説・主張の裏側には、こういった歴史的背景がある。
◎この歴史観は主にロシアの歴史家が唱えており、対するウクライナの歴史家の多くはこれを認めていない。(ソ連およびロシアの過酷な専制中央集権的な支配システムは、当時のキエフ・ルーシの体制とは全くかけ離れているため)

歴史的にポーランドと関係が深いウクライナ

2022年3月1日、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)はロシアの侵攻開始から67万7000人が国外に避難し、うち半数がポーランドに来ていると発表した。

(2022年3月2日放送「news every.」より)

「ウクライナと国境を接する国はベラルーシ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどと数多くあるのに、なぜポーランドに多く難民が集まるの?」

13世紀のモンゴル支配が終わると、キエフ・ルーシ領域はポーランド・リトアニアの間で分割が行われる。そして1569年にポーランドは現在のウクライナに当たる大部分の地域を獲得した(=ルブリン合同)。
つまり、ウクライナとポーランドも実質的には同じ一つの国であった歴史的背景があるのである。

現代のポーランドは、ウクライナを含むEUの東方近隣諸国6カ国を対象とする「東方パートナーシップ」でリーダーシップを発揮しており、ウクライナの欧州統合を積極的に支援している。2014年のクリミア併合以降も、ポーランドは対露制裁の強化・維持や、ウクライナ人短期渡航者向けEU査証の撤廃をEU内で訴えるなど、EUでウクライナの利益を代弁する役割を担っているのである。

ただ400年前は、簡単に言えば「ポーランド人=貴族」で「ウクライナ人=農民」の時代。
そんな17世紀は、初めて「ウクライナ人によるウクライナ人のための闘争」が行われた時代だった。それが1648年の「フメリニツキーの乱」と呼ばれる、ウクライナ人コサック vs ポーランド軍の戦いである。

「ウクライナの自然な保護者がロシアである」?

以下少し話が難しいが、ロシアとウクライナの関係にとって重要になるのがここから。
最終的にポーランド軍に敗れたフメリニツキーは、1654年にロシアと協定を結び、ウクライナ・コサックの自治国家を作ることに成功した一方で、自治国家に対するロシア皇帝(ツァーリ)の宗主権を認めた。
つまり、これをもってウクライナはロシアに従属し、ロシアはウクライナの内政や外交を監督する権利を獲得したのである。ソ連史的には、この協定は「ウクライナの自然な保護者がロシアであることの表れ」と主張されている。
※もちろんウクライナ史学ではこの主張は否定されている。(ロシアとの同盟は対ポーランド戦における戦術の一つに過ぎず、オスマン帝国などその他の国との同盟も絶えず探られていた)

18世紀末、3度のポーランド分割ののち、西端部を除いてウクライナの大部分がロシア帝国領に組み込まれた。この頃からウクライナ地域は「小ロシア」と呼ばれ、ウクライナはロシアの帝国的支配を受けた。さらに「ウクライナ(辺境、国境地域)」の名前もこの時期から用いられ始めた。

1920年代にはソ連の最高指導者スターリンが独裁体制のもとで「ホロドモール」と呼ばれる歴史的大飢饉がウクライナを中心に発生し、300万人を超える餓死者を出した、とされている
※(2006年のウクライナ議会をはじめ米英など西側諸国では「ホロドモールはウクライナ民族を標的にした民族虐殺(ジェノサイド)」であると公式に認定しているが、ロシアおよび親露のウクライナ元大統領ヤヌコーヴィチらは「ウクライナ人に限らずソ連諸国に居住する民族共通の悲劇であって民族虐殺ではない」と否定しており、東西で見解が分かれている。)

ウクライナ東部の問題とプーチンの発言「ウクライナの非ナチ化を目指す」の意味は?

ドンバス地方の分離独立問題(2015年4月7日 AFP BBNews記事より引用)

東部ドンバス地方について
「数百万人の住民に対するジェノサイド(大量虐殺)、これを直ちに止める必要があった。ウクライナの非ナチ化を目指す。」

2022年3月9日放送「カンテレnews」より引用

上で引用したのは、2014年以降、紛争状態が続くウクライナ東部のドネツク州やルハンスク州といったドンバス地方に言及したプーチンの言葉だ。

ウクライナ東部は歴史的にロシア領だった時期が西部地域よりも長く、ロシア語話者も非常に多い。2001年の国勢調査では、ドネツクやルハンスクの住民のおよそ4割が「自分はロシア人だ」と表明している
またドンバスは石炭の産地として有名な工業地帯であり、政治的にはオリガルヒと呼ばれる新興財閥が支持を集め、地方政治の実権を握っている。
(※2022年3月12日、アメリカ政府はオリガルヒへの経済制裁を発表した

