書評 早見和真『店長がバカすぎて』

すごく久しぶりに同世代、現存する作家の小説を読んだ。村上春樹とか多和田葉子とかを除くと、最近はそもそも小説じたいをあんまり読んでおらず、しかも古典ばかりだったから、非常に新鮮な気持ちになれた。

題材としては書店業である。書店の仕事にまつわるあるあるが詰まった世界で、ぱらぱらめくってみただけでもじゅうぶんおもしろく、しかもこういうタイトルなので、数ヶ月前に「たまには現代的なものを」みたいな気持ちで手に入れたものだった。とはいえ、最近は書店、あるいは出版の仕事を描いた作品というのは珍しくない。その流れは『重版出来』が作ったような印象もあるが、お仕事描写がメインではないものも含めれば(なおかつリアルに描けていなければならないが)手持ちの思い出せる作品だけでも『ガイコツ書店員本田さん』や『私の彼は仕事ができない』、『ほぼ日常』などがある。『響』もいれていいのかな。これらはすべてコミックになり、小説があがらないのはぼくが現代の小説から離れているせいもあるはずだ。そういうわけで、もはや「書店業界の裏側」を描くことには、書店員個別の感想として「あれが描かれていない」とかそういうものが出てくるのはともかくとして、それほどの目新しさはないといえるだろう。ぼくとしては、書いたように、古典ばかりで現存作家のリアルタイムの小説を読んでない、読みたいということがあったので、非常に話題にもなっており、信頼する有名書店員のひとたちからも好評であることから、ある種の甘えとともに、これなら気軽に読めるだろうということで買ったのである。そして、たしかに本書は、書店員の日常を非常にリアルに描いたという点でもすばらしかった。しかし、それだけではないということが、本書が傑作であり、評価される理由だろう。なんというのかな、先日公開されたYoutube大学の出版業界編みたいな手つきが好例だけど、書店員あるいは書店に対してある種の幻想を抱えてしまうということは、まああるわけである。あの動画では図書委員の最終形態みたいなことをいっていた。それで、ぼくとしてもまあ、そこに異存はないというか、そうあろうとはしているわけである。ありとあらゆる本について知っていて、ということは実質ありとあらゆることに通じていて、世界を既知で埋め尽くし、どんな難問にもそれなりのこたえを出してくれるような、一種の全知全能である。ぼくでは専門書エリアに入って、ほんらい分野別に担当がつくようなものをまとめてぜんぶ見ており、そういう状況で当然日々専門家、もしくは専門家志望、つまりプロのひとたちを相手にしているので、もっといろいろなことを知らなくては、という欲求は高まっているが、とにもかくにも、多かれ少なかれ、良心的な書店員は誰もがそうした自己像のモデルをもっているはずである。それが、現実ではうまくいかない。薄給、重労働、良心的ではない業界人(わが社には本を読む人間がバイトにしかいない、そしてそういうバイトはすぐ辞める)の存在など、なぜうまくいかないか、ということが、これまでの「書店業界の裏側」を描いてきたような作品で告発されてきたのだ。そして、それを日々体験し、自分自身信仰している「理想の書店員像」を通じて非書店員のひとたちがわたしたちを認識しているということに、言い知れぬものを感じてきた書店員たちは、そうした作品を読んで溜飲を下げてきたのである。そうそう、そうなんだよ!現実はそううまくいかないのだ・・・よく言ってくれた!と。もちろんそればかりではない。『重版出来』が優れているのは、徹底して出版業界という特殊な状況にこだわりつつ、そのなかに生じる人間ドラマに普遍性を見出したからである。だから、共感を経由せず、書店員ではないものも物語に没入できるようになっている。共感は、本質的には書店とはなじまない感性である、というのがぼくの立場だ。それは、記憶の再体験にすぎないからだ。わたしたちがある作品に「共感」するのは、作品に起きていることと、過去にじぶんの人生に起きたことが符号し、共鳴していることに気がついたときであり、要するにわたしたちは「共感」するとき、じしんの経験を想起しているのである。これが意味するところは、どこにも進んでいないということである。むろんこれは極論であって、そこには快復や関係性の構築やアイデンティティの確立や、ほかにも数え切れない反応が伏せている。しかしぼくとしては、本に「他者」を求めている。他者、つまり未知、ときには「不快」に接触したとき、わたしたちの知性の枠組みはアップデートの準備をはじめるのだ。
はなしがずれたが、「共感」を目指す限りでは、作品は楽屋落ちを出ることがない。それはそれでよいともおもうし、「未知」を探り出すのは読者の仕事である、というふうにも考えられる。いまあげたような書店漫画がそういう作品だということでもない。ただ、本書『店長がバカすぎて』は、書店描写作品が次の段階に入ったのだ、ということを感じさせるものだった、ということだ。もちろん、くりかえすようにぼくは現代の小説をあまり読んでいないので、いや、こういうのは以前にもあったよ、とかいうはなしになるとわからないので、正しくいえば、すでに新しい段階に入っていたのだ、ということになるだろうか。(その意味では最初からずっと普遍的に人物と物語を編んでいる『重版出来』は出色というほかない)

