坪内隆彦 国を磨き、西洋近代を超える

『通信文化新報』編集長。『維新と興亜』編集長。主著に『アジア英雄伝』『GHQが恐れた崎…

坪内隆彦 国を磨き、西洋近代を超える

『通信文化新報』編集長。『維新と興亜』編集長。主著に『アジア英雄伝』『GHQが恐れた崎門学』『徳川幕府が恐れた尾張藩』『水戸学で固めた男・渋沢栄一』『木村武雄の日中国交正常化』。https://tsubouchitakahiko.com

最近の記事

小泉進次郎氏のブレーン・竹中平蔵氏と解雇規制

 「就労形態の多様化」「雇用の流動性」という言葉が使われているが、その本質は「労働者使い捨て」「クビ切り自由化」である。グローバリストと経団連の強い意向を受け、政府の諮問会議などを舞台に労働分野の規制緩和を叫んできたのが竹中平蔵氏らである。そして、雇用が流動化することによって儲かるのが、竹中氏が会長を務めていたパソナのような人材会社である。  2014年5月10日に放送された「激論コロシアム」(テレビ愛知)において、三橋貴明氏は竹中氏に対して、政府の諮問会議などで民間企業の経

    • 水戸学と昭和維新運動③

      徳川斉昭(烈公)の侍医・本間玄調  昭和維新運動と水戸学の関係を考える上で欠かせない存在が、頭山満翁の高弟・本間憲一郎である。本間は明治二十二(一八八九)年二月二十四日、古河藩士の父秋田重柔、母本間まさの二男として生まれた。まさの祖父は、徳川斉昭(烈公)の侍医を務めた本間玄調である。  玄調は、江戸時代末期に全身麻酔による外科手術に成功した華岡青洲の高弟で、青洲の外科学を大成した。『瘍科秘録』などを著している。多くの人の命を救った玄調は、烈公から「救(すくう)」という称号を

      • 水戸学と昭和維新運動②

        雨谷毅の『尊王民本主義』  栗田寛は『神聖宝訓広義』を示して教育勅語起草に影響を与えるとともに、子弟教育によって水戸学の真髄を伝えようとした。明治七(一八七四)年頃には、水戸鷹匠町に私塾自彊舎を開設し、本格的に子弟教育に乗り出している。藩校弘道館の廃止後、欧米流の新教育に対抗し、水戸学の道統を伝えるためである。  さらに、明治十三(一八八〇)年一月には水戸大坂町に家塾「輔仁学舎」を開設している。この家塾で学んだ人物こそ、水戸学の思想を復興させることで昭和維新運動の気運を醸成

        • 水戸学と昭和維新運動①

          水戸学の真髄  明治維新の原動力となった国体思想は、早くも明治四(一八七一)年頃には新政府によって蔑ろにされるようになった。崎門学派、水戸学派、国学派などは重用されなくなったのである。こうした時代に、『大日本史』完成の志をまっとうし、ついにそれを実現したのが栗田寛である。  天保六(一八三五)年九月十四日に水戸下町本六丁目で生まれた栗田は、わずか十三歳で会沢正志斎の『迪彝篇(てきいへん)』を愛読し、皇統のよって立つ神器の尊厳性と国体の尊さを感得していた。  『迪彝篇』は正志

        小泉進次郎氏のブレーン・竹中平蔵氏と解雇規制

          わが国独自の民主主義思想としての水戸学

          国体の尊厳を支える蒼生安寧  戦後、水戸学の国体思想は、「日本軍国主義」を支えた危険思想として否定的に評価されてきた。しかし、水戸学の国体思想は、わが国独自の民主主義思想だったのではないか。  水戸学が理想としたわが国の統治とは、天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治だ。わが国は、領土領民を私的に支配する覇道的支配(主人履(ウシハ)く=ウシハク)とは本質的に異なる「シラス」による統治を理想としてきた。今泉定助は「シラス」による

          わが国独自の民主主義思想としての水戸学

          小泉進次郎とは何者か

           菊池英博氏のインタビュー記事「小泉進次郎とは何者か」(『月刊日本』平成29年8月号、聞き手・構成 中村友哉氏)を紹介する。 小泉進次郎はアメリカの代弁者だ ―― 8月3日に行われる内閣改造で、小泉進次郎氏の入閣が取りざたされています。もし今回入閣しなくとも、小泉氏は将来の総理候補と言われているため、いずれ重要なポストにつく可能性があります。 菊池 私は小泉進次郎氏を絶対に主要ポストにつけてはならないと思っています。彼が将来、首相や大臣になるなんてとんでもない話です。彼は

          農業改革を強行した小泉進次郎氏にアメリカの影が

           『日本のお米が消える』(月刊日本増刊、平成30年1月)に収録された「農業を破壊する者たち」の一部を紹介する。  農協改革は「農協解体」です。その先に待っているのは、日本の農業が復活する未来ではなく、日本のおコメが奪われる未来です。その意味で、農協解体を進める政治家は日本のおコメを奪う「共犯者」だと言えます。  ここで、残念なお知らせがあります。  「えー! あの人が日本のおコメを奪う片棒を担いでいるなんて、信じられない。嘘だと言ってほしい……」という読者の方が多いと思いま

          農業改革を強行した小泉進次郎氏にアメリカの影が

          欧米支配終焉後の新秩序とは?

          「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」  欧米支配の国際秩序が動揺している。トルコのジャーナリスト、ハッサン・エレル(Hasan Erel)氏は「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」と題して、「西洋中心の世界ではなく、アフリカ・ユーラシアを中心とした新しい多極的な世界秩序」の到来を予想している(ATASAM, September 28, 2023)。二月には欧州連合(EU)のジョセップ・ボレル外相が「西側優位の時代は確かに完全に終わった」と認めた。  内戦の危険性さえはらむ熾烈

          欧米支配終焉後の新秩序とは?