原材料の供給を通じて、戦後ソ連の軍事産業や宇宙産業を支えてきた歴史を持つウクライナ、特に東部はロシアとの関係が非常に深いのである。
だからこそ政治的にも東部は保守派(ロシア寄り)や共産党の支持が厚く、オリガルヒに有権者が票を集めるのが実情だ。
それゆえプーチンは、ウクライナから独立を望む東部住民をロシア側に取り込み、ロシア経済圏を守るため、「東部住民に対するジェノサイドがあった」と言いがかりをつけ、軍事侵攻を開始したのであった。


またウクライナとの開戦理由に、プーチン大統領はしきりに「ナチ」の言葉を持ち出す
しかし世界的には「ロシアの一方的な侵攻の方が、かつてのアドルフ・ヒトラー率いたナチス・ドイツに近い」という見解が多く、これが「プーチンが神経に変調をきたしている説」の論拠の一つになっていたりもする。(2022年3月9日Yahooニュース記事参照)

プーチンがウクライナとナチスを強引にも結びつけるのは、第二次世界大戦期の歴史が背景にあるからだ。それが、主に1920年代から1940年代に活動したウクライナ民族主義者組織(OUN)ウクライナ蜂起軍(UPA)の歴史である。実のところ、筆者の学部卒論の研究テーマは、まさにこのOUNとUPAの歴史についてであった。(詳細についてここでは省略)。

ウクライナ人がナチスと協力した過去

1941年6月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、突如独ソ戦が始まった。ソ連西部、すなわちウクライナにドイツが侵入すると、ソ連からの完全な独立を目指すOUNは、ドイツの侵攻と占領を「解放」と位置付けて歓迎した。ドイツがウクライナの独立を後押しすると期待したからである。
こうして、ナチスによるユダヤ人殺害(ホロコースト)に積極的に加担するウクライナ人が現れた。その中心的な人々が、OUNの軍事組織で、前述のウクライナ蜂起軍(UPA)だった。
しかしドイツ側に独立後押しの意図はなく、UPA指導者らを一斉に逮捕、ドイツ国内で収監した。結局、終戦までウクライナ蜂起軍はドイツとソ連、両者を相手に独立闘争を展開したが活動は1954年ごろ停止。ウクライナは終戦後もソ連の一部であり続けた。

こうして、OUNやUPAのようなウクライナ民族主義的な運動や言論は、ソ連の「公式の歴史」の中で「ナチス協力者」「ソ連に対する裏切者」として語られ続けたのである
※「公式の歴史」というのは、しばしばソ連やロシアで見られる現象で、国家として承認している唯一の正しい歴史の語り、という意味である。3月に改正された、(ロシア国家にとっての)「フェイク」ニュースを流布した者を最大15年禁錮の刑に処するロシアの報道規制法と共通する部分がある。

つまり、プーチンはこの「ナチス vs ソ連」という伝統的なソ連史上の構図(「大祖国戦争」とも呼ばれる)を用いて、ロシア大統領直々に「ソ連公式の歴史」を語っているという状況が形作られた。
プーチンはウクライナを「ナチ」呼ばわりすることで「非ナチ化」を名目の一つにして無理やりウクライナへの軍事侵攻を開始したのであった。

※ちなみにウクライナ国内では、OUNやUPAに対する評価は定まっておらず、「ナチスと協力したテロリスト」と考える東部、「民族独立のために戦った英雄」と考える西部、そして「どちらともいえない、わからない」と考える傾向の強い中央部にだいたい分かれる。

おわりに

歴史を知れば、プーチンがウクライナを手放したくない理由が見えてくる

1991年のソ連崩壊後、NATOはバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)をはじめ多くの旧ソ連構成国を加盟国として取り込み、否定的な反応を示しながらもNATOの東方拡大を許してきた。
しかし、「ウクライナだけは手放してはいけない。」
プーチンがウクライナにここまで固執する裏側には、もちろん地政学的な緩衝地帯としての意味もあるが、実は両国が共有してきた歴史が大きく関係している。

以上のような歴史的背景から、ウクライナを「弟」であり、自分の「分身」でもあると考えるロシア。この2022年に軍事侵攻がなぜ実行されたのか、歴史を紐解けばその理解がより一層深まる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?