なにがそれほど優れているのか、ひとつにはエンターテイメントとしての完成度であり、もうひとつは、店長が表象する虚構性である。
主人公は吉祥寺の「武蔵野書店」本店に勤める谷原京子という契約社員。手取り十何万の世界でひとりぐらしをして、食費を惜しんで本を買って読んでいる、いまとなっては古きよきというか、いやいまとなってはというのはぼくの現実感覚に過ぎず、じっさいにはたくさんいるのだろうが、うえの文脈でいえば「良心的な書店員」である。本を愛し、その流通に貢献できる喜びを初期衝動に、書店勤めを続けている。くせものは、ここの山本猛という店長である。これが、とても、すごいのである。「バカ」という語からするともう少しちがうものを感じ取るひともいるとおもうが、いったいこれは、なんと形容すればよいのか、途方に暮れてしまう感じだ。本編の、数々の無意味なセリフや、谷原京子を経由した評価などを通じていないと、どんなことばを並べても馴染まない感じがしてしまい、けっきょくは「バカ」というのがいちばん近いというところに落ち着く。意識だけ異様に高く、当たり前のことを当たり前に元気よく朝礼でいい、とんちんかんな対応でひとを怒らせ、しかし相手が怒っていることに気付かないようなタイプの人間である。少なくとも谷原京子はそう感じている。そんな店長に振り回されながら、谷原京子はいくども「辞めてやる」となるのだが、都度、気持ちを取り戻したり、激怒したりしながら、けっきょく続けていく。
店長のほかにも「バカ」はたくさん登場する。それが各章のタイトルにもなっており、たとえばそれは、社長や、出版社の営業や、神様(お客様)である。章ごとに雑誌で連載されていたものなのだが、書店への主人公やそのほかのいわば変人たちの粘着的な愛情もあって、物語は太い幹によって貫かれており、それが、最終ページにまでつながる実に心地よいある仕掛けを成功させている。

