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「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(2022.2.3 観劇)の話

私が「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(以下、作品名は「ヘドウィグ~」と省略)を知ったのは、深夜の映画放送枠・映画天国(日テレ)で、「LGBT映画祭」と銘打った放送が行われたことがきっかけだった。
始まりから終わりまで強烈な物語、そして「カタワレ」を探し求めるヘドウィグの歌は、妙に味のあるアニメーションと共に私の中に衝撃を残していった。

……と、ここまで何故こんな真面目に前置きをしたかというと、2月3日、開幕初日の舞台版「ヘドウィグ~」を観劇したからである。フォウ!
主人公のヘドウィグを演じるのは我らが丸山隆平、そしてヘドウィグの現在の“夫”・イツハクは、さとうほなみさんが演じている。

もう長いことeighter(=関ジャニ∞のファン)をやっているが、これまでご縁がなかったのかマルの舞台に行くのは今回が初めてだった。しかも舞台の初日に行くなんてのも初めてで、さらに前述の通り衝撃を受けた映画の舞台版と来れば、観る前から最高と決まったようなものである。

ということでここからはネタバレを含みながら、2022年版ブロードウェイミュージカル「ヘドウィグ~」の特に素晴らしかった箇所、というよりむしろほぼ、丸山ヘドウィグに対する私の感情の吐露をただただ書き連ねてゆきます。レポートとしては全く役に立ちませんが、これから観劇される方はご注意ください。

ちなみにネタバレは極力避けたいものですが、今回の舞台はぜひ!映画版の予習をおすすめしますよ!



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⚠️ 以下、ストーリーおよび演出等のネタバレを含みます ⚠️










◎ 丸山隆平の歌がうまい(もちろん芝居も)


本ッッッッ当に歌がうめえ。何なんだ。


思わず言葉遣いが荒ぶった。
私はマルの声が好きだ。元々高低音の出し方やこぶしの使い方、ハモリも上手くて、エイトの中でもオールマイティな歌声の持ち主だと思っていた。
ライブでもベースにダンス、さらにはファンサをこなしながらあんなに歌えるのだから、そもそもの素質が素晴らしいのだと思う(贔屓目でなく)。

でも、もう何か、そういう次元じゃない。
技術的な話や音程がどうこうの話でもない。
音楽を愛し、歌わなければ生きていられない、ヘドウィグその人だったのだ。

舞台は、約1時間50分のほとんどがヘドウィグの語りと歌で進んでいく。
その声はすべて(歌だけでなく台詞においても)、「彼女」の中から溢れ出したものだった。
ロックで、情熱的で、下品で、バラードで、上品で、少し切ない。
男であり女である、様々な矛盾を抱えたヘドウィグに、丸山隆平はなっていた。
陳腐な表現だが、身体と心にガンガンと響いて揺さぶるような声だ。正直、マルの歌にこういう感想を持つのは、我ながら少し意外だった。これまで私の中のその位置にいたのは間違いなく渋谷すばるで、マルはもっと甘くて柔らかなものだったからだ。
きっと彼は、この数年間の混沌の中に放り出されたような日々を通じて、その声を磨き上げたのだろうと思った。

……まあこんな色々言っても、結局は歌がうめえに尽きるんだけど。笑。

それから、結構上手に英語で歌っていたのには驚いた。「町中華」でも思ったけどやっぱり発音上手いな!

お芝居の面では、あの丸山隆平がこんなに痛々しく下品で傷付きやすい「女」を演じられるとは思いもしなかった。トミーに「正面から愛してよ」と叫ぶシーンなんて、本当に本当に悲しくて。まだ見たことのない表情や動きがあることにも驚かされたし、この舞台は間違いなく彼の新境地だと思う。
それでもオゲレツなところはとことんオゲレツで最高だった。笑。
(仮名)の方のおかげでライブ開催にこじつけたってくだり、グッズ列に並んでたカップルっぽいお客さんはどんな気持ちになったかな……それはそれで愛について考える機会になったのかな……(にっこり)
あと冒頭、ヘドウィグが「あのビッチ」と紹介された瞬間の私の心の中の盛り上がりがえげつなくて、さすがに自分でもキモいなと思いました。ハイ。


◎ 演出の趣向

(これについては以前の舞台版がどんな演出だったか分からないので、的外れな部分もあるかもしれませんが、ご了承ください)

まず、キャストについて。
事前にはヘドウィグとイツハクしか発表されておらず、ヘドウィグのママは? “アングリーインチ”のきっかけになったルーサーは? そして何よりトミーは? と疑問に思っていた。
その答えは、この舞台が先に述べた通り、ヘドウィグの語りという形を取っていることにあった。映画と同じようにシーンごとに場面を転換するのではなく、ステージはトミーの車で事故を起こした後のヘドウィグのライブ、という体で一貫して進んでいく。舞台に来た観客は、【スーパースター:トミー・ノーシスの車に同乗していた謎の女:ヘドウィグのライブに好奇心で足を運んだ客】という役割を担わされる。ママもパパもルーサーも、かつてのハンセルも、ヘドウィグの話の中にしか登場しない。
しかし、ただ一人、トミーだけがその姿を明らかにする。

舞台上のスクリーンに現れた事故の新聞記事、そこに映っているトミーの姿は、マルの一人二役ではないか!

ここの驚きったらなかった。その後は様々なタイミングで、隣の会場のトミーの声(=マルの声)が聞こえてくる。そして最後には、ヘドウィグは舞台上で全てを脱ぎ捨て、トミーともヘドウィグともつかない姿になるのだ。
自分が何なのか、「カタワレ」は誰なのか、「ヘドウィグ」とは何者なのか、探し求めてさまよう様子を絶妙に表現していると感じた。


次に、コロナ禍に絡めた演出について。
これは間違いなく今回がオリジナルだろうけど、この演出はかなり効いていたと思う。コロナ禍に開催されたヘドウィグ・アンド・アングリーインチのライブ、というメタ的なテイストは、観客の興をそがずに舞台を進めていた。加えて、会場がEXシアター六本木という「設定」だったのも良かった!


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以上、取り急ぎ書きたかったことをまとめました。

愛とは? 性とは? 自分とは?
ヘドウィグはこの世で一番難しい、考えれば考えるほど分からなくなるこの問題に、唯一真正面から向き合っている人のような気がします。

こんな状況下だけど開幕を迎えられて本当に良かった。そして、観せてくれて本当にありがとう。
マルとヘドウィグという私の中の別の場所にいたもの同士が結び付いたのが嬉しかったし、その始まりの日に立ち会えたことに感謝しております。

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