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【短編小説】カンパネルラと、

「では、今日はここまでです。配ったプリントが宿題なので、明日の朝までに係の人に提出してください。それとずっと言ってるけど、月曜に漢字のテストをするから今のうちに復習しといてね。じゃあ、委員長さん号令」
「きりつ」
 かんなのクラスの委員長の声は小さい。いつも、決まりが悪いときに言い訳をするみたいな声で号令を掛ける。それは号令とは言わないんじゃないのとかんなはいつも思うけれど、一学期のはじめに手を挙げたのが委員長以外にいなかったものだから仕方がない。椅子を引いて立ち上がって、やっぱり言い訳をしているみたいな声の「れい」でかんなは頭を下げた。

「銀河鉄道の夜、いつまでやるんだろうなぁ」
 次の時間は数学。ノートと教科書とワークブックを鞄の中から引っ張り出して、机の角にぴったり寄せてからかんなは眠る。十分しかない休み時間で眠れるわけがないんだけど、机の上にうつ伏せになって、寝たフリをして十分間を過ごす。それで、隣の席の男子が友達と話している会話に耳を澄ます。

 もうだいぶやってない? 次のテストもう一つ何出すんだろ。
 つか話がなげぇの。なんかクルミの話とかいる? って感じなんだけど。
 それな! あそこ挟む必要ある? って思うわ。

 かんなは、組んだ腕におでこをぐりぐりと押しつけて大きな溜め息を吐いた。溜め息で眼鏡が曇ってしまったので、眼鏡を外して畳んで教科書の上に乗せてから、もう一度うつ伏せになる。
 ばかだな、とかんなは思う。そのクルミがいいんじゃないの、と心の中で呟いて、腕におでこをぐりぐり押しつける。どうしてクルミの話があるのか、なんでクルミなのかは、かんなにも分からないけれど。
 中学校に入学して初めての十月だった。夏休みが終わって、九月の頭から国語はずっとこの「銀河鉄道の夜」だけを読み続けている。国語の吉田先生は「私はこのお話が大好きなんです」と嬉しそうな顔をして二学期最初の授業を始めた。音読するときの声だって、一学期よりも少し高いような気がする。
 そんなかんなも、銀河鉄道の夜を音読するときは普段よりも少し声が高くなる。小学生の頃、お母さんに薦められ絵本で読んだことがあるお話なのだ。その時は全然(実は今でも)よく分からなかったけども、前に読んだことがあるお話が教科書に載っているというだけで、なんだか得意げな気持ちになる。しかも、吉田先生が「このお話を知ってる人は手を挙げてください」と言ったときに手を挙げたのがかんな一人だけだったのだ。ますます得意げだ。吉田先生にも「いいねぇ」と褒められてしまった。そんなこと滅多にない。

 つーか、国語のテストはヨユウだろ。吉田先生いっつもワークと同じ問題出すし。
 それな。中身読まなくてもいけるんじゃね?

 ばかばかばか、ちゃんと読め!
 そう心の中で叫んで、今度は小さく息を吐いた瞬間にドアの開く音が聞こえて、かんなは起き上がった。教室の端っこで腰の曲がったハゲ頭が柱にもたれている。数学の先生は嫌いだ。相手は先生で自分は生徒だけど、この人のこちらをバカにしたような視線を見ると、何様だ、とかんなは思ってしまうのだ。