いち書店員のぼくとしては、まずあるあるがあるある過ぎて、やはりどうしても「共感」がやってくる。それは否定しないし、じっさい楽しかった。「武蔵野書店」には谷原京子やその先輩の小柳さんや後輩の磯田さんなど、ちゃんと本を読んで、じぶんで評価のくだせる書店員がいるという点で、ぼくはうらやましかったが、ほとんど全体にわたって「うちの会社かよ笑」となっていた。どこも社長はこんなものなのかあ、とか、あの悪習ってけっこう全国的に行われてるものなんだなとか、ようやく話のわかるひとに会えたみたいな感覚が強くあった。ある機会に出会った他社のカリスマ書店員・佐々木陽子は、かつてはそれなりにふつうに書店員をやっていたはずのものたちが、店長になるとみんな「バカ」になってしまうことを嘆いているのだが、それはどうやらじぶんも会社から店長になるようにいわれているからのようで、その恐怖から、一歩踏み出せないようなのである。これは一般にはピーターの法則として知られているものだ。社員が、能力の限界まで出世を続けていくと、やがて無能になる、というものだ。有能なひとは、さらに難しい役職に昇進し、ひとの評価の内側における有能さ、会社への貢献度やそのなかでの価値といったものを少しずつ減退させていくことになる。無能なひとは、無能であるがゆえ昇進しない。そうして、能力主義は会社ぜんたいを無能にする、というものだ。むろんこれは法則に過ぎないので、個々の状況に照らしたばあいにぜんぜんあてはまらないということはあるし、それに人間の能力や、また逆に役職が要求するものをあまりに単純化しすぎているだろう。現場で接客するのが向いてなくてもチームのアイコンとしてまとめるのがうまいひとというのはいるはずだ。だが、これは現場の人間からは役職のものがみんなバカにみえるという状況を極めて論理的に、端的に説明したものとして説得力がある(そういう言説は注意を必要とするが)。しかし、とはいえ、けっきょくのところ「昇進」というものが、仕事への情熱とか能力とかとは、無関係とはいわないまでも、比例しないことが理由なのではないかなとはおもう。谷原京子は、有能で本も大好きだが、損ばかりしているわけである。たぶん、その情熱ゆえである。そういうシステムがおかしくないか、という問題提起も、むろん本書では登場人物を通じてされている。

こうしたわけで、ぼくは最初から最後まで、「よくぞ・・・よくぞ書いてくれた・・・」みたいな、新聞の社説を読んで「わが意を得たり」と膝を打って喜びの投書をしちゃうレイシストみたいなリアクションばかりとっていたが、本書が優れているのはそのリアリティだけではない。いや、リアリティもすごいのだけど、それだけでは楽屋落ちなのだ。そうではなく、本書はまずエンターテイメントなのである。それが、物語に普遍性を呼び込む最初の要素となっている。普遍性といってもそれは、ここで描かれる「書店員」という職業がほかのものと交換可能になっているということではない。むしろ逆である。あとのはなしにもつながっていくとおもうが、本書はどうしても書店の物語、本を売る現場の物語でなければならなかった。要するに起伏に富んだおもしろい物語であり、また入念なセリフの積み重ねによる人物造形が周到であるがゆえ、読者は仮想的に書店員になることができるのである。それが優れたエンターテイメントというものなのだ。

その物語の起伏だが、実は本書には、ミステリのような大きな仕掛けが施されてもいる。ぜんたいにちらばっている伏線がいっきょに回収されていく場面では、『ソウ』シリーズで謎が解かれていく場面のようなカタルシスを味わった。ちょっと勘のいいひとなら気付いてしまうようなひとつの大きな謎が解かれるところに、次々と、別のサプライズが加わっていくのである。

いちおうミステリ的な驚きもあるので、決定的なぶぶんの言及はしないつもりだが、これから読む予定のあるひとは以下回避してもらいたい。

ひとことでいえば、本書はメタミステリ的な構成になっている。ある人物が、谷原京子を主人公にした小説を書き、それが『店長がバカすぎて』というタイトルなのだ。これをメタ的に読むというのは、じっさいかなり野暮でもある。本書が、本書内で創作されたことになっている『店長がバカすぎて』と同一のものだとするのは、いま書いたような、エンターテインメント的な楽しみかた、つまり読者を書店員にしてしまう働きを損なってしまうからだ。じっさい、ぼくも最初はそう読んでいなかった。ただたんに、谷原京子とともに、そうした小説が出現した事態に驚き、また感激していただけである。だが、人物の名前こそちがっても、冒頭のものとして示された文章はまったく同じものであり、おそらく細部の描写はちがうのだろうが、展開されていく「バカ」たる人物たちも同じように描かれているのである。そして、それだけではなく、ここには店長のつかみがたい虚構性のようなものがある。ここがかなり肝心なので、なにが起こったかについては明かさないが、果たして店長が「バカ」なのは、ほんとうにバカなのか、それとも、じっさいに売上が伸びていることが結果として示すように、意図的に演じられたものなのか、よくわからなくなってくるのである。ただのバカに見えた店長はやがて虚と実が入り乱れた不可解なつかみがたい人間になっていき、そのうちには、「バカ」という語じたいも解体されていく。俗な言い方をすれば「愛すべきバカ」ということになるが、たとえば谷原京子は、本にかんしていえば、損ばかりみずから選び取ってしまうような不器用さで、その意味では「バカ」なのである。
店長は依然として「バカ」である。しかし、その意味は、谷原京子じしんの自己評価や、その他の誤解のようなものがほどこていくにつれ、むしろ分解されていく。これは不思議なことではないだろうか。ふつう、謎が解ければ、物事の意味というものはひとつの像を結ぶはずだ。しかし最後まで、というよりページをめくるほど実体が不明瞭になっていく店長は、「バカ」というある種の魔法の言葉に包まれつつも、どこにも着地しないものとして保留されるのである。メタ的な構造の物語においては、一定の評価というものをくだすことができない。絶対的にゆるがない規矩が想定できないからだ。『闇金ウシジマくん』の真鍋昌平は、あの写真のような背景を通して、作者の価値観を漂白することに成功した。どのような価値観も持ち込まれないその世界でなければ、あのように、通常の生活では厭われるようなひとたちを感情移入の対象として描くことはできなかった。同じことが、このメタミステリ的な構造においては起きている。くりかえすように、物語そのものはそのようには描かれていない。だが、店長のあの飄々としたありよう、虚構性が、価値の保留を導くのである。

