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自由は日常の行動でつくる/話したいことを話す


ずっと気になってたパレスチナのこと、インスタでもシェアしてみた。
みんな知ってることなのかな、意味ないのかなって思いながら、普段あんまり使わない、もはや関係の薄い人とも繋がっているインスタへのハードルもあるけれども
わたしはニュース見てるだけじゃほんとにわからなくて友達の根気強いシェアでやっとわかったし、インスタのアルゴリズム?もシェアするだけで拡散が広まるらしいので、ストーリーでシェアした。

でも今1番胸の中にあるもの。
とにかくもっと普通に、どう思う?ってみんなと話したい。こんな一方的に、遠くからじゃなくて。

そんなこと言ってられないと言われてしまいそうで言いづらいことだけど、やっぱりデモの映像見たり、温度感高いシェアとか、一方向からぐっと情報を浴びせられると、引いちゃう人も多いんだと思う。 

わたし自身、デモに初めて行って帰ってきて、なんともいえない気持ちでお風呂に入って地球環境に優しいとかじゃない市販の新しいシャンプーの匂いがすごいいい匂いで、うわあって気持ちが動かされた時、こういうものに、正義って勝てないんじゃないかって思ったり、
お風呂上がってテレビで老人ホームの介護士さんたちがコロナで家族の訪問が減った利用者さんを楽しませるために夜だけスナック営業ごっこ?してるのみて、こういうのが本当に何か物事を良くすることなんじゃないかって思ったりした。

わたしにとって初めてのデモは、自分の思ったことを言えずに、みんなに倣って同じ言葉を繰り返すだけになってしまって、わたしがしたい世界を、今のパレスチナの状況を良くするためにできることは、これ以外になにかないかな?と思った。
でも誰も行かなければゼロになってしまうわけで、誰かが行くことの意味はあるわけで、それはわたしでもいいわけで、なんてぐるぐるした。

その時も、ああ大好きなみんなと話したいよって思った。

個人の、今日本でこれまで生きてきたわたしたちの個人的な幸せをただ守って暮らしていきたいってすごく普通の感情だと思うし、それを、そんなこと言ってられないでしょう何言ってんの?って大きな声で叫ばれたら余計、距離をとりたくなるものなんじゃないかって思う。だから自分自身含めみんなにデモ行け行かなきゃ見殺しにしてるのと同じだと言うのは違うと思ってる。

ただそれでも、"なかったことにする"のではなくて、あるものをあるとみとめることだけは最低限していたいと思う。
世界のために生きるのではなくやっぱりそれぞれ己のいのちを生きていること、幸せに生きたいと願うことを一番の軸とした上で、
世の中に起きていることについてももう少し、どう思う?なんでだろう?何ができる?どうしたいかな?って話したいなって思う。

明日話そう。友達と。わたしの友達は、わたしが今すごく気になるんだって思うことを聞いてくれる人だ。
もちろんそれぞれタイミングや状況があるのは当たり前のうえで、根底、本当に話せない理由はまだない。話したことがないだけ。

そうだ、今日聞いた言葉、思ってること言ってることやってることの3つが一致してると、自分への信頼につながる、それが自信になるんですって言葉ともすごいリンクしてるじゃん。
それが正しいあり方です、ずれてたらダメな人間なになってしまうので一致させなきゃいけませんということではなくて、自分が自分でいるために必要なんだということ。


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