「私ねぇ、カンパネルラって文字を見るたびにかんなちゃんのこと考えちゃうんだよね」
「え? どういうこと?」
「似てるじゃん。名前」
「そうかな……」
「そうだよ。かん、がつく名前」
 ジュナちゃんはそう言ってくすぐったそうに笑う。クラスの中で唯一かんなと同じ美術部に入っているジュナちゃんは凄く可愛い。目はかんなの倍くらい大きくて、背だって男子と同じくらいある。足は折れてしまいそうに細いし、お姉ちゃんのお下がりだという制服もなんだかオシャレに着こなしている。でも絵はあんまり上手じゃないし、部活にだって滅多に顔を出さない。今日はたまたま「そういう気分」だったらしく、帰りの会が終わるなり「一緒に美術室行こ!」とかんなの肩を叩いてきた。今、美術部はこども二科展に出展するための作品を作っている。ジュナちゃんは「ニカ展ってかわいー名前だね!」とニコニコ笑っていた。
「それを言うなら、ジュナちゃんもちょっとジョバンニっぽいよ、名前」
「えージョバンニ? ヤダなぁ、ジョバンニってなんかどんくさいじゃん」
「そうかなぁ」
「そうだよ! 名前もジョとジュじゃ全然違うって」
「そっかぁ」
 美術室へ繋がる廊下は薄暗くて、通るたびにドキドキする。飾られている先輩達の絵の横を通り過ぎるときも、やっぱりなんだかドキドキする。
「あーでも、カンパネルラは最後川に落ちて死んじゃうんだっけ。あれ? そうだよね」
「うん」
「じゃーダメだ。かんなちゃんが死んじゃうのはダメ!」
「そっか、そうだね」
「そうだよ!」
 ジュナちゃんはそう言うとアッハッハと大きな声で笑った。かんなはジュナちゃんの笑い方が好きだ。はっきりと耳に届く。教室で寝たフリをしているときでも、ジュナちゃんの声はかんなのすぐそばで喋っているかのように聞こえるから不思議だ。委員長じゃなくてジュナちゃんが号令をすればいいのになぁと、かんなはジュナちゃんと喋るたびに思う。


 家に帰ったらクリームシチューの匂いがして、かんなは「お」と思った。シチューの匂いを嗅ぐと、冬が近づいている気配を感じる。なかなか日が落ちない空には、まだ夏の匂いが残っている。つい先々週に夏服から合服に着替えたばかりだ。だから体育の後なんかは汗だくになってしまうけれど、それでも帰り道は少しひんやりとしてきた。冬に向かう空は、夏とは別人の顔をしている。なんだか嬉しくなる。
「ただいま」
「おかえり。手洗った?」
「今から。今日シチュー?」
「そうだよ。お父さん帰り遅いらしいから、環菜が手洗って着替えたらもう食べちゃおう」
「分かった」
 手を洗ってうがいをして、セーラー服を洗濯機に突っ込んでスカートをハンガーにかけて。にきび対策に前髪をピンで留めたら準備完了だ。もう既に机の上にはシチューが二つ用意してある。
「ねえ盛りすぎ。こんなにご飯食べたら太っちゃうよ」
「いいのいいの、今はそんなこと気にせずたくさん食べた方が絶対いいって」
「お母さんいっつもそう言うじゃん」
 座って、二人でいただきますを唱える。三口目を口に運んだとき、お母さんが思い出したようにテレビを点けた。
「なんか見たいのあるの」
「ないけど、なんとなくね」
「そっか」
「美味しい? 味濃くない?」
「美味しい。ちょっと濃いくらいがちょうどいい」
「へえ。環菜ってお父さんに似たね」
「なんでよ」
「お父さんもしょっぱいのが好きだもん」
「えーそれなんかヤダ。じゃあ今度から薄味でいいよ」
 点けたテレビではバラエティ音楽番組が流れていた。かんなの知らない昔の曲が次々聞こえてきて、お母さんがそのたびに「おっ」とか「いいねぇ」とかひとり言を言う。かんなは黙ってシチューを食べていた。やっぱりしょっぱい方が美味しい。
「お母さんさぁ」
「なに?」
「カンパネルラとジョバンニだったらどっちの方が好き?」
「えー? なに急に」
「今国語でやっててさ」
「何をよ」
「だから、銀河鉄道の夜」
「そうなの? じゃあ次の国語のテストは満点だね」
「そんなわけないでしょ」
「またまた。だって環菜国語好きだし、銀河鉄道の夜は絵本もあるでしょ? ウチ」
「まあ、そだけど」
お母さんは途端にご機嫌になった。そっかそっかとニコニコしながら体を揺らしている。かんなは、時々自分のお母さんは自分より幼いんじゃないかしらと思うことすらある。無邪気という言葉は、きっとこの人のためにあるのだろう。
「ジョバンニとカンパネルラかぁ。私はジョバンニの方が好きかな」
「なんで?」
「なんで……そうだな、ジョバンニの方が応援したくなるから」
「そうなの?」
「だってジョバンニは貧乏でどんくさくていじめられっ子で、けどお母さんのために一生懸命でさ。めちゃくちゃいい子じゃんって思うのよね」
「そうかな。私はあんまり好きじゃない」
「そうなの?」
「うん。最初のとことか、分かってるならさっさと答えなよって思う」
「そっか」
「うん」
 お母さんはちょっとだけ黙ると、もう一度改めて言い直すように「そりゃそっか」と呟いた。多分、お母さんはもうご機嫌ではない。テレビのスピーカーから知らない曲が流れている。
「私ね、友達にカンパネルラっぽいって言われた」
「環菜が?」
「うん。名前がかんなだから似てるって」
「あーなるほどね。でもカンパネルラって最後死んじゃうでしょ」
「そう。だからその子もじゃあダメだって言ってた。死んじゃうのはダメって」
「その子が言ったの?」
「うん」
「ふうん」
 お母さんは素っ気なく言って、けれどまたご機嫌の気配をそこら中に滲ませていた。ご機嫌のお母さんは、語尾が少し跳ねる。テレビからはお父さんの車でよく聴くバンドの曲が流れてきて、お母さんはとうとう我慢しきれなくなったようにはにかんだ。
「良い友達だね」
「うん。ジュナちゃんって言うの」
「へぇかわいい名前」
「だよね」
 シチューを掬ってスプーンをくわえる。シチューはやっぱりしょっぱい方が美味しい。ルーはたくさん入れるべきだ。