ぼくのような書店員でなくても、読者は本書を通じて書店員になることができる。その意味で生じた普遍性は、「共感」と似たものになるはずだ。じぶんもその感覚を知っているかのようなある種の錯覚が、そこには生じるのである。そして、実はこのことが、本書の構造をうつろな仕掛けにとどめない。というのは、作中で谷原京子が『店長がバカすぎて』を手に取るという感覚、そして「ここにはわたしのことが書かれている」と感じたことは、読者であるわたしたちもまた、『店長がバカすぎて』を手に取ることで追体験できることだからだ。「共感」が、メタミステリ成立の条件になっているのである。このことが、本書がこれまでの書店作品からひとつ抜けた(あるいはすでに達成されていたものをぼくが受け取った)と感じさせる理由である。「出版業界の裏側」を描こうとするこの手の作品の初期衝動は、身内だけが理解できるようなものになりがちだ。むろん、作家は誰もそんなことは理解しているので、そうはならないように努めていくし、じっさいそんな作品を見たことはぼくもない。原理的にはそうなる可能性がある、ということだ。しかしその楽屋落ちっぽさは、谷原京子を生身の人間とするものである。なぜなら、どんな人間にも楽屋はあるからだ。そして、重要なことは、そのことがメタミステリ的な構造を呼び込み、エンターテインメント作品であることを必然にしているということなのである。たんにこれまでの楽屋落ちを乗り越えているのではない。それがそうあることを必然としたうえで、そうでなければ成立しない普遍的な物語がここには成立しているのである。本書が書店の物語でなければならなかった、というちょっと前に書いたことはここにかかっている。なぜなら、読者はこれを「本」を通じて読んでいるからだ。そしてその経験を、遡行的に谷原京子から受け取り、わたしたちはそこにじぶんの物語を上書きする。楽屋落ちになりがちの設定で「共感」を実質としながら、そうでなければ成立しない普遍的な物語が、「本を手に持っているひと」宛ての「本を手に持っているひと」のものとして実現されたのである。

ぼくじしん、「バカ」としか形容できないひとたちと仕事をしていて、怒りのあまりツイッターなどでヘイトをまきちらしてしまうこともある。そのことじたいは、本書でも別に否定されるものではないし、それどころか溜飲の下がるような場面も多い。問題提起もきちんとされている。だが、そこでは終わらない。別の方向に、評価可能性が兆すのである。それが、純粋な物語、エンターテインメントとしての姿なのだ。その表象が店長である。店長へのまなざしには、そのつかみどころのなさによって、いくつもの評価の枠組みがあらわれては消えていく。つまり、店長とは、「本」なのだ。「溜飲が下がるような共感物語」を徹底しながらも、いや徹底していることを前提にして「本」であることが達成されている、そういう見事な作品なのである。

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