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大川周明と平泉澄

 日本精神に開眼した大川周明は、国史尊重の姿勢を明確にするとともに、尊皇斥覇の考え方を展開するようになっていた。

 大川は、『日本的言行』(昭和五年)において、保元平治の乱を経て、政権が武門に移るに及んで、朝廷における修史の御企てがなくなり、日本書紀の講義もなくなったと指摘した。そして、後醍醐天皇の建武中興による日本精神の勃興を称え、北畠親房の神皇正統記の重要性を強調した。

 「神皇正統記は、建国の精神を明確端的に宜揚せる点に於て、真に空前の史書であり、平泉(澄)博士がいみじくも道破せる如く、前に遠く建国創業をのぞみ、後に遥に明治維新を呼ぶところの国史の中軸であります」

 さらに大川は、徳川時代の国史研究、国体思想の展開について次のように書いている。

 「徳川氏の史学奨励は大いに国史の研究を促し、水戸学の編修にかゝる大日本史を初め、保建大記・中興鑑言の如き、乃至は日本外史日本政記の如き、国民をして国体の本義を反省せしむる幾多の著書が世に現れ、ついに明治維新の機運を促進するに至つたのであります」

 こうした歴史を紹介した上で、大川は史学の消長と国家の盛衰とが常に相件うことを強調し、国史の研究が重要だと力説したのである。ここには、平泉澄の強い影響も窺うことができる。

 国史学の在り方そのものについても、大川は平泉から強い影響を受けていた。『日本的言行』には次のように書かれている。

 「吾等は……殊更切実に真個の国史学者、材料提供者に止まらざる真個の国史学者、大処高処に着眼して全体を正しく掴む国史学者の出現を翹望して止みませぬ。而して此の翹望は、文学博士平泉澄氏の努力によつて必ず満足せしめらるべきことを私は信じて居ります。私は先年平泉博士が発表せられたる『国史学の骨髄』と題する一篇を読んで至心に感激し、爾来今日に至るまで国史研究に於ける吾師と仰いで居ります。平泉博士の如き、史学者の出現によつて、国史は初めて生命を与へられ、新日本建設の生命の泉となり得るのであります」

 「国史学の骨髄」は、平泉が昭和二年八月に東大の『史学雑誌』に書いた論文である。大川と平泉の関係は、平泉が「国史学の骨髄」を沼波瓊音(武夫)の紹介によって大川に進呈したことから始まる。

 当時大川は四十歳、平泉は三十二歳だった。「国史学の骨髄」を読んだ大川の感激の大きさは、大川が平泉に宛てた書簡には明確に示されている。

粛啓 残暑堪へ難く候処、道体の安和一層に被在候趣、珍重至極に奉存候。陳者此度はからず御懇書と共に高著一篇恵投を忝うし、芳情不堪感激候。早速拝誦、敬嘆此事に御座候。独り史学と言はず、自余の諸学においても、老台の識見を抱いて精進する学者輩出するに非ずば、皇国真個の学は出現せずと奉存候。生亦下手の横好きにて、日本史の研究に甚大の興味を抱き居ることにて、虚空叫希有の歓喜を覚え申候。国史の研究に就て、向後はどうぞ生の導師たる労を賜はり度、不日更めて拝趨、御示教を仰ぐべく候へ共、不取敢書中御礼まで扨て匆々如是御座候。頓首

 (昭和二年)八月廿九日

 「国史学の骨髄」は、大川らの行地社機関誌『日本』昭和二年十月号にも転載されている。廣瀬重見氏が指摘しているように、大川と平泉の交流は、大川が亡くなるまで続いた。大川の墓銘もまた平泉の筆になる(廣瀬重見「平泉澄先生と大川周明博士」下『日本』平成十九年十一月号)。

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