またね、ばあちゃん

今年もお盆が終わった。
小学校に上がる年に両親が離婚し、母方の祖母と一緒に暮らしていた私には「帰省をする」という概念もなかったので、お盆に対しては、混雑する新幹線をニュースで見ながら「夏休みにやってくるゴールデンウィーク」くらいのイメージしかなかった。

なので、先祖の霊を迎えて供養するという大切な時期だということを知ったのは祖母が亡くなってからだった。

祖母とは本当に長い時間を過ごした。母は日中働いていたので、家に帰った私を迎えてくれるのはいつも祖母だった。
一緒に祖母が聞いているラジオを聴いてあれこれ感想を言ったり、暑い部屋でアイスを食べたり、公園でキャッチボールをしたり...
ラジオが好きになったのも、生まれる前の古い歌を知っているのも確実に祖母の影響だ。

そして、今でも感謝していることがある。それは、礼儀作法に厳しかったことだ。挨拶やご飯の食べ方で何度も注意を受けた。うっとうしいと思うこともあったが、社会人になった今本当に感謝している。

だが、年が上がっていくにつれて素直に祖母と接する事が出来なくなった。
「どこ遊びに行くの?」「何時に帰ってくるの?」
心配してくれているからこそなのだが、祖母が一々聞いてくることがうっとうしくなった。

それは、一人息子がある程度の歳になり、夜遊んだり休日に友達と出掛けたりすることが増えた私の母にも向けられた。
母と祖母の口喧嘩は日に日にひどくなっていき、祖母がパーキンソン病を発症してからは介護でもめることも増えた。
母と祖母の板挟み状態になることもあった。

そんな私は、「大学は誰にも縛られない環境でいたいから絶対に一人暮らしをする!」と決意を固め、本命から滑り止めまで全ての大学を関西圏にした。結果、龍谷大学に無事合格。晴れて一人暮らしを始めた私は、誰にも縛られない環境を手に入れた。

だが、家族と過ごす時間はめっきり減った。毎日当たり前のように同じ時間を過ごしていた家族と会うのは年間でも10日前後となった。

毎日うっとうしいと思っていた祖母にも年間で10日しか会えないのは正直寂しかった。更に、高校卒業前からパーキンソン病の進行が早まり、会うたびに祖母は痩せ細っていった。弱っていく祖母を見るのはつらかった。母と口喧嘩するエネルギーも無くなり、実家に帰ってもほぼ寝たきりの状態になっていた。

二回生の冬休み。20歳を迎えた私は成人式に出席するために帰省をした。
成人式当日の朝、スーツ姿の私を見た祖母は手放しで喜んでくれた。最高の笑顔だった。

それが、私が見た最後の祖母の姿となった。成人式のわずか一ヶ月後に祖母は亡くなった。
大きくなった孫の晴れ姿を見て安心したのだろうか。
「老人ホームの世話にはなりたくない!」そういつも言っていた祖母の願いが叶ったのか、自分の部屋で静かに亡くなっていたという。

祖母の死に目に会うことは出来なかった。棺桶の中にいる祖母をただ泣きながら見つめていた。
あんなにお世話になったのに、「ありがとう」の言葉を伝える事が出来なかった。
一緒に撮った写真も無かった。成人式の日なんか何枚でも撮れたのに…。でも、どこかに恥ずかしさがあったのだろう。色んな想いを伝えきれぬまま祖母は逝ってしまった。

お盆に先祖の霊を供養するという風習をちゃんと知ったのは、一連の葬儀の時だ。
「お盆には帰ってくるおばあちゃんをしっかりご家族で迎えてあげてくださいね」と葬儀屋のスタッフの方が教えてくれた。

祖母が亡くなって二年半の月日が流れた。今年も実家に帰省し、無事祖母を迎える事が出来た。
今の自分を見たらなんて声を掛けてくれるかな?
「失敗したときのために新しい職探しとかなね」
なんて小言を言われてるかもしれない。

そんな祖母の祭壇にお供え物と一緒に今取り扱っているコーヒーも置いた。

「これで頑張ってみな」

そんな祖母の声が聞こえた気がした。
仕事の都合もあり、今年は送り火の法要は参加出来なかった。でも、大丈夫。祖母はいつでも空から見届けてくれている。

そして、また来年一緒にコーヒーを飲もう。
それまでの間少しのお別れ。またね、ばあちゃん。

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