          維新の会と竹中平蔵

           維新の政策は自民党以上に、弱肉強食の競争原理に彩られている。  「維新八策」を見ればそれは一目瞭然である。次頁の表に示されるように、「維新八策」に掲げられた政策は、竹中平蔵氏・原英史氏共著の『日本の宿題』と見事に符合している。竹中氏が唱える、規制改革のための「事後チェックへの移行」、農業委員会改革、ライドシェア・民泊などのシェアリングエコノミーの推進、コンセッション方式による公共サービスの民営化、ベーシックインカムの導入、金銭解雇ルールの導入、道州制などが、ことごとく「維新

          民族派とヘイト

          大御心にお応えする─外国人から尊敬される日本人  国家安全保障の観点から日本国内に潜伏する海外テロリストに厳しく対処するのは当然のことである。また、日本の社会秩序、伝統文化を維持するためには、野放図な移民受け入れに反対しなければならない。しかし、民族派こそ排外主義やヘイトに陥ってはならないと思う。  大御心にお応えするという崇高な志を抱いていた戦前の民族派は、外国人から尊敬される日本人であろうと努めていた。頭山満らの玄洋社は、時に国家権力と対峙しつつも、欧米列強の植民地支配

          大川周明と平泉澄

           日本精神に開眼した大川周明は、国史尊重の姿勢を明確にするとともに、尊皇斥覇の考え方を展開するようになっていた。  大川は、『日本的言行』(昭和五年)において、保元平治の乱を経て、政権が武門に移るに及んで、朝廷における修史の御企てがなくなり、日本書紀の講義もなくなったと指摘した。そして、後醍醐天皇の建武中興による日本精神の勃興を称え、北畠親房の神皇正統記の重要性を強調した。  「神皇正統記は、建国の精神を明確端的に宜揚せる点に於て、真に空前の史書であり、平泉(澄)博士がい

          『扶桑七十年の夢』が示す大川周明・石原莞爾・蒋君輝三者会談の真実

           昭和十八(一九四三)年になると、大川周明は日本占領地域における経済政策を厳しく批判するとともに、中国民衆の惨苦を強調するようになる。この変化をもたらした要因の一つとして、石原莞爾らとの意見交換があったのではないか。そうした仮説に立ち、大川の日記を読み込んでいると、昭和十八年の年明け早々から動きがあったことがわかった。まず、日記を追ってみたい。 昭和十八年一月一日  「蒋君輝・川又務両君上海より上京の電報があつたので東京駅に迎へに往く。午後三時二十五分の富士で安着。中山優君

          『扶桑七十年の夢』が示す大川周明・石原莞爾・蒋君輝三者会談の真実

          「東洋文化の三聖人」─辜鴻銘・タゴール・岡倉天心

          西本白川と大川周明  東洋文明の復興を志した大川周明にとって「儒教的中華文明の復興」は重要な課題だった。大川は、ほとんど全ての民族にとって、人生全体の規範である「道」が、文化の発達に伴って宗教・道徳・政治の三つに分化したが、中国ではその三者が見事に純化されて儒教となったととらえていた(「支那問題に対する一考察」)。  そして大川は「人生を渾然一体として把握し、別に宗教・道徳・政治を分立せしめず、之を一個の『道』に綜合して、最も具体的に人格の成満を志すところに支那精神の比類な

          「東洋文化の三聖人」─辜鴻銘・タゴール・岡倉天心

          大川周明と張学良

          ■支那が真支那を、日本が真日本を回復  大川周明が、王道を指導原理として、支那が真支那を、日本が真日本を回復することを願っていたことは、昭和三(一九二八)年の張学良との会談に明確に示されている。  同年六月に父である張作霖が爆殺された後、張学良はその後継者として東北の実権を掌握していた。すでに大川は、同月に張の特使として日本を訪れた総司令部秘書の陶昭銘、前奉天模範隊長で当時総司令部顧問を務めていた黄慕と打ち合わせをし、張との会談の準備を進めていた。  大川は、同年九月十一日

          上皇后陛下が称えた緒方貞子氏のクルド難民救済

           令和3(1991)年の湾岸戦争直後、イラク北部に住んでいたクルド人は武装蜂起したものの、イラク軍に制圧され、わずか4日間のうちに180万人のクルド人がイランやトルコの国境地帯に逃れました。しかし、トルコが受け入れを拒否したため、彼らは前に進むことも戻ることもできない状況に追い込まれた。その数は約45万人に達していた。  国境地帯は岩山で、夜間の気温は氷点下という過酷な状況だった。こうした人々をどうするかという難題に、国連難民高等弁務官の緒方貞子氏は直面した。  難民条約(1

          上皇后陛下が称えた緒方貞子氏のクルド難民救済

          大川周明─王道アジア主義への回帰①

          過度の「日本的」思想と一線を画す  大川周明は、昭和十八年の時点で東條政権の覇道アジア主義を批判し、王道アジア主義への回帰の姿勢を鮮明にしていた。その際、大川はアジア諸民族が正しく日本を理解することを切に願っていた。大川は昭和十八年九月に執筆した「亜細亜的言行」で次のように説いている。  〈アジアの諳民族は、決して正しく日本を理解していない。支那人と言わずインド人と言わず、彼らが密室において互いに私語するところは、日本人の面前において声高らかに揚言するところと、甚だしき表

          大川周明─王道アジア主義への回帰①