 その夜、かんなは夢を見た。そこは夜の黒々した海で、月は出ていなかった。その代わり満点の星空が広がっていて、まるで星が海面にまで落ちてくるようだった。学校指定の白いスニーカーに波がじゃぶじゃぶ掛かって、けれど不思議にイヤではない。涼しい風が頬を撫でて、波の音が耳のそばを通り過ぎる。かんなはひとつにまとめていた髪のゴムを解いて、ふるふると首を振った。髪が風に靡いて、毛先が向かう先を目で追った先に、小さな男の子が立っていた。
 彼がカンパネルラだと、何故だか知っていた。カンパネルラは教科書の挿絵の通りの顔つきをしていて、かんなは「現実でもそんな感じの顔なんだ」とぼんやり思った。風景と彼を区切る輪郭が、クレヨンのようにぼやけていた。
「銀河鉄道じゃないんだ」
『ええと、』
「海なんだ。宇宙とかじゃなくて」
『僕は、もう切符を持っていないから』
「そっか、そうだったね」
 かんなは自分でも驚くくらい心が凪いでいるのを感じて、少し寂しくなった。「銀河鉄道の夜」の絵本を初めて読んだあの日の自分だったら、もっと嬉々として話しかけたのだろうか。分からない。カンパネルラはシャツの裾をぎゅっと握りしめて、不安げに、こちらを窺うように見つめていた。
「……私ね、かんなって言うんだ。名前」
『そうか。良い名前だね』
「似てない?」
『似てる? 何に?』
「あなたの名前と。カンパネルラでしょ」
『……似てるかなあ。僕はそう思わないけど』
「だよね」
 そう返すと、カンパネルラはハッと顔を上げた。やっぱり絵がそのまま動いているような姿に、たしかにこれは夢なのだと自覚する。
「私も似てないって思う。字数も全然違うし、私日本人だし」
『じゃあ君は、どうしてさっき似てるだなんて言ったの』
「そうかもなって思ったから」
『でも、違うと思っていたんでしょう』
「うん。けどやっぱり、自分じゃ分からないこともあるんだよね。人にそうだと言われたら、そうなんじゃないかなって思っちゃう」
『うん』
 カンパネルラははっきりと頷いた。教科書で読んだときには回りくどくて仰々しい喋り方をするものだと思ったけれど、話してみればそこらの男子と変わらない。ぼろぼろのハンチング帽だって、多分それよりもキャップ帽の方が似合う。
「カンパネルラは、ジョバンニのこと好き?」
『当たり前じゃないか。大切な友だちだ』
「そっか。私もジュナちゃんのことは好き」
『誰だい、それ』
「私の友達」
『それは素敵だね』
「向こうは私のこと友達って思ってるか、分かんないけどね」
『そうか』
 カンパネルラはそれだけ言って、すっと首を横に捻った。目線はずっと遙か向こう、海の先を見ている。かんなもカンパネルラと同じように首から上だけ動かして海を見つめた。歪んだ鏡のように、海面は星を映している。
「ねえ、なんで死んじゃったの」
『……川に落ちたから』
「それは知ってる。読んだから」
 言うと、カンパネルラは少しびっくりしたようにこちらを見た。それで息を吐いて、呼吸を丁寧に置くように呟いた。
『そんなの、僕にだって分からないよ』
「そっか」
 さざ波の音が聞こえる。真っ暗な海べでも、どうしてかカンパネルラが泣きそうに顔を歪ませているのが分かった。こりゃ泣いちゃうな、なんて思った瞬間、カンパネルラが言った。『でもいいんだ』
「いいの?」
『いいんだ』
 カンパネルラは半ズボンのポケットに手を突っ込んでそこをがさごそまさぐって、ぎざぎざの先の尖った黒い実のようなものを取り出した。
「なに、それ」
『くるみさ。くるみの化石。見たことはあるかい?』
「ないけど、……」
 知ってるよ。かんなはそう言おうとして、口を噤んだ。だって、それを見つめるカンパネルラは、まるでダイヤモンドでも持っているかのような顔をしていたのだ。カンパネルラは呟いた。丁寧に、噛みしめるように。
『このくるみと一緒に、僕は天上へ行けた。だからいいんだ』

