書評 村上春樹『猫を棄てる』

村上春樹が、これまでほぼ語ることのなかった「父親」について書いた、短い随筆。挿絵は高研(ガオ・イェン)という台湾出身のイラストレーター。村上春樹じしんの要請によって実現した組み合わせのようである。


村上春樹がじしんの「父」について語るというのは、ある程度の愛読者であればかなりの事件だということがわかるだろう。批評のレベルでも、村上春樹の小説には「父」、つまり「聖なる天蓋」が不在している、ということは指摘されてきたし、そういう難しいはなしをしなくても、なんとなく、村上春樹という存在に「父親」というものが感じられないのである。随筆を通して春樹じしんの父親が感じられないということでもあるし、春樹じしんに父性のようなものが見られない、ということでもあるが、ともかく、「父子」のようなものがぜんぜん真っ白に退いているのである。
このことは、「語られるべきことが語られていない」というふうには、読者には認識されない。それどころか、村上春樹の小説は、父が不在することによってあのように実現している、とすらいえそうである。最近の長大な小説ではこの表現はあてはまらないとおもうが、屈託がないというか、かつては喪失感などともいわれたが、ある事物がそこにないことによって生じるうつろな感覚との、緊張感をはさまない共存とでもいえばよいだろうか。その「喪失」というのは、ひとつにはひとの死であった。『ダンス・ダンス・ダンス』くらいまでの作品はほとんどすべて、水中の気泡をつかもうとするような手応えのない人間関係性のなかにいっしゅの心地よさがあった。語り手、あるいは主人公たちにかかわるものは、誰もが、背中を向けて去っていくような感触にある。そして、事後に出来事を記載しようとする際にそれらは、デタッチメント的な関係性の内側に回収されていくのである。これもやはり死語に近い評言であるが、村上龍なども含めて「都会的」などといわれたのも、そうしたデタッチメントの感覚ゆえだろう。都会というのはコミットメントを回避するところがあるから、そのように感じられるのも自然なのだ。
そうした他者のつかみがたさ、というより(つかもうと努力しているわけではないので)、ただつかみとれないものとしてあるという事実の記載は、村上春樹の、特に初期の本領といってよいとおもうが、その根源にあるのが、父の不在なのである。これはどのように解釈してもおそらく着地点は変わらないとおもうが、ぼくはフロイトが好きなので、そのように読むと、父とは超自我のことである。生まれたばかりの乳児にとって世界はひとつの連続体、大洋である。これが、母親のお乳が手に入らないという経験を通してはじめて「快/不快」の太線の分節が行われる、というのがフロイトの考えである。この分節は経験を重ねるごとに細かになっていき、やがて他者をつくりだす。他者とは、「思い通りにならないもの」の総称なのである。父親は、他者によって構成される「社会」における、もっとも私に近い存在である、というのがぼくの考えである。父は、母との溶け合った海のような関係性に差し込まれる亀裂であって、原則的には排除が目指されるものになる。ところが、父親には到底敵わない。そこでわたしたちは、これを内面化することになる。わたしたちの行動のよしあしを判定する審級として、わたしたちが畏れる父というものを定規にしてしまい、取り込んで克服してしまうのである。
この定規のことを「良心」という。では、父の不在した村上春樹の小説は良心に欠けているのかというと、日本語の「良心」という語の射程が広すぎることもあって、やや語弊がある。なのでここでは再び「定規」、あるいはものさしという表現に戻ろう。父の不在とは、制度的なものさしの不在のことなのである。
しかしこのように書いてしまうと、またそれはそれで、微妙に村上春樹の小説を言い表すものとしてはいくぶんずれたものになってしまう。というのは、むしろ村上春樹の描く特に主人公たちは、「ものさし」にこだわる人間が多いからである。だが、これらはたいていの場合、権威的なものではなかった。ルーティンとかマキスムとかいう語を使って考えればよいだろうか、なにが正しいか、なにが悪かということを、経験知と、感性と、ある種の身体性の向こうに求めていくのが、彼らなのである。


こういうわけで、父が不在していることは、別に問題ではないといえば問題ではなかった。それどころか、そのことによってむしろ村上春樹は村上春樹だったのである。これは、じつはトラウマの構造と同一である。再びフロイトだが、内田樹のフロイト解釈では、トラウマとは「語ることのできない物語」によってもたらされた心的外傷である。ある思い出したくない出来事が過去に生じたとして、わたしたちはそれを思い出したくないので、思い出すことがないように、そもそも語る方法をみずからのうちに持たないようにしてしまう。そうすることで、その人物の心的輪郭は確立していく。トラウマとは、ドーナツの穴である。わたしたちは、それを迂回し、語らないでいられる言語運用を編み上げることによって、みずからの人格を立ち上げている。人格はドーナツ本体としてそこにあり、同時に、穴の位置にある不快な物語は、決して参照されることはない。そのようにして、むしろ好ましくない経験が、その人物そのものを決定していくという構造が、トラウマの原理である。本書を読めばわかることだが、村上春樹とその父親は、かなり長いあいだ絶縁状態にあった。そして、むしろそのことによって、村上春樹の小説は出現したのである。そう考えてみると、主人公たちがおのおの立ち上げていく生きかたにおける(一見すると)些細な決まり、規範は、制度、父に対抗するための素朴な努力、というふうにも見えてくる。ドーナツがドーナツであるためには、まんなかに空洞があっても崩壊せず自律できなければならないのだ。そのことの念入りな証明のようにおもえなくもないわけである。

