家族

5年前の夏、兄貴から一本の電話がかかってきた。
「おまえは肝心な時電話でねーよな」と言われた。

俺はその時仕事の会議で鹿児島にいてちょうど会議中だったから、でられなかった。


「ごめんごめん、どしたの?」


「親父倒れたぞ」と少し暗い声で言われた。


一瞬てんぱったのを今でも覚えている。
どうやら道端で吐血したらしくそのまま倒れたらしい、ろくに飯食わず、酒ばっか飲んでいたからだそうです。


病院に運ばれた親父は、身体中を調べられ、食道と喉に腫瘍があることがわかった。紹介状を渡され、日本医科大学まで行ってくれとのことだった。


悪性なのか、そうじゃないのか、親父はじぶんで「悪性だろーな」なんていっていたが、予想は的中。

普段パチンコの予想は全然当たらねえのに、こんなときに当てんなよ。なんて思ったりもしてた。

喉と食道。どっちも悪性。喉に関してはステージ4まで進行していた。

「五段階中四なの?」と聞いたら「マックスが4」だよ。と言われ、正直親父終わったとおもった。

けど今の病院は本当にすごい。
喉と食道を取っ払って腸を伸ばしてくっつける。
もう言ってる意味も、今書いてる俺ですらちょっとよくわからなかった。

ただわかることは、声が出なくなるのと、匂いが嗅げない事だった。

親父は反対してた。ほっといてくれと。このまま働けなくなって、息子たちに面倒みてもらうのは嫌なんだと先生に言っていたが、病院で癌とわかった以上治さないといけないのが日本の法律。

はいわかりましたなんて言われるわけがなかった。


これから先親父と喋ることがなくなるのかとも思ったけど、死ぬよりかはましだと思っていた。


そこから3度の手術により、一命を取り留めた。

先生によると難しい手術らしく、二度失敗してなお、次で治らなかったら手術できる体力が持たない。ようはラストチャンスだったらしいです。

そこから4ヶ月の入院生活が始まった親父、週に二回から三回、二人の兄と、母親の四人で病院に行き続けた。

まだ入院したては飯も流動食。

「先生の言うことはちゃんと聞けよ」と口を酸っぱくして言っているのに、親父はこっそり売店でゼリーを買っていたらしく、食べてるところを看護師に見つかってカンカンに怒られたらしいです。

そりゃそうです、まだちゃんと腸が繋がってないのだから。

人の話を聞かない、聞こうともしない親父に看護師も手を焼いた事でしょう。



そして無事退院。帰りにそのまま友達の母ちゃんが働いてる居酒屋で飯をたらふく食べさせたのを覚えています。

がつがつ食べてる親父をみるのはかなり久々でした。


俺は親父に言った。
「もうこれからの人生は好きなことだけやったほうがいいよ」と、悔いなく生きてほしい、多分兄貴たちも母ちゃんも同じ意見だったと思う。



それから5年、癌の再発はなく、完治。すごいことだと思います。

ただ、この5年、親父は本当に好きなことをやり続けた。

飯も食わず、酒ばっかり。やっぱり酒だけはどうしてもやめられなかったそうです。

否定はしない、それが好きなら、それでいいじゃないと思っていた。

先月の事だった、いつも酒ばっかり飲んでる親父が、とうとう酒すらも飲まなくなった。
母ちゃんが心配して「なんかやばそうなんだよね」と俺に言った。

その一週間後ぐらいに、親父が救急車に運ばれた。

母ちゃんいわく、苦しそうにしてたから、救急車呼ぶか?と親父に聞いたら呼ぶなと言われたらしくて、それで呼ばないでいたら、今度は口から血を吐き出したらしく、母ちゃんがそれをみて焦って呼んだそうです。

口から血を吐いた原因は、歯が折れてそっから血がでてたらしいです。

その話を聞いてくそほど笑った、母ちゃんも笑ってた。


ただそれで済めば良かったけど、済まなかった。
今度は肺に水がたまり始めたらしく、肺の半分以上水がたまっちゃってると。

嫌な予感しかしなかった。


5年前兄貴のあのときの一本の電話を思い出したように。


どうやら手術をしなきゃ治せないらしく、けど親父はもう手術できる体力なんてなかった。

そして極め付きにこのくそみたいなご時世。
コロナのせいで面会すらできない状況だった。

親父が2度目の入院をして、1ヶ月がたった時に、容態が急変したから来てくださいと病院から連絡があった。


どうやら肝臓も腎臓も弱ってるらしく、あまり機能していない状態らしい。

もうあまり長くないから、1人ずつ、5分程度なら会わせてくれるとのことだった。


俺が一番最後に見に行った。

変わり果て、苦しそうで、意識があるのかないのかわからない親父がいた。

声をかけても反応しなかった。

正直、見てられなかった。


先生に泣きながら「もう楽にしてあげてください」と言っている母親を見て、自分の無力さに気づいた。

帰って母ちゃんを家に送り、兄貴が一言「親父の病院代はギャンブルで稼がないとな」

なんて冗談交じりに言っていたが、結局三人で行くことになった。


多分、俺も兄貴二人も、あの時の親父をみて、ただ黙って帰ることができなかったんだと思う。

なんでもよかった。勝ち負けなんてどうでもよかった。なにかをしたかった。兄弟みんなギャンブル好きにはもってこいだった。

このとき改めて、俺はこの家族に産まれてよかったとおもった。こーなったとき、兄貴二人いることがいかに心強いか。やっぱ家族なんだとおもった。











親父、昔「ラーメン全部食べれたらサッカーチーム入れてやる」といってラーメン屋に行ったのを覚えていますか?

なんでか知らないけどくそくだらない思い出が蘇ってきます。


男ばっかりの家族で、親父は女の子1人ぐらいは欲しかったんじゃないかな。


けど俺はこんなに楽しい家族に産まれてよかったぜ。

孫を見せてあげたかったけどそれはもう叶わそうだね、けど兄貴たちがいっぱい作ったからもう親父も充分でしょう。


母ちゃんのことは心配しなくても大丈夫。相も変わらず耳は遠いけど長生きするはず。男三人もいればどーにでもなるでしょう。




いままでありがとう。いつか天国でまたラーメン食べ行こうな。





余命数時間の親父へ。
今日で27の俺より。



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