 ああ、あのくるみにも意味があったんだ。

 まどろみの中で、かんなはそう思って、それでそのまま、ゆっくりと目を覚ました。
目を覚してみれば窓の外は雲一つ無く清々しい秋晴れで、それなのにかんなは「なぁんだ」と一つため息をついた。


「おはよ」
「おはよう」
 顔を洗ってリビングに行けばお父さんがいた。ソファに座ってニュース番組を見ている。画面の左端に映る天気予報をちらりと確認してから、かんなはいただきますと手を合わせた。今日の朝ごはんは昨日の残りのシチューとパンだ。スプーンを手に取ると、突然頭をもたげたお父さんと目が合った。
「俺はジョバンニ派だよ」
「うわっ、急に何なの」
「いや、昨日母さんから聞いて」
「ああ……」
 だってモテモテなカンパネルラに嫉妬して可愛い奴じゃん。そんなことを言いながらお父さんはぽちぽちスマホをいじっている。
「……でも、私はやっぱりカンパネルラが好きだよ」
「名前が似てるから?」
 お母さんがすかさずからかうように言ってくる。ご機嫌を隠そうともしないで、お父さんの水筒にお茶を注ぎながらニヤニヤ笑っている。
「違う。よく考えたらあんま似てないし」
「あれ、昨日似てるって言ってたじゃん」
「ジュナちゃんがね。私は言ってない」
 パンをちぎってシチューにつける。1日経って水分が減ったシチューはもっと味が濃くなって、なんだか牛乳が飲みたくなる。
「別に、だってさ、カンパネルラって絶対いいやつだよ」
「なんでそんなこと分かるんだ?」
 お父さんもからかうように笑う。かんなはううんと唸って、呟いた。なんでって言われても。

「なんとなく、友だちになるならあいつがいいなって思っただけ」

 パンをちぎってシチューにつける。シチューはやっぱり味が濃くて、今度からは薄味でって、お母さんにお願いしよう。かんなはそう思った。

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