水戸学と昭和維新運動②
雨谷毅の『尊王民本主義』
栗田寛は『神聖宝訓広義』を示して教育勅語起草に影響を与えるとともに、子弟教育によって水戸学の真髄を伝えようとした。明治七(一八七四)年頃には、水戸鷹匠町に私塾自彊舎を開設し、本格的に子弟教育に乗り出している。藩校弘道館の廃止後、欧米流の新教育に対抗し、水戸学の道統を伝えるためである。
さらに、明治十三(一八八〇)年一月には水戸大坂町に家塾「輔仁学舎」を開設している。この家塾で学んだ人物こそ、水戸学の思想を復興させることで昭和維新運動の気運を醸成した雨谷毅である。
雨谷は「尊王民本主義」こそが水戸学の神髄だと強調した。大正十(一九二一)年に著した『尊王民本主義 水戸学の神髄』(二鶴堂小倉出版部)では次のように述べている。
「尊王は民本を俟つて始めて生命があり、民本は尊王を俟つて始めて精神がある。二者実に不可分的関係の者である。……皇室も国民も元同一本(本支の分は儼なれど)のもので、君民一体と云ふ事実に根柢して居る事がそれである」
昭和三年には、水戸学派にとって特別な年となった。水戸学の源流義公の生誕三百年を迎えたからだ。雨谷は同年三月に『水戸学の新研究』(水戸学研究会)を著した。「二編 水戸学と社会政策」において「経済組織の考察」の一章を割いて、資本主義の弊害について詳しく説き、国家資本主義はどの国においても正しく、効果のあるものではないと説いた上で、次のように主張した。
「日本の如く真正の国家を本質とし、又個人主義的資本主義の悪弊甚だ深いものである場合に初めて、実行可能性と必要性とを生ずるものである。然らば日本に於ける国家資本主義の内容とは何か。その真の国家については岡井氏の論にも明らかなる如く王道的国家或は日本国体にもとづく国家である。換言かれば尊皇民本主義の本質に立つ国家である」
さらに雨谷は次のように説いている。
「我々は一方、真の国家を顕現せしむるに満腔の努力を払ふと同時に、他方その経済組織の欠陥を正すに全力を尽さねばならぬ、……深く世界の実勢を直視し、正義にもとづく国家資本主義を高揚し、内はその積弊を芟除すると同時に、国民生活の基礎を安定し、外は白人万能の利己的資本主義を制御する為に、諸アジア国家をもととする輩固なる自主的アジア経済聯盟を確立すべき時運の到来が左程遠は将来でない事を確信するのである」
このように雨谷は、水戸学の思想に基づいて、経済や外交のあるべき姿を示していたのである。
中央の愛国主義団体と連携した雨谷毅
雨谷毅と息子の菊雄の水戸学再興運動が、青年将校、橘孝三郎率いる愛郷塾、井上日召率いる血盟団が結集する上で重要な役割を果たしていたことは、津田光造が著した『五・一五事件の真相』に示されている。
〈血盟団と農民決死隊とを動員させたるも一つの大なる力は、実に水戸学研究会の創立とその強化拡大運動である。義公の精神たる尊王と農本主義の二大綱領を高く掲げて昭和二年から五年の八月頃まで大いに活動した。それがまた重大な刺激をあたへたものである。
昭和三年の春『水戸学を再検討、再建せよ』との叫びが、心ある青年たちによつてあげられた。水戸には義公がゐる、義公は水戸の大なるほこり、名誉である、水戸学は尊王農本の大精神に立つて資本主義経済機構のもとにあとかたもなくふみにじられた日本を真に救ふものでなくて何か。水戸学を再検討し義公精神を再建せよといふ叫びは、つひに水戸学研究の権威として当時水戸彰考館長たる雨谷毅を中心として一ケ月数回の会合を持つに至り、会の名も新水戸学研究会とつけたのである。
雨谷毅の息にして当時帝大文科に在学中の菊雄は父にもまさる水戸学研究家で、すでに早く一方の権威でもあつた。で、会の方はこの菊雄が牛耳り、父毅が後見役といふ形であつた。会員はそのころ十四、五名から二十名であつたであらう。
その頃、北京革命に参加した杉浦省吾が郷里の水戸にかへり雨谷方に寄寓してゐたが、彼はこの新水戸学研究会を一躍街頭に進出せしめんことを同志にすすめ、印度の革命家ラス・ビハリ・ボースの紹介でもつて満川亀太郎を雨谷菊雄に紹介し、これをもつて中央の愛国主義団体との関係連絡を成立せしめることになつたのである。
(中略)
昭和三年の春新水戸学研究会は街頭進出の第一声を県公会堂であげることとなり、峰田信吉が『義公について』、横山健堂が『義公の真価』、石川登が『立憲政治と義公』、高木清壽が『義公と社会的考察』、満川亀太郎が『義公の精神と社会維新』について講演するといふやうなプログラムであつた〉
橘孝三郎との連携
こうした水戸学再興運動こそ、橘孝三郎が求めていたものだった。実際、橘は『いはらき』新聞に昭和三年三月十三日~十七日に全四回にわたって「永遠なる義公」を掲載している。この連載は、山本直人氏、小野耕資氏によって発見され、『日本を救う農本主義』(望楠書房)にも収録されている。
『五・一五事件の真相』には、橘と水戸学研究会同志との合流についても次のように書かれている。
〈(昭和三年)八月の二十五日、義公に縁深き常盤公園内好文亭で小集会を催して中心同志の会合を行つたが、このときに水戸市外常盤村に兄弟村を建設し、農村の青年を熱心に指導してゐたのちに愛郷塾、農民決死隊を生んだその愛郷塾長の橘孝三郎が新たに出席し、水戸学研究会同志と橘とは完全に精神的提携合流をなし、意気大いにあがるものがあつた〉
さらに水戸学復興運動は、井上日召が求めていたものでもあった。
〈熱心な同志も集まるには集まつたが、といふてこの新水戸学研究会が一般社会の青年たちを動かすといふ程の力はまだ持つてゐないから、そこで何等かの方法によつてこれをより急速に一大発展強化せしめるの必要があつた。それがつひに会の創立一周年を経て四年の四月三日、県当局を動かして『日本偉人義公三百年祭講演会』となつた。このとき大洗の護国堂に同志と心をねりつゝ、何かしら時の到るのを待ちうけてゐた井上日召はこれをきくや双手をあげて大賛成、進んで研究会の運動に参加を申込んだばかりでなく、かつて秘書として世話を受けた陸軍中将貴族院議員坂西利八郎を説いて当日の講演に出場せしめた〉
しかも、この義公三百年祭講演会は、昭和維新運動に火をつけるものでもあった。
〈講演会がすむと水戸学復興会発会式が挙行され、従来の研究会は解消の形となつた。
この会合は意味ある会合であつた。情熱の井上日召、理智の橘孝三郎、悲憤の藤井大尉この三人の心が固く進み寄つた。口田康信、満川亀太郎、雨谷菊雄、みんなみんな固い握手を交した。感激の会合であつた。そして『昭和維新』! この合言葉が集まつた四十余名の心から自然に、しかも熱烈な口調でもつてほとばしり出でたのである〉
蹶起に至るまでには、さらに紆余曲折があり、その後水戸学復興会も分裂していくことになるのだが、水戸学の国体思想が、五・一五事件に参加する者たちを固く結びつける役割を果たしたことは間違いない。