田舎の正月と贈与

お正月を田舎で過ごしている。
これまでの10年は好き勝手やっていたし、20代の頃には、考えもしなかったことが田舎の生活にはまだ残っているなと思った。
それは贈与である。親族の往来で、お年玉含め、いろいろなものが受け渡されている。子どもの頃はもっと多くの贈与があったように思い出している。

贈与は、交換ではない。
交換は、生じようとする関係性を一瞬で相殺してしまう。
贈与は、他者に「もらった」という重荷を与え、人間関係を作る出発点である。贈与は、義務的であるけれどあの人に返さなきゃという感情が生じるはずだ。そして返礼から、また次の贈与が生成されることで、関係性を作る。
最近は贈与の領域があまりにも少なくなっているのではないだろうか。
もちろん贈与よりも、すぐにチャラにできる、交換の方が圧倒的に楽であるが… 
交換だけだと、人間関係も交換可能なもので終わってしまうだろう。

宗教にも、贈与の話がかなり出てくる。
旧約聖書の書き出しが、創世記であることも、贈与である。神から与えられたという感覚がどうしても必要だったのだ。
イエス・キリストが磔刑になったのも、人類が負った贖罪を代理で引き受ける贈与の話だ。善きサマリア人のたとえも同様である。

普段から、あまりにも交換にばかり終始している生活にはNOを突きつけれるようにしたい。何かを買うという行動に関しても、本来的には自分がいいと思うこと、未来にも残ってほしいと思えるものに投票することに似ている。「コスパ」だけだと、本当はその外側にある広がりを捨てることになる。

あぁ、都市で生活していると、こんな当たり前の知恵をこれまで忘れて生きてきたんだなぁと。そしてようやくこんなことを考えれるくらいの年齢になってきたと実感している、田舎のお正月である。

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