こう考えると、本書はトラウマに直面する作家の記述ということになるわけで、それは筆も重くなるというものである。じしん認めている通り、普段の小説、あるいは随筆と比べても、本書はずいぶん硬質な筆致であり、もともと体温の低い文体がさらにこわばっているような印象さえ受ける。それも自然なことのわけだ。
通常、トラウマは本人の手で語ることができないので、分析医の手を借りなければならない。抑圧された記憶とそれがもたらしたこころの傷は、忘れていても、別のかたちをとって戻ってくる。それを癒すには、トラウマに具体的な質感を、つまり物語を与えるほかない。医師と患者は、長い話し合いの末に、ある種その物語を捏造することになる。小説家なら、そこにみずから創作した物語の起伏をかぶせてしまえばよさそうなものだが、そうもいかないだろう。この勇気ある直面は、必要なことだった。しかし、原理的に不可能な「トラウマを語る」という行いは、どのように実現されるか?それは猫を通じてである。本書は、父とともに幼い春樹が浜に猫を棄ててくるという、現代からするとわりと衝撃的な挿話からはじまるが(時代的背景を考慮しなくてはならない)、この猫が、ふたりより先に帰宅して出迎えてくれたというのである。これがフィクションだということではない。そうではなく、いかにもフィクションのような、しかも村上春樹が書きそうなエピソードであるということが、重要なのである。あとがきにもあるように、このはなしを思い出したことで、村上春樹はようやく父のことが書けるようになったのだ。

春樹と対談した本も出している河合隼雄は、『猫だましい』という著書で、人間を「からだ」と「こころ」にわけることはできるが、「からだ」と「こころ」を合わせても人間にはならない、そのときに損なわれるのが「たましい」だ、というふうに書いていた(語のチョイスなどはうろ覚え)。河合隼雄はその「たましい」が文学作品などにおいては「猫」を経由してあらわれているものと考え、古今東西の猫作品を読み解いていった。いずれにせよ、猫はある種の媒介物として考えられているのである。いってみれば春樹がトラウマを語るにあたって面談する分析医が、猫なのである。分析医はなんなら頷いているだけでいい。同様に猫も、そこにいて猫的ふるまいをしておればよい。そのときに、患者(作者)のくちから語られる物語は、ある種捏造されるのである。


父が不在していることによってこそ春樹の小説はあのようになった、だとするなら、なんのためにトラウマに直面する必要があったのか? ひとつには、これをいうと身もふたもないが、村上春樹も年をとったということがあるかもしれない。別にそれは、そのことで気が弱くなったとかそういうことではなくて、たぶん、デタッチメントの中、というか外というか、孤独な、クンフー的な自己練磨のなかに沈潜してきた作家が、ふと、じしんの死についてある程度身近に感じ始めているとか、そういうことかもしれない。それはわからない。しかし、本書で書かれていることは人類学的な贈与である。これはたぶんいままでほぼなかった視点ではないかとおもうが、最近作を読んでいないのでそこのところはあまり深入りはしない。ともかく、作家は、父の人生をけっこう念入りに調べていくことで、このじぶんという存在が、非常に偶然的な、たまたまなものであるという、考えてみれば当たり前のことを、深く悟るに至る。そうすることで、「受け継ぐ」という感覚を、作家はじっさいに宿すことになる。

「言い換えれば我々は、広大な土地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と」96頁-97頁

これはほぼ最終部分のくだりだが、父の足取りをたどることで至った結論、というふうにはぼくは見ない。むしろ、これは初期衝動ではないかとおもわれる。そうでなければ誰に強いられるでもないのにトラウマを語ろうと努める人間などいないからである。とりわけ村上春樹にはドーナツを堅固なものとする「小説」という武器があったのである。それでいてトラウマを掘り返そうと志向するのは、この感覚が最初からなければならないのである。
くりかえすようにそのみなもとは不明である。しかし、この調査とおそらくいつも以上に作者じしんが読み返したくないだろうとおもわれる硬い随筆(村上春樹はいちど世に出たじぶんの小説を読み返さないそうである)は、今後の小説家としての展開にかなり重大な影響をもたらすものと考えられる。ほとんど、ぜんぜんちがったものが出てくる可能性すらある。7月に出る短編集がどのようなものになっているのか、こういう視点で見てみるのもおもしろいのではないかとおもう。

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