米国の個人の主体の見直しの動きか

興味深いニュースを見たと思った。

これまでのアメリカでは、考えられなかった判決ではないだろうか。この判決は事実上、個人に責任を負わせるのではなく、親族に連帯責任を負わせるものである。個人の自由と責任を重んじてきたアメリカの世界観を変えるような判決に見えなくもない。

分断しすぎたアメリカで、もう個人だけでは責任の所在を賄いきれないと考えられるようになっているのかもしれない。そもそも「主体」という概念も、神が前提になっていると思われる。英語の主語(Subject)は、下に投射されたものという意味だ。つまり、神が上から見ているという前提がある。しかし、神の存在なき自由を謳歌している我々の生活は、個人だけで責任を負いきれないと社会的な認識になる可能性があるのではないか。

最近では、個人の「主体」とは、なんぞやという議論をよく見かけるようになった印象がある。

本書の主なトピックも、人類史において長い間、責任の所在などは家族や小さい集団がベースだったことを論じられている。西洋で育まれた、個人主義、自由、平等、は期間で見るとまだまだ歴史の浅い概念であろう。

これからの社会の動きに注目だが、案外主体意識の見直しの力が働く可能性があるなと思っている。

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